著者
野澤 謙
出版者
Japanese Society of Equine Science
雑誌
Japanese Journal of Equine Science (ISSN:09171967)
巻号頁・発行日
vol.3, no.1, pp.1-18, 1992-09-30 (Released:2011-02-23)
参考文献数
103
被引用文献数
15 16

ウマの家畜化は,他種家畜のそれと同様,漸進的な過程として理解しなければならないが,BC3,000年前後に,東南欧の草原地帯を舞台にして,この過程は大きく進展したと考えられる。この家畜化中心地から東に向う家畜馬伝播の過程,特に蒙古馬成立に至るまでに,Przewalsky野生馬から遺伝子が流入した可能性がないとは言えない。 東亜と日本の在来馬の源流は疑いもなく中国在来馬であるが,中国在来馬には体型を異にした蒙古系馬と西南山地馬の2大類型があり,これらに,西域経由で導入されたアラブ・ペルシア系馬種が多かれ少なかれ遺伝的影響を与えている。中国在来馬の2大類型間の系統的関係については,それらの間の遺伝学的比較調査をおこなうことによって明らかにされよう。「2大類型」と言われてはいるが,西南山地馬が蒙古系馬が単に山地環境での駄載と輓用を主とする用役に適応して生じた矮小化型に過ぎない可能性もないとは言えない。 大陸部,島嶼部を問わず東南アジアの広域に分布する小型在来馬が,中国西南山地馬の系統につらなることに疑問の余地はいまのところない。この地域の現在の産馬は,植民地化の歴史のなかで,西欧系馬種の遺伝的影響を多少とも蒙っていると考えられる。 東北アジア,すなわち韓国や日本の諸在来馬種は主に蒙古系馬の系統につらなると考えられる。韓国済州島馬成立の歴史はこれを示唆しており,この馬種の成立の初期以来,小型化して現在に至っているという可能性がある。日本在来馬のうち南西諸島の小型在来馬が中国西南山地馬に由来するとの説については,この説が,縄文・弥生両期に,南西諸島を含む日本に馬産があったという推測に根拠を置いているところから見て,疑いなきを得ない。最近の考古学的発掘が,日本における馬産が古墳期以降に始まったことを物語っているとすれば,古墳期に朝鮮半島を経由して種々の文物を受け入れるなかで,蒙古系馬が輸入され馬産が始まったと推測する方がより合理的であろう。その場合,南西諸島の小型在来馬はもと本土より南下し,小型化したものと考えられる。ただし,この点については,遺跡から出土した馬骨の生存年代を化学的方法によって明らかにしたデータが蓄積するのを待って最終的判断を下すべきである。
著者
末崎 真澄
出版者
Japanese Society of Equine Science
雑誌
Japanese Journal of Equine Science (ISSN:09171967)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.1-23, 1993-09-30 (Released:2010-06-28)
参考文献数
54

馬の家畜化の始まりについては,ウクライナのデレイフカの遺物調査から,BC4,000年頃に馬が役畜として使用された可能性が高まつている。 一方,車馬の利用については,メソポタミアで,BC4,000年紀のウルクIVa層出土の絵文字にその車輪の表現が見られる。その後シュールのウル王朝の資料等には,板を用いた車輪が見られ,戦車にもう少し機動力をもたせたスポーク式車輪が登場するようになった。このような車輪の改良,方が多い。 ところでオリエントでは,伝統的にやロバに車を引かせており,馬への騎乗も,牛ロバへの騎乗に続くものであった。そしてBC1,500年頃から,騎馬の風習がユーラシアの草原士帯から伝播し,西アジアでもルリスタン青銅器戈化の金属の馬性の銜が発明されると,より力の強い馬の制御も一段と有利となった。 オリエントでは車行に遅れて導入された騎行も,しだいに周辺の文明圏,エジプト,ギリシア,そしてインドへと伝播していった。 これらの車行・騎行の様子は,アッシリアや古代ギリシアの美術・考古資料に数多く表現されており,また実際の車馬の遺物も出土している。 さてユーラシアの草原地帯では,BC2,000年紀には騎行が盛んになったと考えられているが,文献上に登場するのは,ずっと後のことである。BC8世紀頃からアッシリアの文献に記されたキンメル人,続いてBC7世紀には本格的な遊牧騎馬民族スキタイが登場する。このような遊牧騎馬民族は,ユーラシアのステップ地帯の東西に興り,黒海周辺ではスキタイ,サルマタイ,中央アジアにはサカ,月氏,そして東は匈奴などが勢力を奮った。これらの騎馬民族の生活,習俗は,黒海周辺やアルタイ山中の多くのクルガン(墳墓)出土の黄金製品などに見ることができる。 中国での馬の家畜化は,神話によると夏王朝以前にさかのぼるとされるが,殷商代(BC1,500年)以前に考古学的な証拠はないとされる。そして実際の馬車は,河南省安陽市から殷商代のものが見つかっており,また同時代の甲骨文字には,既に馬車の表現が見られる。 ところで東アジアの馬車は,基本的には西アジアの馬車と一致するが,馬車のスポークは東アジアのものに多数のスポークが見られ,とくにステップ地帯にはその古い証拠が発見されている。この馬車は,中国で周代に発展を遂げ,秦代にはその頂点とも言える始皇帝の銅車馬が出土している。この後,中国を統一した漢は,伝統的な重装歩兵と戦車から成る軍隊を改革,同様な騎馬軍団を組織,ついにBC101年には,西方の汗血馬,または天馬と呼ばれる名馬を入手する。その名馬の図像は,以降,壁画や俑に多く表現されるようになった。 朝鮮半島へも中国の影響が見られ,楽浪郡跡から車馬具が出土している。一方,半島北部は,北方からの騎馬民族の影響を受けていたと考えられるが,半島でも三国時代(高句麗,新羅,百済)に入ると騎馬の風習が盛んになる。その様子は高句麗壁画に見られ,実際の馬胄も出土。そしてこの馬胄やその他の馬具は,5世紀以降には,日本にも伝えられるようになった。こうしてもたらされた馬具は,その後の日本の馬具の文化を開花させることとなった。 最後に,このたび美術・考古資料により古代の騎行・車行について,紹介してきたが,馬と人間の織りなす壮大な歴史や文化を紹介するには,やや図版不足が否めなかった。但し,近年の研究成果も含めて,その一端なりとも紹介できたと思う。 ところでそれぞれの資料に表わされた馬の図像については,誇張されたり,形式化されたものも多い。また馬と人間の歴史を見ても,馬は,当時の支配者達によって求められ,何十回となく移動され,改良されたことが文献上からも推測される。 よって今後は,近年著しく発展を遂げた科学技術を用いた考古学的なアプローチと併せ,文献上による人の手に成る移動も抑えながら,古代の馬の実像と,騎行・車行の歴史に迫まれることを望みたい。
著者
柴田 眞美
出版者
Japanese Society of Equine Science
雑誌
Japanese Journal of Equine Science (ISSN:09171967)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.45-54, 1993-09-30 (Released:2010-06-28)
参考文献数
12

本研究では,体表のレリーフ表現について調べた前報に引き続いて,古今東西の造形作例(267作例)に描かれたウマのポーズについて,独自の指標を用いて実際のウマの歩行運動中の位相と比較し,その表現方法の特性について検討した。 分析指標を作成するために,数頭の実馬に各種の歩行運動をさせ,それをVTRカメラで撮影した。その映像からウマの動作を1コマ毎(30Hz)に作図し,こたらの位相を着地肢の組合せによって分類し,作例分析のための指標とした。各作例について,そこに描かれたウマの着地肢の組合せ,四肢の配置パターン,そして全体の姿勢,の3つの視点から分析指標と照合し,描かれた歩法とその四肢の位相を判定した。 その結果,全体の83%にあたる222作例が,分析指標のいずれかの位相に分類する事ができた。また,描写頻度の高さから判断して,造形上で好まれるポーズは,次に示すグループとして捉えることができた;両後肢で立ち上がっているポーズ,対角前後肢が着地している速歩のポーズ,四肢全てが地から離れているリーピングギャロップもしくは同じ位相の飛越のポーズ,1方の前肢と両後肢が着地している常歩のポーズ,両後肢が着地しているリーピングギャロップもしくは同じ位相の飛越のポーズ,の5ポーズ,あるいはこれらに類似したポーズである。一方,造形表現上であまり用いられないポーズは,四肢すべてが着地している駈歩のポーズ,両前肢と一方の後肢が着地している常歩もしくは同じ位相の駈歩のポーズ,対角前後肢が着地している駈歩もしくは同じ位相の襲歩のポーズ,両前肢が着地しているリーピングギャロップもしくは同じ位相の飛越のポーズ,一方の前肢が着地している襲歩,同じ位相のリーピングギャロップ,もしくは同じ位相の飛越のポーズであった。 さらに,時代あるいは地域別にその作例を検討した結果,美術解剖学の分野で「詩的真実」と呼ばれている「造形表現と実体との相違」について考察する際に大変興味ある問題がいくつか提示された。
著者
保地 真一 崔 龍鎬 Joachim W. BRAUN 佐藤 邦忠 小栗 紀彦
出版者
Japanese Society of Equine Science
雑誌
Japanese Journal of Equine Science (ISSN:09171967)
巻号頁・発行日
vol.4, no.2, pp.145-150, 1994-03-31 (Released:2011-11-29)
参考文献数
21
被引用文献数
4 4

ウマの屠場卵巣からの卵子の採取効率,ならびにそれらの体外培養における第2減数分裂中期への成熟率に影響を及ぼす要因を検討した。卵胞吸引法では1年の試験期間を通して一定の卵子数(卵巣当たり1.3-1.6個)が採取されたが,卵胞吸引に続いて行った卵巣細切法では春季と冬季の卵巣から効率よく卵子が回収された。両法により採取された一卵巣当たり卵子数は,春季(3-5月)で平均5.8個,夏季(6-8月)で3.6個,秋季(9-ll月)で4.0個,冬季(12-2月)で5.1個となった。ウマの品種に関しては軽種馬よりも重種馬の卵巣から多くの卵子が採取された(卵巣一個当たりそれぞれ4.4個,7.6個)。いずれの品種においても屠殺時のウマの年齢は卵子の採取率に影響を及ぼさなかった。春季と冬季の体外成熟率(それぞれ55.5%,58.3%)は夏季や秋季のそれ(それぞれ64.4%,65.7%)とのあいだに有意な差はなかったが,若干低くなる傾向が認められた。軽種馬と重種馬から採取された卵子の体外成熟率には差は認められなかった(それぞれ53.7%,58.7%)。卵巣の保管時間についてはウマの屠殺から卵子採取までの時間が3時間のときの卵子の成熟率は62.3%であったのに対し,6時間で45.0%,9時間で30.4%に低下した。培養小滴当たりの卵子数はそれらの成熟率に影響を及ぼさなかった(卵子数が1-5個のとき55.1%,6-10個のとき56.3%,11-15個のとき50.8%)。ウシ胎子血清の存在下では58.1%の卵子が成熟したが,ウシ血清アルブミンや無血清下でさえそれぞれ62.1%,65.3%の成熟率が得られた。培養気相は成熟率に影響を及ぼさなかった(5%CO295%空気で60.6%に対し,5%CO2 5%02 90%N2 で53.6%)。
著者
中西 信吾
出版者
Japanese Society of Equine Science
雑誌
Japanese Journal of Equine Science (ISSN:09171967)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.13-15, 1991-03-31 (Released:2010-06-28)

馬の受胎率が牛に比べ低いことは,これまでの報告から明らかであるが,その理由は,主として馬の繁殖生理上の特異性にあるものと考えられる。 我国における近年の軽種馬の繁殖に関するデータは,毎年,日本軽種馬協会から刊行される軽種馬生産統計に1年間の交配牝馬頭数と子馬生産頭数が掲載されるに過ぎず,そのほかの詳細なデータは公表されていない。馬の生産率の向上が可能か否かを検討するためには,馬の繁殖の現状を把握することが不可欠である。 今回,軽種馬の近年の繁殖状況を明らかにするために,日本軽種馬協会の内部資料と同協会軽種馬改良情報システムのデータを基に,1984~1988年の軽種馬繁殖成績の分析を試みた。なお,繁殖牝馬の産歴に関しては,日本軽種馬登録協会の血統書を用いて検索した。 調査対象は,日本軽種馬協会所属の種牡馬延べ151頭で交配した延べ4,009頭の繁殖牝馬であった。その内訳は,サラブレッド延べ3,741頭,アングロアラブ延べ246頭,アラブ延べ20頭およびサラブレッド系延べ29頭であった。各牝馬の繁殖成績から,受胎率,生産率,および生産に関する損耗率を算出した。なお,本調査では,分娩後3カ月以上生存した子馬を正常産駒として取り扱った。したがって,正常産駒を分娩した場合を生産とし,妊娠と診断されたが生産しなかった場合(胎子死滅,流産,死産,産後直死など)を損耗とした。 得られた結果の大要は,以下に示すとおりである。
著者
末崎 真澄
出版者
Japanese Society of Equine Science
雑誌
Japanese Journal of Equine Science (ISSN:09171967)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.1-23, 1993

馬の家畜化の始まりについては,ウクライナのデレイフカの遺物調査から,BC4,000年頃に馬が役畜として使用された可能性が高まつている。 一方,車馬の利用については,メソポタミアで,BC4,000年紀のウルクIVa層出土の絵文字にその車輪の表現が見られる。その後シュールのウル王朝の資料等には,板を用いた車輪が見られ,戦車にもう少し機動力をもたせたスポーク式車輪が登場するようになった。このような車輪の改良,方が多い。 ところでオリエントでは,伝統的にやロバに車を引かせており,馬への騎乗も,牛ロバへの騎乗に続くものであった。そしてBC1,500年頃から,騎馬の風習がユーラシアの草原士帯から伝播し,西アジアでもルリスタン青銅器戈化の金属の馬性の銜が発明されると,より力の強い馬の制御も一段と有利となった。 オリエントでは車行に遅れて導入された騎行も,しだいに周辺の文明圏,エジプト,ギリシア,そしてインドへと伝播していった。 これらの車行・騎行の様子は,アッシリアや古代ギリシアの美術・考古資料に数多く表現されており,また実際の車馬の遺物も出土している。 さてユーラシアの草原地帯では,BC2,000年紀には騎行が盛んになったと考えられているが,文献上に登場するのは,ずっと後のことである。BC8世紀頃からアッシリアの文献に記されたキンメル人,続いてBC7世紀には本格的な遊牧騎馬民族スキタイが登場する。このような遊牧騎馬民族は,ユーラシアのステップ地帯の東西に興り,黒海周辺ではスキタイ,サルマタイ,中央アジアにはサカ,月氏,そして東は匈奴などが勢力を奮った。これらの騎馬民族の生活,習俗は,黒海周辺やアルタイ山中の多くのクルガン(墳墓)出土の黄金製品などに見ることができる。 中国での馬の家畜化は,神話によると夏王朝以前にさかのぼるとされるが,殷商代(BC1,500年)以前に考古学的な証拠はないとされる。そして実際の馬車は,河南省安陽市から殷商代のものが見つかっており,また同時代の甲骨文字には,既に馬車の表現が見られる。 ところで東アジアの馬車は,基本的には西アジアの馬車と一致するが,馬車のスポークは東アジアのものに多数のスポークが見られ,とくにステップ地帯にはその古い証拠が発見されている。この馬車は,中国で周代に発展を遂げ,秦代にはその頂点とも言える始皇帝の銅車馬が出土している。この後,中国を統一した漢は,伝統的な重装歩兵と戦車から成る軍隊を改革,同様な騎馬軍団を組織,ついにBC101年には,西方の汗血馬,または天馬と呼ばれる名馬を入手する。その名馬の図像は,以降,壁画や俑に多く表現されるようになった。 朝鮮半島へも中国の影響が見られ,楽浪郡跡から車馬具が出土している。一方,半島北部は,北方からの騎馬民族の影響を受けていたと考えられるが,半島でも三国時代(高句麗,新羅,百済)に入ると騎馬の風習が盛んになる。その様子は高句麗壁画に見られ,実際の馬胄も出土。そしてこの馬胄やその他の馬具は,5世紀以降には,日本にも伝えられるようになった。こうしてもたらされた馬具は,その後の日本の馬具の文化を開花させることとなった。 最後に,このたび美術・考古資料により古代の騎行・車行について,紹介してきたが,馬と人間の織りなす壮大な歴史や文化を紹介するには,やや図版不足が否めなかった。但し,近年の研究成果も含めて,その一端なりとも紹介できたと思う。 ところでそれぞれの資料に表わされた馬の図像については,誇張されたり,形式化されたものも多い。また馬と人間の歴史を見ても,馬は,当時の支配者達によって求められ,何十回となく移動され,改良されたことが文献上からも推測される。 よって今後は,近年著しく発展を遂げた科学技術を用いた考古学的なアプローチと併せ,文献上による人の手に成る移動も抑えながら,古代の馬の実像と,騎行・車行の歴史に迫まれることを望みたい。