著者
横田 蔵人
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.61-82, 2018-03-23

In the second part of his Summa Theologiae, Thomas Aquinas mediates a conflicts between two ideals of human excellency, the magnanimitas and humiltias. The ideal of magnanimitiy is quintessence of elitism in ancient Greek political society, which praises the man of pride and self-esteem who also contemns the inferior persons lacking meritorious characters. Aristotle glorifies this virtue in the Book IV of his Nicomachean Ethics as a summit and ornament of the all virtues; this promotion was troublesome among the medieval Christian intellectuals, because such ideal of human excellency seems highly incompatible with the virtue of humiliats, typically Christian virtue of the man of self-humiliation, gentle and humble in heart. ST. Thomas analyses these two virtues in his Summa and determines and redefines their proper functions in total system of morality. Magnanimity is now classified under the virtue of fortitude and humility is installed in a subclass of temperance. The function of the former class of virtues is to agitate and encourage wimpy will-power, whereas the latter restraints and repress excessive appetite. The two virtues are twin necessary parts, an accelerator and break controlling and adjusting human motivation. However, in his reconcilliation of the two virtues, Angelic Doctor seems downgrades the ideal of humility from the level of the gifts of Divine grace infused into the Christians, to the level of only human excellency accessible to even pagans beneath the limits of natural capacities. Does Aquinas dismiss the religious dimension of the virtue of humility in order to reconcile it with the pagan Greek morality? In this article, we investigate the essence of Aquinas's concept of humility and try to manifest its preconditions. According to St. Thomas, the essential condition of humility is "reverence for God' inherent in human nature. In other words, Aquinas admits that the humanity is created as naturally religious. St. Thomas downgrades the status of humility to the level of human nature, as well as he upgrades the human nature to the transcendent dimension. Humility as the just conduct vis-à-vis God is now reinterpreted by Angelic Doctor as a virtue of common religious humanity.
著者
Ogawa Hitoshi
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.35-47, 2018-03-23

In this article, first of all, I want to propose the possibility of "anime philosophy" as a new genre. When we hear the word "philosophy," we usually think of reading difficult classic books. Especially in academic society, this is a mainstream idea. However, philosophy has more possibilities because it means seeking the essence through thinking. In that sense, we could philosophize not just by reading difficult books, but by watching anime films, as well. Indeed, some kinds of anime works are more philosophical than traditional philosophy books. Miyazaki Hayao's anime films are such examples because they always make me philosophize about his deeper thoughts behind his work. Second of all, in order to prove my hypothesis, I want to focus on the concept of "neighborness," as the essence of Miyazaki's anime. One of my intentions is to propose neighborness as a global philosophy which was born in Japan and could be applied even in the global society. In the end, I want to broaden my horizons to world peace. The world is suffering from some persistent global issues, including wars, terrorist attacks, environmental problems, and poverty. I truly believe anime philosophy as symbolized by the concept of neighborness will solve those problems. We shouldn't face the problem directly all the time. We sometimes need to neighbor each other. This brings us to a completely new perspective.
著者
周藤 多紀
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.1-25, 2013

In this paper, I discuss commentaries on Nicomachean Ethics in 13th century Europe to show the significance of an anonymous commentary on Nicomachean Ethics in the ms. Worcester Cathedral Library, Q. 13. The question-commentary has characteristics similar to those once called "Averroistsʼ commentaries", i.e., the Ethics commentaries written by Parisian masters of arts in the late 13th century. There are, however, elements peculiar to the Worcester commentary and aspects that resemble work written by John of Tytynsale, a contemporary Oxford master of arts. Hence, I conclude that the Worcester Ethics Commentary was probably produced at Oxford. I believe that a critical edition and a study of this ignored Ethics commentary will shed a light on the teaching of philosophical ethics in late 13th century Oxford, of which little is known.
著者
上野 修
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.6, pp.35-74, 1997

Paradoxalement, le Traité théologico-politique de Spinoza s'est attire le blâme le plus furieux des cartesiens hollandais de son temps qui soutenaient, de même que Spinoza, tant la liberté de philosopher contre l'intolérance théologique que la séparation entre la théologie et la philosophie. Ce paradoxe s'explique par l'étrangeté frappante de l'exégèse biblique ou de la "théologie" redéfinie de Spinoza qui propose de ne pas présupposer dans le verbum Dei aucune "vérité des choses." Cette proposition, bien que faite sincèrement pour libérer ces intellectuels de la tâche désespérément conflictuelle de réconcilier la raison avec la foi au niveau de la vérité, ne fit que soupçonner l'artifice d'un athée pour ruiner l'authorité biblique. Spinoza en est pourtant sérieux: il atteste et accepte l'authorité par le fait que l'Écriture, en ce qui concerne de l'enseignement moral, et qui d'ailleurs coïncide avec la raison dans la pratique, s'est perpétuellement gardée contre toute falsification, et cela, en réalité, grâce à la puissance de la multitude (termes à apparaître dans le dernier Traité politique) qui ne sauraient rien de la vérité des choses. La notion de la fonction propice de la non-vérité dans l'histoire est donc ce qui lui permet de concevoir l'entre-deux qui est le dehors aussi bien de la théologie que de la philosophie, dehors où s'exerce pleinement la puissance de la Nature-Dieu.
著者
柏木 寧子
出版者
山口大学哲学研究会
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.13, pp.31-51, 2006

『神道集』物語的縁起の一つ「諏方縁起」が語るのは、主人公甲賀三郎諏方が人としての生を経て、諏方大明神として顕れるまでの過程である。この過程は、妻と生別した諏方が妻を恋慕し、夫婦再会を求めて遥かな時空間を渡る流離として具体化される。諏方が神として顕れ得るのは、諏方が仏への途上の存在であることによる。諏方が仏への途上の存在である得るのは、諏方が恋慕する存在であることによる。諏方において、恋慕は仏道修行である。仏道修行としての恋慕を示唆する観点として、第一に、恋慕の苦が仏道修行に入り進むための機縁になる、とする観方がある。第二に、夫婦の関係性を全うすることが自己の宿業の知をもたらす、という観方がある。第三に、これは本文に明示的に言及されているわけではないが、遥かな時空間を渡り恋慕の一念を貫く諏方の在りようと、久劫に及ぶ六道輪廻を経て成仏の初志を遂げる菩薩の在りようとの相似性を挙げることができる。遥かな時空間を渡る流離はまた、諏方の一身上、一回的なる経験としての限定性を超え、人々の共有し得る意味を帯びるようになる。諏方は、恋慕する存在の典型と見做されるに至る。「諏方縁起」はその終極において、一方で仏への途上の存在としての諏方像を、他方で恋慕する存在の典型としての諏方像を完成する。諏方はこの時、人々に対し超越的でもあり、内在的・再来的でもある場処を獲得する。即ち、一方で諏方は仏を志して人々に優る歩みを重ね、人々にとって避け難い夫婦の関係性の危機を既に超え得たと解される。他方でまた諏方は、人々の存在の現実相と、その現実相の延長上に到達し得るものとしての真実相をともに身を以て具現し、今に至るまで人々に開示し続けていると解される。ここに諏方が神として顕れる可能性ならびに必然性が成立する。
著者
松本 正男
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-30, 1996

ヘーゲルの体系期「論理学」は、そもそも何であるのか。この総括的解釈の問題には、いくつかの接近路が可能であろう。拙論の眼目は、カントの超越論的論理学との関連という観点から、この「論理学」を、特に「主観的論理学」に重点を置いて、再考することにある。ヘーゲル「論理学」には隅外的な立場から有効に読み替えようという試みが為されることがあるが、その意義はどうであれ、私見によれば、「論理学」は、先ずそれ以前に、まだそれをそれとして適正に理解することが要求されている解釈段階にある。そのためには、それを哲学史的連関の内に、特にひとまずドイツ観念論内部に適切に位置づける必要があり、そしてそのためには、前記の観点からの検討が、決して十分ではないが、しかし不可欠な要件であると思われる。ただし拙論は、単に文献的照合によって、とりわけヘーゲルのカント批評の枠内で、両者の連関を確認しようとするものではない。私見によれば、事柄自身における両者の連関は、主にヘーゲルの側からの部分的に不適切な、或いは少なくとも偏向的な批判と、関心範囲の制限によって、必ずしも十分に明らかになっていない。このことは、カント解釈者のカント解釈によりも(彼らはヘーゲルの批判を殆ど意に介していない)、むしろ跳ね返って、ヘーゲル解釈者のヘーゲル解釈に、看過できない支障をもたらしているように思える。拙論は、こうした事情を踏まえて、カント「超越論的論理学」とヘーゲル「論理学」のあいだの思想内実の継承史の研究に、一灯を投じようと試みる。こうした主題研究は、単にカント、へーゲルの哲学史的解釈にだけでなく、超越論的論理学の可能性に関する体系的研究に大きく資するであろう。しかし本格的な遂行のためには、言うまでもなく、一論文をはるかに超える規模の労力を必要とする。拙論は、むしろ就緒のための一灯として、ひたすら確かな研究プログラムの設定を目指すものである。
著者
奥津 聖
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.19-45, 2001

初期ルネッサンスのある時期から、絵画の中に文字を描くことはタブーとなった。遠近法的絵画は自然らしさを追及するものであったからである。二十世紀の欧米の前衛藝術はこのタブーに兆戦した。コンセプチュアル・アーティストたちはついには言語のみを用いた視覚藝術を生みだすに至る。藝術は一行の文章に集約されるというわけである。1989年『中国現代藝術展』でデヴューした中国人アーティストの多くも言語をテーマにする作品を発表し始めた。しかしかれらの作品のコンセプトは欧米のそれとは別のコンテクストから生み出されたものである。この論文では、主として徐冰の作品を取り上げて、かれの問題の所在を内在的に考察することを通じて、かれの作品が言語の構造、言語の本質を問うものであり、言語の構造としての視覚藝術を成立させようとするものであることを明らかにする。 これは「イメージの解釈学の成立」における言語とイメージの問題を考察するための新たな素材を発掘する試みでもある。
著者
遠藤 徹
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-52, 1994

「真の幸福を得ようとするならば、Xせよ。」(α) カントはαは道徳的命法ではあり得ないと主張したと思われるが、拙稿「仮言命法は法則であり得ないか」(以下「仮言命法論文」と略記)が取り上げようとした問題は、第一次的には、αは果たして本当に道徳的命法たり得ないか、であった。 カントが「実然的」(assertorisch)仮言命法と呼んだものがαだと思われるが、彼は仮言命法は法則たり得ず、又道徳法則たり得ない、ただ定言命法則だけがそうであり得る、と主張した。上記拙稿は仮言命法は法則たり得るはずであること、又αも、それに対して義務から従うことは可能である限りで、従ってその限りでカント自身のものさしに照らして、道徳的命法であり得るはずであることを示すことに努めた。そればかりでなく、そもそも具体的な道徳的命法はカント自身においても仮言形式とならざるを得ないのではないかと述べて、道徳的命法が定言命法だとの彼の主張に根本的疑問を向けると共に、もしこうして定言命法のみが道徳的命法であるとのカントの主張が崩れるとしたしたら、彼の倫理学の体系はどのような修正を迫られるはずであるかを大づかみに予測した。―以上が上記論文のあらましである。 この我々の疑問を深化することは二つの方向を取り得るであろう。一つは、仮言命法が道徳法則であり得る可能性を一層具体的に追究することであり、もう一つは、定言命法が道徳法則であり得る可能性を吟味することである。本稿はこの二つの道のいずれにおいても一歩推し進めることに努めたい。前者の道では、上記論文への疑問・再考点にも考慮を払いながら、道徳的命法としてのαの可能性を追究する。後者の道では、約束に関する義務の根拠の検討を通して、定言命法の基本定式が果たして真に道徳法則であり得るか、根本的疑問を提示することに努めるつもりである。
著者
奥津 聖
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.27-52, 2002

この論文は、山口大学哲学研究第10巻p.19-44の奥津聖『言語の構造としての視覚藝術』に依拠している。ただその中から徐冰の〈天書〉、〈新英字書道〉シリーズ、〈身外身〉の三作品に焦点をあて、それらの関係性に新たな考察を加えている。また前回の考察において保留されていた「四つの要素の一種の混成」という問題について更なる検討が加えられた。 この英文は、「2002亜細亜藝術學會 韓國大会會」(釜山廣域市2002年9月15日-18日)での発表のための草稿である。 日本文は、前回と重複するところもあるが、進展した考察もかなりあると思うので参考として付すことにする。 図版は重複を避けたので、前著の図版も参照されたい。その多くを徐冰のホームページ、 Xu Bing's Homepage: http://www.xubing.com/ http://virtualchina.org/archive/leisure/art/xubing.html http://www.chinese-art.com/volume1issue4/xubing.htm等に依拠している。 現在、拡大図版は入手不可能になっているものも多い。