著者
奥津 聖
出版者
山口大学
雑誌
一般研究(C)
巻号頁・発行日
1985

『預言者ヨナの幻視-ミケランジェロのシスティナ礼拝堂天井画の構造について-』と題して『山口大学「文学会志」』に研究成果を現在連載中であるが, 枚数の制約もあって研究の現状に発表が追いつかない状態にある. 今年度の研究は上記連載とは別の形で『幻想天井画論』と題して美学会誌『美学』に発表する予定である. 二年間に亙るシスティナ礼拝堂天井画のイコノロジカルな画面内容の意味の解釈とイコニカルな画面構成そのものがもたらす新たな意味の摘出を踏まえて, 今年度の研究の主たる目的はこの特殊な幻想天井画の歴史的な系譜の探究に置かれた. その結果, 従来考えられてきたミケランジェロのバロック天井画への影響は本質的なものではなく, むしろ時代と場所を遥かに超えて, 南ドイツのバロケットの画家たちに受け継がれていることが判明した. 具体的にその一例を挙げれば, アルダースバッハの前シトー派修道院教会の長堂のアザム兄の手になる大天井画『聖ベルンハルトのクリスマスの幻視』がそれである. 「システィナ礼拝堂天井画に本質的な二重の意味構造を摘出し, 隠されたメイン・テーマを明らかにする」という当初の課題はほぼ達成されたが, 「この研究過程の美学的反省によって, 図像の意味内容の解釈学と構造自体の意味の解釈とを総合する方法論の模索」という第二の最も困難な課題は今後の課題として依然として残されている. 研究の方位が幻想天井画の系譜とその構造の分析にまで拡大されたため, 雑誌論文の制約の中で全てを発表することに著しい不都合を感じている. 研究成果の最終的な取り纏めは雑誌論文とは形式を別にして『預言者ヨナの幻視』と題して一冊の著書の形で公表する予定である.
著者
金田 晋 樋口 聡 原 正幸 奥津 聖 菅村 亨 青木 孝夫 外山 紀久子 松本 正男
出版者
東亜大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2000

21世紀の初頭にあたって、アジア美学は、世界美学の多元化のもとで、辺境の地位から表舞台に登場した。そのような比較美学の視点から、アジアの藝術思想を事象に即して再検討し、新しい問題地平を開発しようとした。1)「藝術」という西欧近代美学で形成された枠を突破する必要がある。それは高級な教養としての藝術を娯楽に向かって開放する(シュスターマン教授を共同研究者として示唆を得た)。それはまた美的という価値概念をエポケーして、生の感性をむき出しにすることとも通じる。アジアの身体思想から新たな身体・感性論を開拓せんとした(樋口聡等)。2)訓練、練磨は、西欧美学においては新しい技術を身につけるための準備を意味していた。だが東洋で、それは座禅が端的に示しているように、何よりも身体から日常生活の惰性や先入観を洗い落とし、無の境地を開くための身体的行為であった(青木孝夫等)。3)感性的図式としての時間と空間は、西欧近代美学においてはっきり区別され、とくに言語は時間的継起において捉えられてきた。それに対して、東洋の漢字に代表される言語観において、書字は言語的行為にどこまでも浸透し、空間的並列として直観されるところに特色をもつ。カリグラフィーが言語の新しい可能性を開拓する(奥津聖等)。4)諸藝術ジャンルについての、事象に即した研究。中国の音楽(原正幸等)、日本近代の人形劇(澤井万七美)、絵画(菅村亨等)、色彩問題(金田)。スタッフ外から西アジアの工芸の発表(福田浩子)。5)古代ギリシャの陶器画に見られるアジアのイメージについての実証的研究(長田年弘)。現代の演劇パフォーマンスにおけるアジア・イメージ(外山紀久子)。アジアは内なる者の自覚としてだけでなく、他者によって作り上げられたイメージとしても捉えられるべきである。そこにはナショナリズムの問題も加わるであろうし、また共同研究に参加された藤川哲による、現代芸術におけるアジア・ブームの分析。
著者
奥津 聖
出版者
美学会
雑誌
美学 (ISSN:05200962)
巻号頁・発行日
vol.29, no.3, pp.47, 1978-12-30 (Released:2017-05-22)

1. ερμηνευσι〓 als die Handlung des Dichters Obgleich der Dichter auch den "ερμηνευ〓" oder "ερμηνευτη〓" schon lange von Platon gennant werden hatte, wurde seine Handlung im Hinblick auf ερμηνευσι〓 weder von Aristoteles noch von seinen Zeitgenossischen thematisiert. Was bedeutet dies? 2. ερμηνεια als die Funktion des Logos Die privilegierte Funktion des Dichters, der als Vermittler des Gotteslogos seinen Standort vertikal in der Mitte bestimmt wurde, wurde von Aristoteles zu der Logos-struktur selbst verallgemeinert. Sie ist das aufweisende Sehenlassen, das heisst die der horizontalisierten ερμηνεια. 3. ενεργεια als der Geschichtspunkt der aristotelischen Hermeneutik Die doppelte Horizontalisierung der ερμηνεια leitet Aristoteles in die Wege zur Thematisierung der aktuellen hermeneutischen Problematik, paradoxikalerweise durch die Vernachlassigung der Frage nach ερμηνευσι〓 als die Handlung des Dichters. Das Sein der menschlichen Sachverhalten, die nur von apophantischer Erklarung (ερμηνεια) nicht so genau verstand werden konnten, forderte ihm die Umwandelung des Gesichtspunktes. Gadamer hat die hermeneutische Aktualitat des Aristoteles in der eigentumlichen Seinsweise seiner Phronesis-Lehre entdeckt. Aber das ist nur ein ausgezeichnetes Beispiel. Wir konnen die hermeneutische Umdrehung im Kern seiner philosophierenden Methode allgemein finden. Sie wird als die des Gesichtspunktes von ερμηνεια zu ενεργεια formuliert. Sie ist das Verfahren, das von Wirklichkeitszusammenhangen abstrahierte Logos uberhaupt an die hermeneutische Situation wieder zuruckzuziehen. Danach konnen wir das gennante Sachverhalt reinigen und ousiologisch definieren.
著者
奥津 聖
出版者
美学会
雑誌
美学 (ISSN:05200962)
巻号頁・発行日
vol.29, no.1, pp.11-23, 1978-06-30 (Released:2017-05-22)

In der Poetik des Aristoteles wird η〓ο〓 als ein Teil der Tragodie nur eine sekundare Stellung eingeraumt. Daher wird die Tatigkeit des η〓ο〓 innerhalb der aristotelischen Tragodienlehre nicht so hoch geschatzt wie die der μυ〓ο〓-πραξι〓 Struktur. Nach [table] Aristoteles bezeichnet der Begriff η〓ο〓 im weiteren Sinne einen Bereich menschlichen Wesens, der einer Beurteilung (κρινειν) unterliegt, d. h. die Wesensart des Menschen oder die Seinsverfassung des Seienden in der Welt (Polis). Auf Grund von dieser eigentliche aristtelische Bedeutung des Wortes versuchen wir die Tatigkeit des η〓ο〓 als einen Anlass zur asthetische Beurteilung der Tragodie nachzuprufen. Die Steigerung zur schone Mimesis wird in drei Stufen vollgebracht, also schematisiere ich den Schluss der Untersuchung (s. Figur). Der eigentliche Gegensatz steht in der Unterschied zwischen (1) und (3). Er besteht aber weder zwischen Wirklichkeit und Idealitat noch zwischen Wahrheit und Schonheit, sondern in der Doppelseitigkeit innerhalb der Wirklichkeit oder der Wahrheit.
著者
奥津 聖
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.19-45, 2001

初期ルネッサンスのある時期から、絵画の中に文字を描くことはタブーとなった。遠近法的絵画は自然らしさを追及するものであったからである。二十世紀の欧米の前衛藝術はこのタブーに兆戦した。コンセプチュアル・アーティストたちはついには言語のみを用いた視覚藝術を生みだすに至る。藝術は一行の文章に集約されるというわけである。1989年『中国現代藝術展』でデヴューした中国人アーティストの多くも言語をテーマにする作品を発表し始めた。しかしかれらの作品のコンセプトは欧米のそれとは別のコンテクストから生み出されたものである。この論文では、主として徐冰の作品を取り上げて、かれの問題の所在を内在的に考察することを通じて、かれの作品が言語の構造、言語の本質を問うものであり、言語の構造としての視覚藝術を成立させようとするものであることを明らかにする。 これは「イメージの解釈学の成立」における言語とイメージの問題を考察するための新たな素材を発掘する試みでもある。
著者
奥津 聖
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.11, pp.27-52, 2002

この論文は、山口大学哲学研究第10巻p.19-44の奥津聖『言語の構造としての視覚藝術』に依拠している。ただその中から徐冰の〈天書〉、〈新英字書道〉シリーズ、〈身外身〉の三作品に焦点をあて、それらの関係性に新たな考察を加えている。また前回の考察において保留されていた「四つの要素の一種の混成」という問題について更なる検討が加えられた。 この英文は、「2002亜細亜藝術學會 韓國大会會」(釜山廣域市2002年9月15日-18日)での発表のための草稿である。 日本文は、前回と重複するところもあるが、進展した考察もかなりあると思うので参考として付すことにする。 図版は重複を避けたので、前著の図版も参照されたい。その多くを徐冰のホームページ、 Xu Bing's Homepage: http://www.xubing.com/ http://virtualchina.org/archive/leisure/art/xubing.html http://www.chinese-art.com/volume1issue4/xubing.htm等に依拠している。 現在、拡大図版は入手不可能になっているものも多い。