著者
金田 晋 樋口 聡 原 正幸 奥津 聖 菅村 亨 青木 孝夫 外山 紀久子 松本 正男
出版者
東亜大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2000

21世紀の初頭にあたって、アジア美学は、世界美学の多元化のもとで、辺境の地位から表舞台に登場した。そのような比較美学の視点から、アジアの藝術思想を事象に即して再検討し、新しい問題地平を開発しようとした。1)「藝術」という西欧近代美学で形成された枠を突破する必要がある。それは高級な教養としての藝術を娯楽に向かって開放する(シュスターマン教授を共同研究者として示唆を得た)。それはまた美的という価値概念をエポケーして、生の感性をむき出しにすることとも通じる。アジアの身体思想から新たな身体・感性論を開拓せんとした(樋口聡等)。2)訓練、練磨は、西欧美学においては新しい技術を身につけるための準備を意味していた。だが東洋で、それは座禅が端的に示しているように、何よりも身体から日常生活の惰性や先入観を洗い落とし、無の境地を開くための身体的行為であった(青木孝夫等)。3)感性的図式としての時間と空間は、西欧近代美学においてはっきり区別され、とくに言語は時間的継起において捉えられてきた。それに対して、東洋の漢字に代表される言語観において、書字は言語的行為にどこまでも浸透し、空間的並列として直観されるところに特色をもつ。カリグラフィーが言語の新しい可能性を開拓する(奥津聖等)。4)諸藝術ジャンルについての、事象に即した研究。中国の音楽(原正幸等)、日本近代の人形劇(澤井万七美)、絵画(菅村亨等)、色彩問題(金田)。スタッフ外から西アジアの工芸の発表(福田浩子)。5)古代ギリシャの陶器画に見られるアジアのイメージについての実証的研究(長田年弘)。現代の演劇パフォーマンスにおけるアジア・イメージ(外山紀久子)。アジアは内なる者の自覚としてだけでなく、他者によって作り上げられたイメージとしても捉えられるべきである。そこにはナショナリズムの問題も加わるであろうし、また共同研究に参加された藤川哲による、現代芸術におけるアジア・ブームの分析。
著者
松本 正男
出版者
山口大学
雑誌
山口大学哲学研究 (ISSN:0919357X)
巻号頁・発行日
vol.5, pp.1-30, 1996

ヘーゲルの体系期「論理学」は、そもそも何であるのか。この総括的解釈の問題には、いくつかの接近路が可能であろう。拙論の眼目は、カントの超越論的論理学との関連という観点から、この「論理学」を、特に「主観的論理学」に重点を置いて、再考することにある。ヘーゲル「論理学」には隅外的な立場から有効に読み替えようという試みが為されることがあるが、その意義はどうであれ、私見によれば、「論理学」は、先ずそれ以前に、まだそれをそれとして適正に理解することが要求されている解釈段階にある。そのためには、それを哲学史的連関の内に、特にひとまずドイツ観念論内部に適切に位置づける必要があり、そしてそのためには、前記の観点からの検討が、決して十分ではないが、しかし不可欠な要件であると思われる。ただし拙論は、単に文献的照合によって、とりわけヘーゲルのカント批評の枠内で、両者の連関を確認しようとするものではない。私見によれば、事柄自身における両者の連関は、主にヘーゲルの側からの部分的に不適切な、或いは少なくとも偏向的な批判と、関心範囲の制限によって、必ずしも十分に明らかになっていない。このことは、カント解釈者のカント解釈によりも(彼らはヘーゲルの批判を殆ど意に介していない)、むしろ跳ね返って、ヘーゲル解釈者のヘーゲル解釈に、看過できない支障をもたらしているように思える。拙論は、こうした事情を踏まえて、カント「超越論的論理学」とヘーゲル「論理学」のあいだの思想内実の継承史の研究に、一灯を投じようと試みる。こうした主題研究は、単にカント、へーゲルの哲学史的解釈にだけでなく、超越論的論理学の可能性に関する体系的研究に大きく資するであろう。しかし本格的な遂行のためには、言うまでもなく、一論文をはるかに超える規模の労力を必要とする。拙論は、むしろ就緒のための一灯として、ひたすら確かな研究プログラムの設定を目指すものである。