著者
モルナール レヴェンテ
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.33-50, 2021-03-31

ハンガリー出身のタル・ベーラは世界的に知られている映画作家ではあるが,1989年前の作品群,とりわけ1977年の長編デビュー作『ファミリー・ネスト』とそれに続く『ザ・アウトサイダー』(1980年)と『プリファブ・ピープル』(1982年)は十分に研究されているとは言い難い。その原因の一つは,当時の映像を入手し確認することは非常に困難という現実的なことだが,理論上の問題もある。それらの作品は形式上で当時のドキュメンタリー映画運動に属しているため,分析するにあたって,その映画運動も精査する必要がある。1970年代において,バラージュ・ベーラ撮影所(本稿はBBSと略記する)所属の若手映画監督らは,社会主義国家ハンガリーの「人生の現実」を洗い出そうとしていた。そのために,社会科学の調査方法を最大限に活かした独特な映画形式を創り上げた。監督上昇を目ざしたタル・ベーラ自身もその表現形式を採用した。以上により,本稿の目的は二つある。まずは,BBSのドキュメンタリー映画形式〈社会(科学)主義映画〉の特質に触れる上で,初期タルのナラティヴ,演出,カメラワーク,編集等々を分析する。さらには,デビュー作『ファミリー・ネスト』にみられる映画空間の問題をめぐって,タルの独特な映画的世界を構築する方法がすでに本作品においてすら ─その胚型であるが─ 姿をみせていることを明らかにする。
著者
大谷 貫太郎
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.121-135, 2023-01-31

本論文の目的は,メタ倫理分野における「進化論的暴露論証(Evolutionary Debunking Argument:EDA)」の性質を明確化したうえで,論証を成立させるために,EDAの支持者が今後応答しなければならない問題を提示することである。一般的にメタ倫理分野におけるEDAが突出した試みであると考えられている理由は2つある。1つ目は進化生物学や進化心理学などの近年の科学的知見に基づくアポステリオリな懐疑論証である点である。2つ目は,道徳的信念全体をターゲットとするグローバルな懐疑論を導出することを目的とする,野心的試みである点である。このような性質をもつEDAが成立した場合,道徳的真理が客観的に存在すると主張する道徳的実在論に対する新たな強力な批判となると考えられている。だが,EDAを構成する,それぞれの前提には様々な問題が指摘されている。それらのなかでも特に重要であるのが,論証を成立させるに十分な証拠を提示できているのか,という経験的な問題,そして道徳的信念全体の正当性を掘り崩すことを目的にしていながら,論証の成立のためには道徳的真理に関する想定を必要とする矛盾があるのではないか,という構造的問題である。最後に両問題について検討したうえで,EDAの支持者がこれらの問題の両方に応答できなければ,EDAはアプリオリな懐疑論証か,より広範な懐疑論証に崩壊してしまう可能性が高いことを論じ,現時点では道徳的実在論に対する独自の批判にEDAはなりえていないと結論付ける。
著者
泉 瞳
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.89-110, 2022-01-31

近年日本では英語教育の改革が進められており,その一環として英語が2020年度から小学校教育課程において5,6年生で教科化され,3,4年生では必修となった。しかし教授法に関しては,従来から行われているPPP型(presentation-practice-production)の演繹的指導が現在も主流であり,平易な項目から学習を開始し,徐々に難易度の高い項目を積み上げるものとなっている。PPP 型のような積み上げ型の指導法は,日本のような外国語環境では,学習した内容について,実生活での十分な言語使用経験が得られないため,基礎力が定着しないことが問題となっており,日本人の英語力が伸びない要因の1つと考えられている。 そこで本研究では,認知言語学が提唱する使用依拠モデル(Usage-based model)を基盤とした母語習得研究に着目し,PPP 型積み上げ式の指導法に代わるものとして,母語習得プロセスを援用した英語指導法について,観察に基づき考察を行った。複数の研究によると,言語習得は言葉の固まりから始まることが明らかになっている(Hakuta 1974, Tomasello 1992, 2003,Wong-Fillmore 1976,橋本2007,2008,2018)。観察した指導法でも,学習開始時から64の構文という「言葉の固まり」を言語材料として使用し,母語習得のプロセスに倣って豊富なインプットを与えることにより,外国語環境においても帰納的に英語を習得することが可能であり,固まりからの習得は第二言語習得でも有効であることが確認できた。従来からの積み上げ型とは逆の発想である「固まりから始める英語指導法は,児童の学習適性にかかわらず習得を容易にするものであり,そのための条件を提示する。
著者
中村 建
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.111-123, 2023-01-31

有島武郎の戯曲「死と其前後」は従来、作者自身及び病死した作者の妻に関する伝記的事実に大きく傾斜した研究が多くを占めている。また、この作品の解釈も前述の事実を踏まえた上で死に対する夫婦の愛の勝利といった見方が主流であり、テクストに即した研究が不足していると言わざるを得ない。そこで本稿では、特に同時代においてなされた夫婦の「愛の勝利」という解釈が、近代日本におけるメーテルリンク受容と関わりのあったものであることを示すとともに、テクストに即して「愛の勝利」の内実を明らかにする。後年、「メーテルリンクの季節」と呼ばれた当時、三角関係を題材とした『アグラヴェーヌとセリセット』がしばしば話題され、有島も小説に引用し、「死と其前後」への評価でも引き合いに出されるほどであった。しかし当時の受容は、難解な戯曲の内実を深く理解していたものというよりも、戯曲というジャンルが運命や人の内面を直感的に表現できるという一種の神秘主義的なものであり、そのような文脈の中で「死と其前後」も受容されたのであった。次に、夫婦の愛について戯曲のテクストに即して分析を試みる。この戯曲は「愛の勝利」として評価されてきた一方、その愛について否定的な評価も根強い。筆者はこれを愛を相対化する回路として評価しつつ、有島の「恋愛の多角性」の主張との関連から考察を試みる。有島は晩年、同時に複数の人物に恋愛するという「恋愛の多角性」を唱えていた。劇中、何人もの女性に誘惑を感じてきたことを告白する夫は、そのような有島の後年の主張を予期させるものである。また、夫からの愛を疑う瀕死の妻へのそのような夫の告白は、妻との愛を確認しつつもその愛の不可能性を露呈するものである。以上の内容から、「死と其前後」における愛の勝利と不可能性は、有島が自己と他者の同化を唱えた一方で認識を自己批判するような晩年への変遷を予見させるものであると言える。
著者
一瀬 真平
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.111-122, 2022-01-31

アメリカの南北戦争は,当時,イギリスの人々の関心事となっていた。しかし,英国作家チャールズ・ディケンズは,彼が監修する雑誌『一年中』の中でその話題を扱うことを抑制し,自身もその戦争について語ることを控えていた。本論では,この戦争と関連するテーマが,南北戦争期に発表された彼の作品の中に密かに刻まれている可能性に着眼したい。南北戦争中にイギリスの雑誌や新聞などでしばしば議論された話題に,アメリカの奴隷制への批判や,イギリスでの綿花不足の問題(アメリカ南部から綿花の輸入が途絶えることに関する危機感)がある。1860-1861 年に書かれた『大いなる遺産』には,どうもこれらの話題が潜んでいるようなのだ。本稿は,南北戦争がディケンズの作品執筆に与えた影響について述べていきたい。
著者
西本 優樹
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.17-33, 2019-12-20

ジョン・サールは,『社会的世界の制作』において,一枚の紙片が一万円札であることのような制度的事実は「宣言」と呼ばれる言語行為の一類型により創出され,それは我々を当該の事実の内容に従った仕方で行為させる義務論的力を持つと主張している。本稿では,サールの議論に提起されてきた,行為者が制度に従う際の行為の動機づけを十分に説明できていないという批判に対して,サールの議論を言語行為の規範性に基づきそうした動機づけを説明する,言語論的な合理主義として特徴づけることを通じて応答する。その上で,そのように言語論的な合理主義として理解されるサールの議論が,彼の本来の目的である制度的世界と自然科学的な世界を整合的に説明するという試みと緊張関係にあることを,同じく言語論的な合理主義として理解される推論主義の視点から指摘する。
著者
小林 知恵
出版者
北海道大学大学院文学院
雑誌
研究論集 (ISSN:24352799)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.35-49, 2019-12-20

S. ブラックバーンの準実在論は,態度の投影という考えを経由することによって,道徳的性質や道徳的事実の存在を前提とすることなく,私たちの道徳的実践を説明することを目指すプログラムである。彼は道徳的言語実践の説明に際して,道徳的言明の意味論的機能は態度の表出であるとする表出主義を採用する。しかし,表出主義の妥当性は長らく現代メタ倫理学上の一大トピックとして盛んに論じられ続けており,近年では表出主義の難点を解消する代替案として様々なタイプのハイブリッド表出主義が提唱されている。本稿では,ブラックバーンの純粋な表出主義とM. リッジが提唱したハイブリッド表出主義の相違点を明らかにし,ブラックバーン流の表出主義がハイブリッド表出主義に取って代わられるべきではない理由を,彼の理論内部の整合性という観点と,ハイブリッド表出主義自体が抱える難点に基づいて提示する。