- 著者
-
谷 謙二
- 出版者
- The Association of Japanese Geographers
- 雑誌
- 日本地理学会発表要旨集
- 巻号頁・発行日
- pp.100007, 2016 (Released:2016-04-08)
1.はじめに 日本の大都市圏の発展過程に関しては,すでに多くの研究がなされてきたが,戦前から戦後への継続性については十分に検討されていない。戦時期をはさむこの間には,軍需産業を中心として重化学工業化が進展したが,その立地についても大きな変化が起こったと考えられる。そこで本研究では,1930年から40年にかけての東京市を対象として,工業立地の変化,人口郊外化さらに通勤流動の変化の関係を明らかにする。区間通勤データとして1930年は「東京市昼間移動調査(昭和五年国勢調査)」を用い,1940年は「東京市昼間移動人口(昭和十五年市民調査)」を国勢調査で補って用いた。工業に関しては,「東京市統計年表」の区別工業統計を用いた。2.東京市の人口増加と工業立地 東京市内での人口増加の推移をみると,1930年,35年,40年の人口は,それぞれ499万人,591万人,678万人と,10年間で189万人もの急激な増加を示した。旧市域は,1930年時点で既に大部分市街化していた。1930年には旧市域・新市域の人口はそれぞれ207万人,292万人だったが,1940年にはそれぞれ223万人,455万人と,新市域の人口が圧倒的に多くなった。1930年代には人口の郊外化が進展したことがわかる。次に工業の立地について1932年,36年,40年の工場従業者数の変化を検討したところ,この間の東京市の工場従業者数は,23万人,39万人,67万人と増加し,特に36年以降の増加が著しいのは日中戦争の進展により軍需産業が急拡大したためである。人口と同様,旧市域での増加は小さく,蒲田区など城南地域を中心とした新市域での増加が顕著である。3.通勤流動の変化 従業地ベースでの就業者数の変化を検討すると,1930年時点では,旧市域での就業者が多かった。特に流入超過数が多い区は,現在の都心三区に含まれる麹町区,神田区,日本橋区,京橋区,芝区である。特にビジネス街の丸の内や官庁街の霞ヶ関を抱える麹町区は,11万5千人の就業者のうち区外からの流入者が9万3千人を占め,流入超過数は8万9千人を数える。一方新市域では流入超過を示す区は見られない。1940年になると,周辺部での就業者の増加が著しく(図6),中でも蒲田区の増加率は300%を超えている。その結果,就業者数をみると旧市域で133万人,新市域で143万人と,新市域と旧市域の就業者数が逆転し,人口に続いて雇用の郊外化が進展した。新市域においては,工場の増加した城東区,品川区,蒲田区で流入超過に転じた。1930年代は都心へ向かう通勤者も増加したが,それ以上に新市域での工場の立地が進んでそこへの通勤者も増加し,通勤流動は複雑化した。 これを男女別にみると,男性就業者が新市域で増加した工場に向かったのに対し,女性就業者は都心方向に向かっており,男女間で異なる傾向を示している(図1)。4.おわりに 1920年代は,郊外住宅地の開発が工業の郊外化よりも早く進んだ時期だったが,1930年代で,特に日中戦争が始まって以降は,工業の立地の郊外化が住宅地の郊外化よりも進んだことが明らかとなった。そのため,通勤流動では都心に向かう通勤者だけでなく,郊外間の通勤者や郊外に向かう通勤者も増加して複雑化した。また,男性では新市域に向かう通勤者が顕著に増加したのに対し,女性は都心へ向かう通勤者が増加した点が特徴的である。