著者
吉海 直人
出版者
京都
雑誌
同志社女子大学大学院文学研究科紀要 = Papers in Language, Literature, and Culture of the Graduate School of Doshisha Women's College of Liberal Arts (ISSN:18849296)
巻号頁・発行日
no.17, pp.19-29, 2017-03

百人一首業平歌の初句に関して、「ちはやふる」と清音で読むか、「ちはやぶる」と濁音で読むかという問題が存する。従来は全日本かるた協会の読みを尊重して、「ちはやぶる」と読むことが通例だった。ところが最近「ちはやふる」というマンガが流行したことにより、書名と同じく清音で読むことが増えてきた。そこであらためて清濁について調査したところ、『万葉集』では濁音が優勢だったが、中古以降次第に清音化していることがわかった。業平歌は『古今集』所収歌であるし、まして百人一首は中世の作品であるから、これを『万葉集』に依拠して濁音で読むのはかえって不自然ではないだろうか。むしろ時代的変遷を考慮して「ちはやふる」と清音で読むべきことを論じた。
著者
丸山 敬介
出版者
京都
雑誌
同志社女子大学大学院文学研究科紀要 = Papers in Language, Literature, and Culture of the Graduate School of Doshisha Women's College of Liberal Arts (ISSN:18849296)
巻号頁・発行日
no.16, pp.1-38, 2016-03

『月刊日本語』(アルク)全291冊を分析し、「日本語教師は食べていけない」言説の起こりと定着との関係を明らかにした。 創刊直後の88~89年、日本語学校の待遇が悪くてもそれは一部の悪質な学校の問題であって、それよりも日本語教師にはどのような資質が求められるかといった課題に興味・関心が行っていた。ところが、91年から92年にかけて待遇問題が多くの学校・教師に共通して見られる傾向として取り上げるようになり、それによって読者たちは「食べていけない」言説を形作ることになった。 90年代後半には、入学する者が激減する日本語学校氷河期が訪れ、それに伴って待遇の悪さを当然のこととする記事をたびたび掲載するようになった。「食べていけない」が活字として登場することもあり、言説はより強固になった。一方、このころからボランティア関係の特集・連載を数多く載せるようになり、読者には職業としない日本語を教える活動が強く印象付けられた。 00に入ってしばらくすると、「食べていけない」という表現が誌上から消えた。さらに10年に近くなるにしたがって、日本語を学びたい者が多様化し、教師不足をいく度か報じた。しかし、だからといって教師の待遇が目立って好転したわけではなく、不満を訴える教師は依然として多数を占めていた。そう考えると、言説はなくなったのではなく、むしろ広く浸透し一つの前提として読者には受け止められていたと考えられる。
著者
丸山 敬介
出版者
京都
雑誌
同志社女子大学大学院文学研究科紀要 = Papers in Language, Literature, and Culture of the Graduate School of Doshisha Women's College of Liberal Arts (ISSN:18849296)
巻号頁・発行日
no.15, pp.25-61, 2015-03

巷間、「日本語教師は食べていけない」といわれることがあるが、この言説が生まれたのは90年代初頭である。それ以前にも非常勤で日本語を教える人たちを指して同じようなことがいわれることがあったが、関係者の間に限られ広く流布されていたわけではない。いわれるようになった理由は、不法滞在者を防ぐために法務省が入国審査を厳格化した結果、数多くの日本語学校の経営が悪化、倒産・閉校が相次ぎ方々で教師の労働条件悪化が起きたからである。 その後、震災・サリン事件、アジア通貨危機、「10万人計画」失敗などが重なり、90年代の後半にはこの言説が日本社会に定着したものと思われる。それには、バブル崩壊後の日本社会全般の閉塞感・ニューカマー対象のボランティア日本語指導の広がりも雰囲気として作用したものと考えられる。
著者
モンポウ フラダリック ブランカフォルト マヌエル 椎名 亮輔
出版者
京都
雑誌
同志社女子大学大学院文学研究科紀要 = Papers in Language, Literature, and Culture of the Graduate School of Doshisha Women's College of Liberal Arts (ISSN:18849296)
巻号頁・発行日
no.16, pp.39-84, 2016-03

現代カタルーニャを代表する作曲家、フラダリック・モンポウ(1893~1987)とマヌエル・ブランカフォルト(1897~1987)の青年時代の往復書簡を紹介する。1918 年から1921 年6 月までの分は『同志社女子大学総合文化研究所紀要』第32 巻(2015 年)に、また1921 年7 月から1924 年7 月までの分は『同志社女子大学学術研究年報』第66 巻(2015 年)に掲載されている。 1924 年から1925 年にかけて、モンポウは31 歳から32 歳、ブランカフォルトは4歳年下だから27 歳から28 歳である。すでにモンポウの作品は、1921 年にパリで演奏され評価されていたが、ブランカフォルトは生まれ故郷のバルセロナ北郊の温泉地ラ・ガリーガで、父から任されているロール・ピアノ工場を切り盛りして行かなければならず、自由にバルセロナに「下りて」行くこともかなわないのだった。 モンポウは前年から続いている、パリ在住のスペイン人既婚夫人マリアとの恋愛関係に悩んでいる。しかしまた、留守がちなマリアの夫の不動産業の手伝いをしたり、子どもたちの面倒を見たり、それなりに家庭的な幸福を味わってもいる。またこのころに、バルセロナの友人、アウゼビ・カルニセロEusebi Carnicero と一緒にフランスのアイスクリームをバルセロナで売るという事業を思い付いて、実行に移そうとする。 一方、ブランカフォルトは、彼の名を国際的に広めた〈軽業師のポルカPolka de l'equilibrista〉を含む曲集《遊園地El parc d'atraccions》を作曲している。ブランカフォルト財団ほかの年譜では、この曲集は、1924 年にリカルド・ビニェスRicardo Viñes(カタルーニャ語ではRicard Viñes)によってパリで初演された、とされる(http : //www.manuelblancafort.org/esp/biografia/ など)が、ブランカフォルトの1924 年11 月13 日の書簡54 によれば、この時点で彼はまだこの曲集を書き上げていない。2007 年にバルセロナでビニェスについての大規模な展覧会が催されたが、そのときのカタログの年譜の部分を見てみると、ブランカフォルトのこの作品(同時にモンポウの《魅惑Charmes》も)がビニェスの手によってパリで初演されたのは、1926 年となっている(Ricard Viñes : El pianista de les avantguardes, Fundació Caixa Catalunya,Barcelona, 2007, p.243.)。そして、ビニェスによる録音は、1929 年11 月4 日パリのコロンビア社のスタジオで行われている(同時に、曲集第1 曲の〈騎馬パレードのオルガンL'orgue dels cavallets〉も録音されている)(Mildred Clary, Ricardo Viñes : Un pèlerin de l'Absolu, Actes Sud, Arles, 2011, p.294.)。
著者
安永 美保 中村 祐美 小坂部 悟美
出版者
京都
雑誌
同志社女子大学大学院文学研究科紀要 = Papers in Language, Literature, and Culture of the Graduate School of Doshisha Women's College of Liberal Arts (ISSN:18849296)
巻号頁・発行日
no.13, pp.53-70, 2013-03

『河海抄』は貞観元年 (1362年) 頃に四辻善成によって作られた『源氏物語』の注釈書であり、源氏学初期の集大成で、以後の注釈の規範的位置を示すものである。『河海抄』執筆の基本的姿勢は『源氏物語』を歴史の中に置き、いかにその文章や構想が歴史的事実に依拠したものであるかを詳細に説明している。特に、本報告で扱った「料簡」はその性格が強く、「いづれの御時にか」で繙かれる『源氏物語』の虚構世界を「醍醐・朱雀・村上天皇」の三代の御代に設定し、主人公光源氏の解釈も実在の歴史上の人物に依ることで、新たな『源氏物語』の読みを展開している。こういった視点は原典をより深く読むための手掛かりとなる。 そこで、本稿では同志社女子大学図書館蔵本を底本として、演習に参加した大学院生を中心に『河海抄』の翻刻と注釈を行った。今回の報告ではその中の「序」と「料簡」を掲載する。
著者
吉海 直人 YOSHIKAI Naoto
出版者
京都
雑誌
同志社女子大学大学院文学研究科紀要 = Papers in Language, Literature, and Culture of the Graduate School of Doshisha Women's College of Liberal Arts (ISSN:18849296)
巻号頁・発行日
no.13, pp.1-14, 2013-03

『百人一首』に「暁」は一例(三〇番)しか詠まれていないが、勅撰集の詞書に戻すともう二例(三六・七一番)が浮上する。さらに「あさぼらけ」(三一・五二・六四番)・「よもすがら」(八五番)も対象となる。その他、「嘆きつつ」(五三番)・「やすらはで」(五九番)を含めて、「暁の時間帯」が内包している様々な問題点を分析してみた。その結果、暁の始まりは日付変更時点であることから、男女の「後朝の別れ」の時間帯と重なること、暁の前半は真っ暗だが、後半(あさぼらけ)は次第に明るくなっていること、だからといって「明く」を安易に夜が明けると解するのは危険であることを論じてみた。また暁の到来は視覚ではなく聴覚で察知したこと、視覚としては「有明の月」が象徴的に描かれていることも指摘した。百人一首はもちろんのこと、「暁の時間帯」の重要性はもっときちんと認識・把握されるべきである。
著者
吉野 政治 YOSHINO Masaharu
出版者
京都
雑誌
同志社女子大学大学院文学研究科紀要 = Papers in Language, Literature, and Culture of the Graduate School of Doshisha Women's College of Liberal Arts (ISSN:18849296)
巻号頁・発行日
no.17, pp.1-17, 2017-03

仏典では死の状態を「木石のごとし」と言い、漢籍では「人、木石にあらず」と言う。仏典や漢籍では木石は非情のものの譬喩である。しかし、古来日本では木も石も人間と同じく情を持つ存在であるとする考え方がある。したがって、我が国に取り入れられた「木石、心を持たず」「人、木石にあらず」という句は、仏典や漢籍において持つ生そのものを否定したり、非情のものとして拒絶したりするような深刻さを持たず、修辞として利用される傾向にある。
著者
稲垣 信子
出版者
京都
雑誌
同志社女子大学大学院文学研究科紀要 = Papers in Language, Literature, and Culture of the Graduate School of Doshisha Women's College of Liberal Arts (ISSN:18849296)
巻号頁・発行日
no.13, pp.37-51, 2013-03

昭和四十八年に発掘され「誈阿佐ム加ム移母」といった句が含まれる木簡は、近江大津宮時代のものとされているが、訓点の起源、句の形の訓点形式、「誈」の字体、「動詞終止形+ヤモ」の形からその可能性は低いと考えられる。また、yaの用字に用いられた「移」は、出土周辺遺跡の特徴から渡来系集団に用いられていたものであることを推定する。
著者
稲垣 信子 INAGAKI Nobuko
出版者
京都
雑誌
同志社女子大学大学院文学研究科紀要 = Papers in Language, Literature, and Culture of the Graduate School of Doshisha Women's College of Liberal Arts (ISSN:18849296)
巻号頁・発行日
no.13, pp.37-51, 2013-03

昭和四十八年に発掘され「誈阿佐ム加ム移母」といった句が含まれる木簡は、近江大津宮時代のものとされているが、訓点の起源、句の形の訓点形式、「誈」の字体、「動詞終止形+ヤモ」の形からその可能性は低いと考えられる。また、yaの用字に用いられた「移」は、出土周辺遺跡の特徴から渡来系集団に用いられていたものであることを推定する。