著者
池田 碩
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.8, pp.p48-59, 1979-12

調査地は島根県西部の日本海に臨む益田市沖約1kmの海底である.この付近の海底には,南北約600m・東西約400m位の海蝕台状の高まりがあり,地元では「大瀬」と呼ばれている.その水深は最浅部で4mであるが,おおむね陸側で7m,沖側では10m程である.また,この400m程東方にも,より小規模な同様の高まりがあり,大瀬に対して小瀬と呼ばれている.伝承では,ここはかつて鴨島と呼ばれるところであったが,万壽3(1026)年の大地震と津波のあと消滅したといわれてきた.この地には他にも地震にまつわる伝承が多い.そこで,今回大瀬を中心とした海底の探査を行なうことによって,この地がかつては島であったことの裏付けとなるようなものの発見,ないしは何らかの手がかりをつかむことを意図して調査が進められた.調査は,梅原猛京都芸術大学学長をリーダーとして,1977年7月16日から26日にかけて,プロのダイバーや同水中カメラマンをはじめ,NHKの水中テレビ撮影チーム等を含め,かなりの大所帯で進められた.筆者は地質・地形分野を担当した.なお,この調査は継続される予定であったので,次年度調査を意識して進めアこものであったが,しばらく年月をおくことになっだので,この際1977年度の調査で得られだ結果,および海底の状況を資料として一応整理し,報告しておくことにした.特に,大瀬の性格を示す特徴ある地質・地形として,大瀬の基盤をなす岩質とは異なる安山岩を主とした円礫の存在,および submarine pothole (臨穴)と同 mushroom rock (木の子状岩)の発見について報告し,これらの地形的意義を明らかにし,前述の目的に対する1~2の堆論を試みてみた.さらに,このような海底調査は個人では到底行なえないため,我国では2~3の特殊な内容を有する地域を除きまだほとんど進められていない.そのような点からも今回報告しておく意義があるものと考える.
著者
大町 公
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.34, pp.101-115, 2006-03

上田三四二は生涯に二度大病を患った。四二歳で結腸癌を患い、一度は生を諦めた。上田にとって、死は存在の消滅を意味した。「死後」は考えられなかった。どの宗教をも信じることができなかったのである。上田は幸いにも生き延びることができた。再出発に当たり、『徒然草』から「生き方の極意」を学んだ。その後、ジャンケレヴィッチ『死』に出会い、「死のむこう側の死」に関心を拡げる。また、自然の中に超自然の可能性を見ることを教えられる。上田は五十代後半、兼好を離れ、西行、良寛へと傾斜していく。二度目の大病は、六十歳での前立腺癌である。「三四二晩年」とはこれ以降を指す。その死生観は、良寛の二つの歌、「つきて見よひふみよいむなやここのとをとをと納めてまたはじまるを」と「沫雪の中にたちたる三千大千世界 またその中に沫雪ぞ降る」に見られる時間論と空間論を骨格にして作られている。
著者
千原 美重子
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.38, pp.127-136, 2010-03

学校臨床心理士(SC)52人に質問紙調査を実施した。年齢は20代から60代以上、SC歴も1 年から18年と多様な属性を有していた。学校で実施している活動は、不登校対応が100%、発達障害の対応は96.2%、友人関係90.4%、家庭問題は86.5%と非常に高い活動項目であった。いじめへの対応は3.5%、継続的な面接は46.2%とそう高いとはいえなかった。生徒・保護者への対応としては面接が高い率を占めている。管理職や教員、養護教諭に対しては情報提供となっており、コンサルテーション機能が高いことを示している。他機関との連携として医療機関や適応指導教室が高い。発達障害や情緒的不安定などにかかわり医療に紹介状を提出し、適応指導教室に関しては不登校対応の連携をしている。コミュニティの社会的資源を把握してきたことを示すものである。今では教育相談部会(委員会)には8割以上のSCが関わっている。緊急支援は34.6%のSCが経験していたが、SC歴が6年以上のものが多くの緊急事例の事例を担当している。スクールカウンセリングは、特殊な臨床活動であると同時に、他の心理臨床の視座と共通するものも大切にし、生徒の発達支援をすべきである。
著者
長坂 成行
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.32, pp.59-74, 2004-03

島津家本『太平記』は、江戸前期の『参考太平記』で異本校合の対象となった写本で、また巻一を中心とした特異な詞章が注目され『太平記抜書』の類も作成された。が以後、長く所在不明でその全貌は明らかでなかった。薩摩の『島津家文書』は東京大学史料編纂所に一括して収められており、その中に当該写本が存在することを、近時確認した。小稿は島津家本『太平記』の本文の特徴について巻ごとに調査したものである。その結果、巻一は他本のどれとも同定できない独自の本文を持つが、巻二以降は古態本の中の神宮徴古館本と同じ系統であることが明らかになった。本稿は巻二十までの報告である。後半の調査の結果も今回の結論と矛盾しない。