著者
松前 健
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.23, pp.p75-96, 1995-03

鎌倉時代の軍記物、室町時代の謡曲、舞の本、それから江戸時代の浄瑠璃、歌舞伎に至るまで、民衆の英雄として、人気の的であった人物の一人は、悪七兵衛景清であった。景清の史実性についての確実な資料は乏しく、『吾妻鏡』などにも、その名は現れない。ただ十二巻本の『平家物語』では、八島合戦のとき、美尾谷十郎との一騎打ちの中で、豪快なシコロ引きの話が語られる位で、そのほかは、大勢の平氏の武者の中に、その名をつらねるだけで、それほどの武将とも思われない。
著者
木田 隆文
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.29, pp.190-166, 2021-01

" 漢口(武漢)日本租界に関する研究は、これまで政治史や建築・都市研究の分野で一定の成果が挙げられてきたものの、居留民社会、特にその文化面の研究は資料不足も相俟ってほとんど進展がなかった。 しかし先ごろ稿者は、漢口で発行された文学雑誌『武漢歌人』および『武漢文学会雑誌 武漢文化』の二誌を入手した。両誌は現地居留民が結成した文学者団体、武漢歌話会・武漢文学会の会誌であったが、やがて汪兆銘政権が設立した翼賛文化団体である中日文化協会武漢分会の機関誌へと位置づけを変えた。そのためこの両誌からは、現地居留民社会の文芸文化の動向だけではなく、汪兆銘政権統治地域における文化支配の実態をうかがい知ることもできる。 本稿はその両誌の改題および記事細目を紹介することで、武漢居留民社会の文化動向および文化支配の実態を解明する基礎資料を提示することを試みたものである。"
著者
坂本 英夫
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.15, pp.p105-125, 1986-12

近年,わが国においては高速道路・新幹線・航空による高速交通の発展は著るしいものがあり,国土の時間的距離の縮小が達成されつつあるといえよう.しかし,一方で,それら高速交通の恩恵に浴していない地域も存在している.このような地域は概して部分的・飛地的に局在しているので,鉄道や道路による高速交通をはかることは困難な点がある.そこで,航空機をもって交通面の隣路を打開しようとする動きが出ている.乗客数と設備投資の上から,小型の航空機で比較的短距離(150㎞程度)を運航する,いわゆるコミューター航空の構想がこれである.欧米では,小型機の運用形態には3種類あるといわれている(今野修平,1985).1つはコミューターで,定期航空である.第2はエアタクシーで,不定期のチャーターである.第3は自家用機である.わが国で,小型機を活用して地方の活性化をはかるべく,注目をあびているのが,第1番目にあげたコミューターである(西岡久雄,1985,佐藤文生,1985).本稿では,とくに辺地での地域航空の可能性を検討するとともに,問題点を探り,かつ具体的な場として北海道と近畿地方を例にして考察を進めることにした.
著者
滝川 幸司
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.32, pp.41-58, 2004-03

延喜二年に開催された藤花宴の公的地位について検討した。この藤花宴は、通説では和歌が公的地位を獲得した晴の場として理解されているが、、資料を再検討して、藤原時平による献物という私的場であって、和歌の公的地位獲得の場とは評価できないこと、また、この藤花宴について記す『延喜御記』の記述からも、醍醐天皇が和歌を高く評価し、和歌の勅撰に強い意志を持っていたとは考えがたいことなどを指摘した。一般に、宇多・醍醐朝に和歌が公的地位を得、その結果、『古今和歌集』の勅撰に結びつくといわれるが、延喜二年の藤花宴の地位、『古今集』における作者層からも、和歌の地位は必ずしも高いとはいい難いことを述べた。
著者
酒井 竜一
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.22, pp.p157-170, 1994-03

本稿は、アラム語の一方言であるシリア・パルミラ語碑文に関する初歩的な学習記録である。その出発点としてこれまで3回は、墓と列柱碑文を例に、主に単語の目安程度の意味を知る作業を試みてきた。ただし単純ミスや誤解が多く、各単語の正確な意味・語根・品詞・語形変化・発音等、いわゆる文法的な検討も今まだ皆無の状態にある。今後は、当面の課題である「単語集」を充実させながら、そうした点の学習にも努めたい。さて今回は、西暦137年に制定された有名な『関税碑文』の「序文」部分をテキストにとりあげる。パルミラ語とギリシャ語で書かれたこの碑文は、1881年にロシアのA・ラザレフによってパルミラ遣跡内のアゴラ南側で発見され、現在、サンクト・ペテルブルグ(レニングラード)のエルミタージュ美術館に所蔵されている。数年前、西藤清秀・豊岡卓司・酒井龍一の3名は、パルミラからの帰途この碑文を実見すべく同館を訪問したが、関係者不在のため実現しなかった。それは些かの心残りとなっている。以下、主に次の文献等に学びながら、テキストの検討を進める。
著者
池田 碩
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.34, pp.65-78, 2006-03

熱帯サバナ気候下に位置するカンボジア・アンコール地域の地盤の安定度と、石造遺跡の風化状況について調査した。その結果、地質地盤は安定陸塊上に位置しているが、寺院遺跡は環濠の掘り込みとその土砂による盛り土の上部に構築されているものが多いため、表層地盤は不等沈下や流動による被害が生じている状況を各地で確認した。石造遺跡の石材の風化は長年月を経て全体に進行してきているが、風化による剥離破壊は石材の限られた部分で急速に進んでいる。その部分と剥離破壊の状況は、自然界に生じているタフォニTafoni侵食と極めて類似していることがわかった。さらに風化破壊の速度は、砂岩石柱に生じている剥離破壊深が7~10cmに達しており、遺跡の構築がすでに800年程経過していることから、ほぼ100年間で1cmの速度で進行してきていることが推測できた。
著者
池田 碩
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.30, pp.83-96, 2002-03

Aw気候下のインド東南部で1300年前に構築されたことがはっきりしている石造寺院に生じた風化破壊の状況を観察、調査した。その結果、石造寺院の風化は全体に同速度で進行しているのではなく、風化の状態は上方から下方へかけて4層に分かれ、中央部の2層が速く、上方部と下端部では遅れていることがわかった。風化の内容も、最も進んでいる中央部では特異な形状を示すタフォニTafoni化タイプの風化を伴ないつつ進んでいるのに対し、下方部では剥脱・剥離exforiationタイプの風化破壊を進行させている。さらに、この石造寺院に生じているタフォニの成長速度は、自然界で形成している活発なタフォニで実験計測して得た値とほぼ一致することがわかった。
著者
水野 正好
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.16, pp.p59-72, 1987-12

近時の考古学の著しい進展は、多くの分野に対して詳細な「語り」を整え、次第に体系化を促す方向に進みつつある。「女性論」、とくに古代における女性の在り方をめぐっても多くの資料が蓄積されており、視座の展開と相俟って種々の見解が叢出している。本稿では、こうした所見を踏まえつつ、私見を中心に据え私なりの構造観でもって「女性論」の考古学を語ることとしたい。
著者
中尾 真理
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.22, pp.p33-48, 1994-03

アン・エリオットは「洗練された知性」と「優しい性格」の持ち主として描かれている。「洗練された知性」とは何を意味するのだろうか。オースティンは従来から「理性」と「感性」のバランスのとれた精神を理想としてきたが、それとどこが違うのだろうか。以上の観点から、オースティン最後の作品『説得』について考察する。ヒロインは家族からも、コミュニティからも切り離され、孤独の内に移動を続ける。斜陽の准男爵家から、大家族の暖かい雰囲気を残す郷士(スクワイア)のマスグローヴ家、ライム海岸、そして、最後にエレガントな温泉保養都市バースへの孤独な旅の過程で、アンの洗練された知性はそれぞれのグループにどのように反応し、また、どのようにして心からの共感者であるウェントワース大佐の心を掴むことができたのだろうか。鍵はやはり、感性とモラルに求めるべきだろう。
著者
中尾 真理
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.38, pp.302-280, 2010-03

バラは栽培の歴史も古く、特に西洋では「花の中の花」として古くから特別に愛されてきた。本稿の目的はバラの栽培、その利用、鑑賞など、バラをめぐる文化を歴史的にたどることにある。バラはギリシア・ローマ時代には主に薬用、香料として利用され、キリスト教のもとでは神秘的な表象として使われた。イギリスでは「ばら戦争」に見られるように、バラが国家の紋章としても使われ、シェイクスピアやR・バーンズなどの詩にも歌われ、広く親しまれている。野生種を含め、バラの品種は多いが、古代から十九世紀の始めにかけて、ヨーロッパで栽培されていたバラは、わずか五系統にすぎなかった。十八世紀に四季咲きの中国バラが伝来したことにより、バラの栽培は飛躍的に発展し、バラの品種も爆発的に増えた。本稿ではバラの文化史(その一)として、ヨーロッパ、特にイギリスを中心に、バラ革命までを扱う。中国とヨーロッパのバラの交流、日本のバラについては次回にとりあげる予定である。
著者
菅野 正
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.11, pp.p17-32, 1982-12

一九〇八年(明治四一年、光緒三四年)二月、神戸辰馬汽船所属の第二辰丸(二辰丸)が懊門前面の水域で、武器密輸の容疑で、清国官憲に掌捕、廻航される所謂辰丸事件がおこった。この事件及びこれに係る日貨排斥運動については、菊池貴晴氏の分析、研究があり、以下それによると、日本は広東の張人駿総督と外交交渉に入ったが、話合いがまとまらないまま、強硬手段に出て、三月中旬ついに辰丸釈放、損害賠償、謝罪等の条件をのませ、事件は一応の解決をみた。しかしこの解決に不満だった広東民衆は、日本の強圧的手段および清朝の屈辱的態度に反対し、日本に対し日貨排斥という手段で抵抗を示した。日貨排斥運動は広東を中心に華南各地に広がり、更に遠く華僑の住む南半球にも及び、一九〇五年のアメリカ商品排斥運動につぐ民族運動として発展し、日本に対し、組織的な大規模なものとしては最初の運動となった。中国における運動の中心勢力は、立憲派系の広東自治会で、その背後に広東七十二行商人団がおり、さらに黒幕に香港在住の徐勤、江孔殷がおり、提督李準もいた。そして日本において在日華僑をボイコットに結集せしめた張本人は神戸在住の梁啓超とされている。神戸の巨商は立憲・保皇派で、いずれもボイコット賛成派であり、広東自治会と保皇会=政聞社の関係は密接であったとされる。
著者
大町 公
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.19, pp.p1-10, 1991-03

かつて筆者は勤めから帰って、ぼんやりプロ野球の放送を聞いていた時、いまだ試合前であったろうか、元プロ野球選手であり、現解説者の坂東英二が何気なく、あるいはピッチャーとしての自らの過去を思い浮べながらであろうか、「男にとって実に辛いのは、自分の器を思い知らされる時だ。」といったようなことを言うのを聞いた。思わずドキッとし、くつろぎつつあった気持ちが一瞬にして冷えたことを覚えている。人の値打ちを批評する場合にはいとも簡単、面白おかしくやってのけるくせに、自分の本当の価値だけは人に知られたくない。いや、自分自身ではなおのこと知りたくない。人にはどうやらそんな心持ちがあるようだ。自分の器がいかなるものであるか。視点は異なるが、二十世紀スペインの哲学者ホセ・オルテガ・イ・ガセ(一八八三-一九五五)は『大衆の反逆』(一九三〇年刊)の中ですべての人間を「少数者」と「大衆」とに分類している。われわれはいずれに分類されているのか、自らを絶えず吟味しつつ、その論を辿ってみることにしよう。
著者
吉村 治正
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.44, pp.143-154, 2016-03

調査対象者の選択的意思による協力拒否は社会調査にとってきわめて深刻な問題であるにも関わらず、本邦の社会学者の間では未だこれを規範的に評価することが横行している。本稿では、非回答の発生とそれが及ぼす調査結果への影響について、旧来的な理解(抵抗の連続尺度モデル)と、社会科学に立脚し非回答を調査対象者の合理的思考の結果とみなす諸理論(機会費用理論・社会的交換理論・社会的孤立理論・パーソナリティ理論・天秤理論)とを対比させ、その特徴を概略的に論じた。
著者
蘇 徳昌
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.30, pp.15-44, 2002-03

天才的な詩人・作家・文学者である郁達夫は中国文学革命の主将で、中国近代文学の先駆者であったが、その生涯は悲劇の連続であった。多くの国民或いは文学界から頽廃作家などと誹謗され、友や妻に裏切られ、母親・兄は戦争中に悲惨な死を遂げ、自分自身も何と終戦直後に日本憲兵に殺害されてしまった。その彼が日本人は中国人を蔑視していると憤慨しながらも、日本人を心から愛し、日本文化を絶賛し、傾倒した。日中戦争で日本は本来の美しい姿を失い、歪んでしまった。軍部は戦争を起こした張本人である。軍国主義の高圧により、文学は大々的に後退し、絶滅の深淵に陥っている、と指摘し、最後まで闘い続けた。彼は日本人的な中国人であり、その日本観は愛憎交錯したものである。
著者
木田 隆文
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.39, pp.144-129, 2011-03

一九四四年から一九四六年まで上海で暮らした武田泰淳は、帰国後、同地での敗戦体験を描いた小説で作家としての地歩を固めた。そのため泰淳研究史では、この上海体験に大きな作家論的意味を見出してきたのだが、一方で伝記資料の不足によってその実相はほとんど確認されてこなかった。しかし敗戦前後の上海居留民社会で発行された邦字新聞『大陸新報』『改造日報』等を眺めると、そこには彼の名が散見される。そこで本稿は、これら現地発行の媒体を参照し、実態が知られなかった上海時代の武田泰淳の動向確認と、これまでの伝記研究の補訂を目論んだ。その結果、泰淳が中日文化協会や大陸新報社を媒介として、大東亜文学者大会をはじめとする様々な文化事業に携わった事実や、現地の文学雑誌『上海文学』に「中秋節の頃(上)」と題する小説を発表していることを確認した。また敗戦後も『改造日報』への寄稿や日僑集中地区での文化事業に関与した事実を明らかにし、激変する敗戦前後の上海の中で、常に邦人文化社会の一翼を担い続け、それを戦後の作家活動に礎とした泰淳の姿を浮き彫りにした。
著者
吉越 昭久
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.23, pp.p111-122, 1995-03

近年、台風などに伴う大洪水は少なくなった。これに対して、特に都市域における局地的な豪雨によって、比較的狭い範囲での洪水が目立つようになった。また、都市域の拡大や、最近の降水量の減少傾向に伴って、現在では常に渇水の危険性に直面している状態にある。その典型的な例が、1994年夏における西日本を中心にした渇水であった。たとえ堤防の建設や河川改修がおこなわれても、ダムが建設され節水対策がかなり浸透しても、水災害が減少してきたとは考えにくい。むしろ、質を変えながら災害そのものは存続しているといえる。このような例は、各地でみられる。ところで、奈良盆地における開発の歴史は古く、史資料も他地域に比較して多く存在している。この奈良盆地には「一年日照りで、一年洪水」という言葉がある。その妥当性については後で若干検討するとして、この言葉は奈良盆地における水災害の多さを意味し、長い歴史の中でこの災害がくりかえされてきたことだけは確かである。このような観点からすれば、水災害を歴史的にとらえる場合、奈良盆地は都合のよい条件を備えているといえる。そこで、本稿では奈良盆地を例にとり、その主な水災害である洪水と渇水を中心に、その原因・現象・対策などについてその特徴を比較的長いタイムスケールの中でとらえてみたい。対象とする時期は、近世以降を主体とするが、統計的には7世紀以降について触れた。また、現在の景観に対して過去の水災害が多少なりとも影響を与えていると考え、それらの関わりについても検討してみたい。ところで、奈良盆地における水災害を扱った研究には、一般論としてその特徴を述べた堀井甚一郎や藤田佳久などがある。また、青木滋一は、飛鳥時代以降の気象災害に関する史資料をたんねんにとりあげ、コメントを加えている。これには、水災害も含まれていて、奈良県の災害史を考える上では欠かせない業績である。青木滋一は、これをもとにその後いくつかの研究をおこなっている。なお近年、古気候学の分野の研究が大きく進展し、水越允治などによって過去の気候が復元されつつある。これらの研究との対比によって、今後より正確な水災害の研究がおこなえる可能性がでてきた。また、歴史学の分野だけでなく、農学でも奈良時代における森林状態を研究し、その中で災害を扱った丸山岩三などもあげることができる。そこでは、京都に比較して奈良における災害が相対的に少なかったことが明らかにされている。このように、奈良盆地における水災害の研究は、歴史的な分野からのものが多く、最近の具体的な水災害を扱った研究は少ない。恐らく、昭和57(1982年)の洪水時の避難行動を扱った研究がある程度であろう。渇水については、小林重幸の他には、まとまった研究はないようである。
著者
碓井 照子
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.21, pp.p157-165, 1993-03

この20年間における世界レベルでの地理情報システム研究の発展には、目ざましいものがある。アメリカでは国立地理情報分析センター(National Center for Geographic Information and Analysis) がアメリカ3大学のコンソーシアムとしてカリフォルニア大学地理学科を拠点に設置され、イギリスでは、イギリス全土を区分するGISの地方センターとして8箇所の主要大学の主に地理学科にRRL (Regional Research laboratory) が併設された。また、GISの専門雑誌(International Journal of Geographical Information System) が、英国エディンバラ大学の地理学科より発刊され、MAPINFO GISWORLD 等のGIS情報誌が発刊された。我が国では、1991年に東京大学都市工学研究室を事務局として「地理情報システム学会」が発足したのである。1970年代初頭より久保幸夫がこの研究を我が国に紹介し、GIS研究は、国土数値情報や地方自治体の情報化(UISプロジェクト)研究の中で進展した。測量、地図会社、情報関係関連企業等にも波及し、1990年からは、西川治を研究代表者とする文部省科学重点領域研究「環境変化の地理情報システム」が始まり、1991年には、旭川で国際会議が開催された。しかし、日本において世界的に評価をうけた少数の地理学的先駆的研究を除けば日本の地理学者層に幅広く指示される事なく今日に至っている。むしろ地理学に関係深い国土地理院や測量会社、地球科学の研究を除けば都市工学、建築学、農学、情報科学等の他分野の研究者にその重要性が理解され、その関心は極めて高いのである。日本の地理学研究に占めるGIS研究の比重は極めて小さい。まして、GIS教育を実施している地理学科は数えるほどしかない。,アメリカにおける地理情報システム研究は、国際地理学連合の研究委員会(地理情報システム研究委員会)として1960年代より研究を続けており、世界の地理情報システム研究の発信基地は、まさに地理学である。本稿は、地理情報システム研究の地理学研究における重要性を地理学における計量革命との関係で整理し、その意義を明確にし、GIS教育の必要性を提唱するものである。
著者
正司 哲朗 葛本 隆将
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.46, pp.197-207, 2018-03

" 奈良県内には、室町時代から戦国時代に築かれた山城が多く存在しており、その1つに生駒郡平群町の椿井城がある。椿井城の建築物は、すでに存在せず、曲輪、堀切、土塁などの痕跡が残されているが、多大なコストを要する保存整備のあり方を検討するにあたって、残されている遺構の現状を詳細に記録するためのデジタル化が有効である。本稿では、3次元計測による椿井城の調査区をデジタル化する方法、および2016年11月に行われた企画展で展示したシステムについて述べる。 調査区のデジタル化については、平群町教育委員会によって、発掘調査された椿井城の南郭を2種類の方法を用いてデジタル化した。1つは画像計測方法であり、もう1つはTOF(Time of Flight)方式のレーザ計測装置を利用するものである。画像計測は、TOF方式に比べて精度が低いが、比較的低コストで実現が可能である。 企画展については、航空レーザ測量によって得られた地形データを3Dプリントしたもの、プロジェクタを用いた地形データのAR表示システム、HMD(ヘッドマウントディスプレイ)を用いた、部分的に復元した椿井城のAR表示システムの3つを展示した。"
著者
青木 芳夫
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.32, pp.51-65, 2004-03

筆者は、現在、『グレゴリオ・コンドリ・ママー二自伝』を日本語に翻訳しているところである。グレゴリオは、20世紀前半の、まだ半封建的な風習が残るペルー・アンデスの農村で孤児として育ち、やがてクスコ市内に移住するが、晩年の1960・70年代には一介の荷担ぎ人夫として暮らした。自らの辛酸の数々を伝えるために、その生涯を若き人類学者のバルデラマらに語る決心をした。この『自伝』は単なるオーラル・ヒストリーではなく、自らの経験をも伝承風に語れる、稀代の語り部、グレゴリオを得たことにより、口頭伝承の宝庫ともなっている。本稿では、その伝承を「アンデスの自然」「アンデスの神々」「牛泥棒」「スペイン人・キリスト教・文明」に分類し、紹介する。
著者
山田 隆敏
出版者
奈良大学
雑誌
奈良大学紀要 (ISSN:03892204)
巻号頁・発行日
no.17, pp.p1-18, 1989-03

20世紀最大の作品と絶賛される詩劇TheDynasts(諸王,1903~8)で代表される如く,読書好きな母の影響を受けてか,はやくから詩の創作活動を続けてきたThomas Hardyは,経済的な諸事情も加わり,とりあえず小説家として文壇にデビューすることになった.最初に書き上げた小説The Poor and the Lady (貧乏人と淑女,1867)は単純なPlotでありすぎると,Macmillan社から出版拒否を受ける.つづいてこの原稿を持ち込んだChapman and Ha11 社編集顧問のJohn Morley(1838~1923),George Meredith(1828~1909)の忠告に従って,次作Desperate Remedies(荒療治,1871)を自費出版した.こんどは複雑すぎるPlotであって,意外なる挿話と多分に燗情的場面が多すぎると,読者から予想外の酷評を受ける.勇気をくじかれたが,創作意欲をながく抑えることは出来ず,翌年Under the Greenwood Tree (緑樹の蔭で,1872)を出版する.Timsley社からの匿名出版であったけれども,従来の小説の観念を払拭し彼独自の世界を展開した結果,この作品は好評を得るに至り,事実上の処女作小説となった.