著者
篠原 愛人
出版者
摂南大学外国語学部「摂大人文科学」編集委員会
雑誌
摂大人文科学 = The Setsudai review of humanities and social sciences (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.25, pp.1-29, 2018-01

フランス国立図書館所蔵のチマルパインの『日記』がデジタル化され、オンラインで閲覧が可能になった。翻刻では不明瞭な抹消箇所や修正部分も、加筆部分の文字や空白部の大小、インクの色の違いなども、おかげでよく分かる。本稿ではそのような「加工」部分を分析し、『日記』の成立過程について考察した。大半のページは整然としており、『日記』が「最終段階に近い稿」であること、下書きを写したであろうことも見えてくる。転写したことは、抹消箇所からも指摘できる。また「日本」という語の綴りが3 段階(4 通り)に変化し、一部は上書き修正されていることも、今回、初めて分かった。綴りの変化は、ある研究者が言うように、チマルパインの作品の成立年を推定する手掛かりになる可能性があり、その場合、『日記』の果たす役割は大きい。しかし、その前にクリアすべき問題がある。本稿では、チマルパインの生活拠点であったサンアントニオ・アバー教会に関する本文記事と加筆文を分析し、彼がこの教会の先行きを不安視していたことを明らかにした。実際、1624年に同教会は存続の危機に陥り、チマルパインの生活環境も変化したと思われる。『日記』には、16 世紀のメキシコで「生ける聖人」として尊敬されたグレゴリオ・ロペスに関する3 つの加筆文(珍しくスペイン語)があるが、それらがいずれもフランシスコ・ロサの著したロペスの『伝記』からの引用であることを確認した。"Chimalpahin in Paris"0oday we can read the Chimalpahin's original manuscript of "Diario" on line,thanks to the digitalization of the text by the Bibliothèque Nationale de France, inParis. 0hrough his digitalized text, we can recognize his deletions, corrections,additions and blanks that were not so clearly indicated in former transcriptions ofhis texts.Most pages are written in such a neat hand that we suppose this is a nearly finaldraft based on other former ones. We found the spelling of "Japon" changed 3times (4 forms) in the Diario and sometimes it was corrected by transforming "b"-sinto "p"-s. 0hese changes of his spelling may be useful as an indicator of theChimalpahin's writing process, but not without problems.By analyzing his texts on San Antonio Abad church, we detected his anxietyabout the future of his church, which came true in 1624 when the patron of thechurch died and Augustinian order invaded to occupy it.Finally, his 3 additions on Gregorio López, so-called living saint of the 16thcentury Mexico, are written, unlike other parts of his text, in Spanish. We probedthese are literal quotations from Francisco Losa's "Biography of Gregorio Lopez"(1613).
著者
篠原 愛人
出版者
摂南大学外国語学部「摂大人文科学」編集委員会
雑誌
摂大人文科学 = The Setsudai review of humanities and social sciences (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.24, pp.1-29, 2017-01

スペイン語の敬称「ドン」は中世、一部の上級貴族にのみ使用が許されていたが、時とともにその規制は緩んだ。16 世紀にはスペイン領アメリカで征服者が普及させ、先住民の間でも使われるようになった。血筋を重んじる先住民史家チマルパイン(1579~1630?)も作品内で「ドン」を多用したが、独自の尺度をもっていた。本稿ではまず、彼の「ドン」適用基準を明らかにする。チマルパインは、系図を確かめる術のないスペイン人については、血筋より職階を第一の基準としたが、個人的な人物評価も加味した。先住民やメスティソに対しては血統を重視し、正統の首長が大罪を犯しても「ドン」を外さなかった。高い公職に就けば出自に関わらず「ドン」が付けられ、親子や兄弟間でも差がついた。貴族の血を引くと言いながら、チマルパインは自分の両親にも、自身にも「ドン」を付けなかったが、1613~20 年の間に自ら「ドン」を名乗り始める。同じ頃、それまで使わなかった「セニョール」や「セニョール・ドン」という敬称を使うようにもなった。以前、拙稿で指摘したように、自分たちの歴史を回顧し、「クリオーリョ」を意識し始めたのも同じ頃である。このような変化が生じた一因を彼の『第八歴史報告』(1620 年)に探ることができる。「古の言葉」、歴史を伝承する大切さを説き、その重責を自分が担ってゆく決意を表明しているのである。それは自分たちの民族の歴史を語り継ぐ歴史家として覚醒した証と言ってよい。
著者
村上 司樹
雑誌
摂大人文科学 = The Setsudai Review of Humanities and Social Sciences (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.22, pp.141-160, 2015-01

古典的通説ではカロリング期以降いわゆるグレゴリウス改革以前(10-11世紀半ば)のカタルーニャ(現スペイン北東部)は、ラテン・キリスト教世界全域でも教会腐敗が特に著しかった地域、旧態依然たる在地社会の典型とされてきた。教会史研究のみならず封建社会成立論や、その特異な史料状況とも複雑に絡まりあった伝統的理解は、しかし最近30 年間の研究の進展によって大幅に書き換えられている。それを後押ししたのは、現地カタルーニャにおける史料刊行と個別所見の蓄積であると同時に、研究のさらなる国際化にともなう視野の拡大および方法の多様化であった。筆者は以前本誌において、主として律修教会(修道院)に即しつつ、中世カタルーニャ教会史研究のこのような現状を概観した1。今回はもう一方の在俗教会(主に司教座教会)に焦点を当て、司教区単位で深化している最近30 年間の研究動向を整理するとともに、旧稿では保留にした領邦政治との関係や聖堂参事会改革をめぐる議論の革新にもふれたい。
著者
安保 寛尚
雑誌
摂大人文科学 = The Setsudai Review of Humanities and Social Sciences (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.21, pp.107-142, 2014-01

キューバでは1886 年に奴隷制が廃止され、1902 年の独立後、法的には国民の平等が達成されたが、黒人は変わらず人種差別を受け続けていた。ニコラス・ギジェンの『ソンゴロ・コソンゴ』は、白人の価値観が支配するそのような社会において、実際には黒人の要素が深く混ざり合っており、キューバの精神は混血、すなわち「ムラート」であるという考えを提起する革命的な詩集であった。そしてそのような思想が最も反映されているのが≪到着≫である。これまでの先行研究において、この詩はアフリカ人のキューバへの到着と見なされ、時に白人に対する黒人の勝利を歌うものという解釈がされてきた。しかしながら、この詩の背景に見えるのは大西洋を渡ってキューバに至る航海ではなく、山から都市への下山である。また、キューバの向かうべき将来に人種的統合を見据えるギジェンが、人種主義に対する人種主義を訴えているとは考えにくい。そこで本稿は、キューバの山/森が持つ歴史的・文化的象徴性に注目する。そこはかつてスペイン人に抵抗する逃亡奴隷が集落を形成した場所であり、現在も黒人にとってアフリカとの交信が可能になる聖域である。すなわち到着者には、アフリカの遺産を受け継ぐ逃亡奴隷の姿が見えてくるのだ。こうして浮かび上がるアフリカとキューバを結ぶ想像の地図の分析を通して、新しい「混血」の共同体形成を提起するギジェンの詩的プロジェクトを明らかにする。
著者
篠原 愛人
出版者
摂南大学外国語学部「摂大人文科学」編集委員会
雑誌
摂大人文科学 = The Setsudai review of humanities and social sciences (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.23, pp.1-24, 2016-01

「クリオーリョ」という語は黒人奴隷の子孫のうち欧米で生まれ育った者を指す差別語であったが、16 世紀末から植民地生まれのスペイン人にも適用され始めた。当初は主に教会関連分野で使われたが、それは急増するクリオーリョの修道士志願者に対する危機感の表れに他ならなかった。チマルパインが『日記』で「クリオーリョ」を使うようになったのは1608 年から、つまり「史的回顧」を書く前年である。それは決して偶然ではなかった。チマルパインは立身出世を遂げたクリオーリョだけを取り上げ、「クリオーリョ」について回ったネガティブな評価を払拭し、世俗界にも適用して使用範囲を広げた。そこにはクリオーリョへのシンパシーが感じられる。また、「アメリカ生まれのスペイン人は先住民と同等」とガチュピンたちが下す評価への反論でもある。ただし、黒人のクリオーリョに対してはそのような共感はなく、メスティソに対する評価はまだ下しかねていた。クリオーリョとガチュピンの対立は19 世紀初めのメキシコ独立の一因ともなり、その萌芽は17 世紀半ばにはクリオーリョ知識人の間に見られる。いわゆるクリオーリョ愛国心がそれで、その形成と成長にはグアダルーペの聖母信仰が関わっている。先住民のチマルパインがその愛国心の先駆けとまでは言えないが、彼の「クリオーリョ」はその種子だったのかもしれない。
著者
鳥居 祐介
雑誌
摂大人文科学 = The Setsudai Review of Humanities and Social Sciences (ISSN:13419315)
巻号頁・発行日
no.23, pp.105-128, 2016-01

本稿は、アメリカ黒人文学界の巨人であり、反体制の詩人・劇作家・政治活動家として知られたアミリ・バラカ(リロイ・ジョーンズ)が晩年に残した音楽評論の意義を考察するものである。バラカがかつて黒人民族主義に向う時期に著したBlues People (1963)は、ジャズの歴史をアメリカの悲劇的な人種関係の歴史として読み、当時の若手黒人ジャズ・ミュージシャンによるフリー・ジャズの音楽的革新を急進的な黒人民族主義の表出として解釈することを提唱し、広く影響を与えた。しかしその後、「ジャズの制度化」と呼ばれる現象、すなわち、ジャズの社会的地位が向上し、公的助成を受けたコンサートホールで演奏され、大学の音楽教育課程で教育されるようになる現象が進んだ。ジャズが「アメリカのクラシック音楽」と呼ばれ、伝統的な権威と支配体制に取り込まれて政治的に保守化していくかに見えるこの過程を、黒人民族主義者からマルクス主義者に転向した1970 年代以降のバラカはどのように受け止めてきたのであろうか。本稿は、近著Digging (2009)をはじめとする晩年のバラカの音楽評論、インタビュー、作品、パフォーマンスを主な資料とし、バラカが「ジャズの制度化」を自身が目指す漸次的なマルクス主義革命への一歩と解釈し、ラルフ・エリソンの系譜に連なる主流のジャズ批評家とは異なる理由で肯定的に評価していたことを指摘する。