著者
西尾 和美
出版者
松山東雲女子大学人文科学部紀要委員会
雑誌
松山東雲女子大学人文科学部紀要 (ISSN:2185808X)
巻号頁・発行日
vol.19, pp.164-141, 2011-03

本稿は、慶長七年(1602)八月の毛利輝元養女と興正寺門跡の婚姻が関係諸勢力の間でもった意義を、当時の政治状況をふまえつつ考察するものである。同女は、小早川氏に入った秀吉の養子秀秋と関ヶ原合戦以前に離縁し、秀秋生前のうちに興正寺門跡に再嫁した。毛利氏にとって、小早川隆景、豊臣秀吉の相次ぐ死により、秀秋との婚姻の意義は関ヶ原以前に変化しており、また関ヶ原以後の苦境の下で武士との婚姻には成り行きを予測できない難しさがあった。一方、この時期、東西分派問題に直面する興正寺および本願寺にとって、戦国期以来の同盟者である毛利氏の周防・長門の門徒掌握ほ重要であり、この婚姻成立の意義は大きかった。このように関係者間でそれぞれに大きなこの婚姻の意義は、婚姻成立より輝元死亡まで多年に及んで細やかに維持された輝元と養女・興正寺門跡夫妻との付き合いを通じて、またこの婚姻を契機として結ばれた養女の実家宍戸氏関係者と興正寺関係者との婚姻によって、支えられた。 This article explores, in the political context of its time, the significance of the 1602 marriage between the adopted daughter of the warrior Mori Terumoto and the head priest of Koshoji Temple in Kyoto. The daughter had previously been married to the warrior Kobayakawa Hideaki, the adopted son of Toyotomi Hideyoshi and, later, of Kobayakawa Takakage. With the deaths of Hideyoshi and Takakage, the marriage was terminated for it had become politically problematic for the Mori family, even before the Battle of Sekigahara in 1600. For the Mori family, on the losing side of the Sekigahara battle, marriage of their daughters to warriors carried an inherent risk, while marriage to a cleric, with less concern for worldly matters, was seen as a safer prospect. While Hideaki was still alive, the Mori's adopted daughter entered into a new marriage to the Koshoji cleric in 1602. At that time, however, the Honganji Temple, along with its then-branch temple Koshoji, was embroiled in a serious schismatic dispute. Therefore, the daughter's marriage was of great significance for it offered a means of control over adherents in the Mori domains of Suo and Nagato in western Japan. Indeed, for twenty years after the marriage, Mori Terumoto remained in close communication with his adopted daughter and her husband, and more marriages followed between members of the clerical family of Koshoji and the adopted daughter's natal family, the Shishido.
著者
高阪 悌雄
出版者
松山東雲女子大学人文科学部紀要委員会
雑誌
松山東雲女子大学人文科学部紀要 (ISSN:2185808X)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.55-68, 2010-03

本稿ではSenの言う潜在能力の拡がりを保障していく社会とは,市民参加型の民主主義社会であり,それを支えるものは民の公共活動であることについて論じた。また、民主主義社会を支える"民の公共","私的領域","政府"の役割が,どう違うのかを明確にしていくため,公共哲学の成立の経緯を振り,その上で"民の公共"の承認の上に"政府"が成立し,承認された"政府"が"私的領域"から税を徴収し,その使途を"民の公共"がチェックするという山脇が述べるそれぞれの関係性について明確にしていった。さらに今後の日本の社会を支える"民の公共"活動を支える供給主体や財源等について,Kramerの研究を参照しながら,ヨーロッパと日本の比較を行った。そうした比較の中で,今後日本に求められている"民の公共"のモデルとは,ボランティアセクターをインフォーマルなものとしてではなく,非営利組織として捉えていくことや,非営利組織への財源を公費で保障していくことの必要性などを説いた。
著者
泉 浩徳 田中 朋也*
出版者
松山東雲女子大学人文科学部紀要委員会
雑誌
松山東雲女子大学人文科学部紀要 (ISSN:2185808X)
巻号頁・発行日
vol.25, pp.17-27, 2017-03-31

本研究は,幼稚園や保育所のSSW配置の有効性について,社会的認知度が充分ではないSSWの業務と, 具体的事例を紹介し,現状と課題を具体的に挙げて検証し,幼小期における専門職配置の必要性を論じた。 SSWの質を担保できるスーパービジョン体制や,保育士の業務軽減の為にも,幼少期におけるSSWの 導入及びシステムの構築が必要であることがあきらかになった。This study examines the need for the placement of school social workers (SSW) in nursery schools and kindergartens from three viewpoints: 1) the effectiveness of SSWs in promoting children's health and well-being, 2) the importance of professional recognition for SSWs, and 3) the current conditions of SSWs. The authors stipulate that it is necessary to introduce a better system of supervision for SSWs in early childhood programs in order to reduce the work of nursery teachers and guarantee the quality of SSWs.
著者
泉 浩徳
出版者
松山東雲女子大学人文科学部紀要委員会
雑誌
松山東雲女子大学人文科学部紀要 (ISSN:2185808X)
巻号頁・発行日
no.25, pp.153-170, 2017-03-31

現在,保育の現場においては,「保育の質」がさかんに言われており,「保育の質」 とは具体的に何なのか,あきらかにする必要があると本研究者は感じていた。そこで本研究では,愛媛県西予市での保育士に対する研修会資料として発表した資料を基に,絵本『ガンピーさんのふなあそび』や,保育士養成校での授業での取り組みによる各事例を紹介しながら,「保育内容」における保育の本質を論じた。 子どもの年齢と発達を理解した実践の中で,家庭に子どもの育ちを伝えながら,子どもを否定的に見ず,保育の基本である遊びの楽しさを伝え,子どものすることを善意に見る視点を持って関わることが「保育の質」の原点であることがあきらかになった。
著者
西村 浩子
出版者
松山東雲女子大学人文科学部紀要委員会
雑誌
松山東雲女子大学人文科学部紀要 (ISSN:2185808X)
巻号頁・発行日
no.29, pp.42-54, 2020-03-01

愛媛県上浮穴郡久万高原町大川の土居家に伝わる史料の中に、大正期の少女の日記がある。今から100 年ほど前、土居家第28代当主土居貫太郎の長女、土居芳枝が大正10~11年(1921~1922年)尋常小学 校3~4年生の時に書かれた日記である。この資料には、日々の生活が方言交じりで記録され、当時の子 どもの生活やことばが分かる資料となっている。本稿は、この日記を翻刻し、近代の子どもの家での生活 やことばを研究するための基礎資料として紹介する。