著者
松原 悠 Matsubara Yu マツバラ ユウ
出版者
「災害と共生」研究会
雑誌
災害と共生 (ISSN:24332739)
巻号頁・発行日
vol.5, no.1, pp.13-27, 2021-09

一般論文日本における新型コロナウイルス感染症の流行の拡大に伴い、「自粛警察」という概念が広く使用されるようになった。本稿では、当該概念の使用が拡大した過程を関連するデータに基づいて分析するとともに、似た意味を持つ複数のインターネットスラングのなかから社会状況の変化に応じて「自粛警察」という適切な概念が選び取られて流通したことを示す。そして、この言説空間の変容が、自粛するかどうかの最終判断を個々人に委ねるオフィシャルな自粛要請のもと「自粛警察」的な行為によって自粛を事実上強制するアンオフィシャルな社会規範としての世間の「空気」が生まれつつあったなかで、「自粛の『空気』を作り出すことにつながる行為」を対象化し「空気」を間接的にコントロールする機能を果たした(問題の外在化が実現された)ことを論じる。最後に、本研究から得られた示唆として、災害や危機といった先行きが不透明な状況下においては「空気」の影響力が相対的に強まるなか、そのような事態が発生する事前の段階で、言説空間を豊かにする手がかりを用意しておくことの重要性を述べる。
著者
中野 元太 矢守 克也 Nakano Genta Yamori Katsuya ナカノ ゲンタ ヤモリ カツヤ
出版者
「災害と共生」研究会
雑誌
災害と共生 (ISSN:24332739)
巻号頁・発行日
vol.4, no.1, pp.83-94, 2020-09

一般論文国際防災教育支援において、支援者と被支援者との間の社会的・経済的・文化的・教育環境的相異に配慮すべきとの主張は数多い。この主張は、相異に配慮しさえすれば、支援者が教える知識・技術は被支援者にとって有用であり、国際的防災教育支援という枠組・実践はどのような社会間にも適用可能であるとの前提に立つ。しかし、ルーマンの「リスク/危険」概念を導入すれば、防災教育の多くは自然災害をリスクとみなす〈リスク社会〉に特有の実践(【防災教育@〈リスク社会〉】)であり、自然災害を危険とみなす〈危険社会〉に対する有効性は確かではないこと、よって、無条件な適用が、かえって防災教育の不全を引き起こす可能性を指摘できる。このことをネパールでの防災教育実践事例やインタビューに基づく防災に対する姿勢から考察した。その上で「仕掛学」に理論的アイデアを借りて〈危険社会〉にも通用する【防災教育@〈危険社会〉】を提案するとともに、【防災教育@〈危険社会〉】の倫理的課題についても言及した。
著者
矢守 克也 Yamori Katsuya ヤモリ カツヤ
出版者
「災害と共生」研究会
雑誌
災害と共生 (ISSN:24332739)
巻号頁・発行日
vol.2, no.2, pp.1-8, 2019-01

一般論文本論文は、すでに発表した拙稿「アクションリサーチの〈時間〉」(矢守, 2018)の補論となる論考である。具体的には、鷲田(2006)による〈待つ〉ことに関する示唆的な著作を手がかりに、時間、特に、〈インストゥルメンタル〉な時間と〈コンサマトリー〉な時間の関係性に関して、矢守(2018)で十分論じきれなかった側面について考察したものである。〈待つ〉の根底には、〈インストゥルメンタル〉と〈コンサマトリー〉との間の逆説的な機能連関がある。しかも、その連関は、矢守(2018)が注目した〈インストゥルメンタル〉の拡大・膨張の徹底によって、現在を高揚化・絶対化させることで〈コンサマトリー〉へと転回させる機能連関ではない。それとは正反対に、〈インストゥルメンタル〉の縮小・退縮の徹底によって、現在を冷却化・静謐化させることで〈コンサマトリー〉へと転回させる機能連関である。〈待つ〉は、何らかの目標状態の「徴候」に過敏に反応する態度(アンテ・フェストゥム)のもと、〈インストゥルメンタル〉な意味で待つことではない。また、その目標状態を計画として予め現在の中に取り込もうとする態度(ポスト・フェストゥム)のもと、〈インストゥルメンタル〉な意味で待つことでもない。〈待つ〉は、〈コンサマトリー〉な時間のなかで現在を「時を細かく刻んで」静かに生きながら何かを待つことである。This paper is a supplemental argument for the article, "Theoretical analysis of 'time' in action research" (Yamori, 2018). I discussed, in this paper, the relationship between two totally contradictory dimensions of time, "instrumental" and "consummatory," based on a philosophical work about "pure and perfect waiting" by Washida (2006). "Pure and perfect waiting" is characterized by a paradoxical interdependence between the two different dimensions of time. This paradoxical interdependence is not caused by both "instrumental" and "consummatory" dimensions magnifying or reinforcing each other, highlighted in Yamori (2018), but, on the contrary, by both dimensions negating or reducing each other. "Pure and perfect waiting" is neither "waiting" for a specific target with over-sensitive attitudes under temporal mode of "uncertainty" or "ante-festum" within an "instrumental" dimension, nor "waiting" for a specific target with over-prepared attitudes to predict and prepare for all under temporal mode of "completeness" or "post-festum" within an "instrumental" dimension. It is "waiting" for something undefined, without the feeling of waiting, in a steady and calm everyday lives within a "consummatory" dimension of time.
著者
宮前 良平 渥美 公秀 Miyamae Ryohei Atsumi Tomohide ミヤマエ リョウヘイ アツミ トモヒデ
出版者
「災害と共生」研究会
雑誌
災害と共生 (ISSN:24332739)
巻号頁・発行日
vol.2, no.1, pp.1-11, 2018-04

一般論文本研究は、復興における死者との共生について、その現状と倫理的な問題を指摘したうえで、その問題を乗り越える方策を考察したものである。まず、これまでの復興研究を概観し、復興におけるアプローチが創造的復興論的アプローチから共生社会的アプローチへと大まかに移行しつつあることを指摘し、共生社会論的アプローチが対処しなければならない課題として犠牲のシステムを挙げた。次に、犠牲のシステムが顕在化した問題として、震災後の死者との臨在を取り上げ、死者の声を生者が代弁せざるを得ない非倫理性を指摘した。その非倫理性を乗り越えるヒントを例示するために、筆者のフィールドノートや、東日本大震災後の東北で注目され始めた幽霊譚を紹介した。最後に、死者の臨在は、その死者を記憶しておかなければならないという責任の感覚によってもたらされており、死者を死者として語るのではなく、死者を生者として語ることについての倫理的可能性を示唆した。The present study discusses a kyosei (living together in harmony) with the dead in a post-disaster society. While most definitions of kyosei say nothing about harmonious living with the dead, we embrace this contradiction for the purposes of our analysis. We define recovery as a process of building a kyosei society following a disaster that includes harmonious living between survivors and reconciliation with the loss of loved ones. However, when we discuss kyosei, we must also examine social, economic and ethical sacrifices made in the process of recovery that work against kyosei. These sacrifices create a structure that produces a gap between exploiters and the exploited, that is, those who benefit at the expense of others in disaster recovery. The structure is called the system of sacrifice (Takahashi, 2012). Disaster capitalism, for example, allows a few people (e.g., entrepreneurs, politicians) to economically benefit from survivors. Furthermore, the system of sacrifice leads to an ethical maxim; we must not talk about the dead because the dead can never reply – it literally means just a monologue by survivors. This inability to talk about or with the dead is one of the obstacles to creating a post-disaster kyosei society. However, we often hear stories of the dead from survivors of the Great East Japan Earthquake and Tsunami of 2011. We believe that the story of ghosts and dialogue with the dead is a key to building a kyosei society. We describe the days in Banda Aceh, where there were many victims of the 2004 Indian Ocean tsunami, as an ethnography and introduce the story of a ghost in the city of Ishinomaki following the 2011 tsunami in Japan. Finally, we conclude with a discussion of why survivors tend to tell ghost stories with a sense of responsibility for disaster deaths from a memory theory perspective.