著者
宮前 良平 大門 大朗 渥美 公秀
出版者
日本グループ・ダイナミックス学会
雑誌
実験社会心理学研究 (ISSN:03877973)
巻号頁・発行日
vol.62, no.2, pp.94-113, 2023 (Released:2023-04-27)
参考文献数
53

本研究は,コロナ禍前後での災害ボランティアに対する排斥言説を検討し,その背後にある外集団と内集団の境界画定のなされ方を明らかにすることを目的とする。コロナ禍において社会的マイノリティへの排斥の増加が指摘されているが,このような排斥は,外集団と内集団の境界が明確な際に生じている。本研究では,コロナ禍前後での日本における災害ボランティアへのTwitter上の言説を対象とし,境界が比較的流動的な災害ボランティアへの排斥的な言説構造がコロナ禍前後でどのように変化したのかを分析した。その結果,災害発生時には怒り感情を含むツイートが有意に増え,コロナ禍には不安感情を含むツイートが有意に増えたことが確認された。次に,コロナ禍前後での災害発生時のボランティアに対するツイートを比較すると,コロナ禍のほうが災害ボランティアに対してネガティブなツイートの割合が増えることが明らかになった。さらに,ツイートの内容を詳細に分析すると,コロナ禍において災害ボランティアを排斥する言説には,感染者/非感染者の区別よりも,県内在住者/県外在住者という明確な境界画定があることが示唆された。このような県内か県外かという境界画定は,コロナ禍以前から見られたものであるが,コロナ禍における感染拡大防止という規範が取り入れられ強化されたものであると考えられる。
著者
宮前 良平 大門 大朗 渥美 公秀
出版者
日本グループ・ダイナミックス学会
雑誌
実験社会心理学研究 (ISSN:03877973)
巻号頁・発行日
pp.2214, (Released:2023-03-21)
参考文献数
53

本研究は,コロナ禍前後での災害ボランティアに対する排斥言説を検討し,その背後にある外集団と内集団の境界画定のなされ方を明らかにすることを目的とする。コロナ禍において社会的マイノリティへの排斥の増加が指摘されているが,このような排斥は,外集団と内集団の境界が明確な際に生じている。本研究では,コロナ禍前後での日本における災害ボランティアへのTwitter上の言説を対象とし,境界が比較的流動的な災害ボランティアへの排斥的な言説構造がコロナ禍前後でどのように変化したのかを分析した。その結果,災害発生時には怒り感情を含むツイートが有意に増え,コロナ禍には不安感情を含むツイートが有意に増えたことが確認された。次に,コロナ禍前後での災害発生時のボランティアに対するツイートを比較すると,コロナ禍のほうが災害ボランティアに対してネガティブなツイートの割合が増えることが明らかになった。さらに,ツイートの内容を詳細に分析すると,コロナ禍において災害ボランティアを排斥する言説には,感染者/非感染者の区別よりも,県内在住者/県外在住者という明確な境界画定があることが示唆された。このような県内か県外かという境界画定は,コロナ禍以前から見られたものであるが,コロナ禍における感染拡大防止という規範が取り入れられ強化されたものであると考えられる。
著者
宮前 良平 渥美 公秀
出版者
日本グループ・ダイナミックス学会
雑誌
実験社会心理学研究 (ISSN:03877973)
巻号頁・発行日
pp.1711, (Released:2018-03-21)
参考文献数
40

本研究は,津波で流出した被災写真を目にした被災者の「語りにならなかった事例」をもとに,語りえないことが復興に果たす役割を考察したものである。まず,先行研究においては復興過程で被災者が語らなかったこと,語りえないことについての議論がほとんどなされていないことを確認した。そのうえで,それらに着目することが実践的にも意義があるということを言語化可能な経験Aと言語化不可能な経験Bについての議論をもとに,本研究の前提として示した。これらの議論を通して,本研究のリサーチクエスチョンとして,「経験Bを第三者が共有するにはどのような方法があるか」「経験Bをめぐる現場のダイナミズムは,時間によってどのように変容するか」「津波という喪失経験からの復興という文脈において,経験Bは復興とどのようにかかわっていくか」の3点を提示した。本研究では,語りえないものを調査する道具としてなにげない日常が写っている被災写真を用いた。また,語りにならなかった事例を描写するために,岩手県野田村での被災写真返却お茶会の実践を通じた3年以上に亘るフィールドワークを実施し,その中から4編のエスノグラフィを示した。考察において,一枚の写真と「秘密」としか語らない被災者の様子から,語りえないことを第三者が共有する際に語りえないことを写真として名指すことの可能性を示し,その時間的変容を分析した。また,言葉にならないようななにげないことが写真として他者にも開かれていることを指摘し,このことが復興過程における新たな公共性の萌芽となりうることを論じた。
著者
宮前 良平 藤阪 希海 上總 藍 桂 悠介
出版者
国立大学法人 大阪大学大学院人間科学研究科附属未来共創センター
雑誌
未来共創 (ISSN:24358010)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.243-275, 2022-03-31 (Released:2022-07-22)

本稿は共生・共創を考えるうえで重要なテクストである『サバルタンは語ることができるか』(スピヴァク 1998 = Spivak 1988)(以下『サバルタン』)の共読を通して、スピヴァクによる表象(代表/表現)の問題意識を共生学の3つの アスペクト(フィロソフィー、アート、サイエンス)から多角的に捉えなおすことを目的とする。第1章では、『サバルタン』の共読の舞台となった読書会がはじまった経緯を述べ、正しく内容を読み取ることを志向しながらも「読みの差異」が生まれたことに着目する。第2章では、共生のフィロソフィーの視点から『サバルタン』におけるスピヴァクの立ち位置を確認する。その際にスピヴァクによる自己言及に着目し、サバルタン連続体の見方を導入することの重要性を述べる。第3章では、共生のアートの視点からテクスト経験をオートエスノグラフィとして表現することを通して、自らのサバ ルタン性を語り直す。第4章では、共生のサイエンスの視 点から調査研究を行う際のサバルタン性との関わりを反省的に描き出す。最後にこれらの「読みの差異」を、ポジショナリティの差異として環状島モデルに布置し整理することで、「サバルタン」と、語る主体としての私との関係性を考察する。
著者
宮前 良平 渥美 公秀
出版者
日本グループ・ダイナミックス学会
雑誌
実験社会心理学研究 (ISSN:03877973)
巻号頁・発行日
vol.56, no.2, pp.122-136, 2017 (Released:2017-04-27)
参考文献数
54
被引用文献数
1

東日本大震災以降,津波で被災した写真を持ち主に返す被災写真返却活動が生まれ,それに関する研究が行われるようになった。しかし,それらの先行研究において被災者に焦点を当てた研究は,依然として存在しない。また,写真は,災害以前の何気ない日常を写したものであるが,復興研究において災害以前の語りや想起に着目した研究は少ない。そこで本研究は,被災写真返却活動の現場において,震災以前に撮影された被災写真や,それを返すという取り組みが被災者にいかに作用するのかについて明らかにすることを目的とする。本研究は,東日本大震災の被災地の1つである岩手県九戸郡野田村で開催されている「写真返却お茶会」への1年以上に及ぶフィールドワークに基づいて行われた。そして,フィールドワークの内容を4編のエスノグラフィにまとめた。その結果,被災者が復興の過程において,津波による物理的な喪失という第1の喪失だけでなく,その第1の喪失すら失われていくという第2の喪失を経験していることが確認された。さらに,第2の喪失に対して写真返却活動がいかに抗しているかについて,「集合的記憶」と「非意図的想起」を用いて考察した。
著者
宮前 良平 置塩 ひかる 王 文潔 佐々木 美和 大門 大朗 稲場 圭信 渥美 公秀
出版者
日本質的心理学会
雑誌
質的心理学研究 (ISSN:24357065)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.73-90, 2022 (Released:2022-04-01)

エスノグラフィは長らく単独の調査者によって書かれてきた。本稿では,それに対して,地震の救急救援期にお けるチームエスノグラフィの事例をもとに,チームとしてエスノグラフィを行うことの方法論的可能性を論じる。 まず,チームエスノグラフィには,超克しなくてならない問題として羅生門問題と共同研究問題があることを確 認する。次に,既存のチームエスノグラフィにおけるチームには3 つの形態があることを整理し,本稿ではその 中でも同じタイミングで同じ対象を観察する,あるいは同じタイミングで異なる対象を観察した事例を扱うこと を述べる。具体的には,熊本地震の際にあらかじめチームを結成してから現地で活動を展開していった過程をエ スノグラフィとして記述していく。最後に,これらの事例をもとに,チームエスノグラフィには①新たな「語り」 を聞きに行く原動力となること②現場で自明となっている前提に気づくことで新たな問いを立てること③「調査 者-対象者」という非対称性を切り崩す可能性があること④現場に新たな規範を持ち込むことで現場の変革をも たらすことの4 点について議論した。
著者
宮前 良平 渥美 公秀 Miyamae Ryohei Atsumi Tomohide ミヤマエ リョウヘイ アツミ トモヒデ
出版者
「災害と共生」研究会
雑誌
災害と共生 (ISSN:24332739)
巻号頁・発行日
vol.2, no.1, pp.1-11, 2018-04

一般論文本研究は、復興における死者との共生について、その現状と倫理的な問題を指摘したうえで、その問題を乗り越える方策を考察したものである。まず、これまでの復興研究を概観し、復興におけるアプローチが創造的復興論的アプローチから共生社会的アプローチへと大まかに移行しつつあることを指摘し、共生社会論的アプローチが対処しなければならない課題として犠牲のシステムを挙げた。次に、犠牲のシステムが顕在化した問題として、震災後の死者との臨在を取り上げ、死者の声を生者が代弁せざるを得ない非倫理性を指摘した。その非倫理性を乗り越えるヒントを例示するために、筆者のフィールドノートや、東日本大震災後の東北で注目され始めた幽霊譚を紹介した。最後に、死者の臨在は、その死者を記憶しておかなければならないという責任の感覚によってもたらされており、死者を死者として語るのではなく、死者を生者として語ることについての倫理的可能性を示唆した。The present study discusses a kyosei (living together in harmony) with the dead in a post-disaster society. While most definitions of kyosei say nothing about harmonious living with the dead, we embrace this contradiction for the purposes of our analysis. We define recovery as a process of building a kyosei society following a disaster that includes harmonious living between survivors and reconciliation with the loss of loved ones. However, when we discuss kyosei, we must also examine social, economic and ethical sacrifices made in the process of recovery that work against kyosei. These sacrifices create a structure that produces a gap between exploiters and the exploited, that is, those who benefit at the expense of others in disaster recovery. The structure is called the system of sacrifice (Takahashi, 2012). Disaster capitalism, for example, allows a few people (e.g., entrepreneurs, politicians) to economically benefit from survivors. Furthermore, the system of sacrifice leads to an ethical maxim; we must not talk about the dead because the dead can never reply – it literally means just a monologue by survivors. This inability to talk about or with the dead is one of the obstacles to creating a post-disaster kyosei society. However, we often hear stories of the dead from survivors of the Great East Japan Earthquake and Tsunami of 2011. We believe that the story of ghosts and dialogue with the dead is a key to building a kyosei society. We describe the days in Banda Aceh, where there were many victims of the 2004 Indian Ocean tsunami, as an ethnography and introduce the story of a ghost in the city of Ishinomaki following the 2011 tsunami in Japan. Finally, we conclude with a discussion of why survivors tend to tell ghost stories with a sense of responsibility for disaster deaths from a memory theory perspective.