著者
山本 聡美
出版者
九州大学大学院比較社会文化研究院
雑誌
障害史研究
巻号頁・発行日
no.2, pp.1-13, 2021-03-25

近代的疾病観においては、病や障害を健全な身体の対極にあるものと捉え、加療を通じて健常なる状態へ近づけることに価値が置かれる傾向にある。一方、古代・中世日本においては、これとは異なる疾病観、障害観が存在していた。この点について仏教を中心とした宗教思想から論じた池見澄隆は、近代以前の日本における病気観に、大別して「治病」と「病の受容」の二つの対処があったと指摘する。前者には祈祷や医療があるとし、後者を「病に、正の価値を見出し積極的に意義づけて受けとめようとする姿勢」と換言した上で、その極地ともいうべき事例として、平安時代末期の浄土僧、永観(一〇三三~一一一一)による「病は善知識なり」との成句に着眼する。 / 善知識とは、仏教における発心や成道への導き手を指す。通常、多くの修行を積んだ高徳の僧を言うが、悟りに至るきっかけとなる人物や事物を広く指す言葉でもある。天永二年( 一一一一)、三善為康編『拾遺往生伝』所収の永観伝においては、「病」という本来なら修行の妨げともなり、出家受戒が許されないこともあり得る身体の状態そのものが「善知識」と位置付けられており、疾病や障害に「正の価値」が与えられている。このことを手掛かりに、本稿では「法華経変相図」「病草紙」「一遍聖絵」「粉河寺縁起絵巻」「法華経曼荼羅図」など、経絵や仏教説話画に描かれた病や障害のモチーフを分析し、そこに、人を発心への誘う善知識としての「正の価値」が生じている実態を明らかにする。 / 論述にあたっては、まず『妙法蓮華経』譬喩品や普賢菩薩勧発品、『大般涅槃経』梵行品などに説かれる因果応報観に基づく疾病観がいかにして絵画化されているのかという観点から図像を分析する。その上で、平安末期から鎌倉時代にかけて、施療を通じた病者救済に尽力した永観、一遍、忍性といった僧侶らの実践を通じた図像解釈を試みる。 / 以上の考察を通じて、本稿では、「病者救済場面」として一義的に理解される傾向にある病者の図像について、「病や障害を契機とした発心の表徴」という新たな解釈を提示する。中世仏教説話画を通じ、現代とは異なる論理で構築されていた、中世日本における病や障害との共生の思想を浮き彫りにすることを目指す。Modern perspectives on disease and disability are considered antithetical to a healthy body and there is a tendency to place value on bringing the body closer to a healthy state through medical treatment. On the other hand, in ancient and medieval Japan, a different perspective on disease and disability existed. IKEMI Choryu, who has discussed this from the point of view of religious thought centered on Buddhism, points out that they were, broadly classified into two measures, "treatment of the disease" and "acceptance of the disease", in Japan before the modern period. The former is said to have included prayers and medical care, while the latter is referred to as "an attitude of finding positive value in the disease, considering it meaningful, and actively trying to accept it." As an example of what should be called an extreme view, we consider the phrase "Disease is an admirable friend (J:善知識 Zenchishiki, Skt: kalyāṇa-mitra)" by Eikan (1033–1111), a Jōdo (Pure Land) monk during the late Heian period. / Zenchishiki refers to a method guiding religious awakening or spiritual enlightenment in Buddhism. Usually, it refers to a noble priest who is highly trained, but it is also a word that broadly refers to a person or thing that leads to enlightenment. In Eikan's biography included in Shūi-Ōjōden edited by Miyoshi no Tameyasu in Ten'ei 2 (1111), Zenchishiki is defined as a view of "disease" that would usually interfere with training, and as a bodily state that may not allow one to receive religious precepts and become a priest. A "positive value" was also attributed to disease and disability. With this as the key, this paper analyzes the motifs of disease and disability depicted in medieval Buddhist Paintings including the Illustrated Manuscript of the Lotus Sūtra, the Illustrated Scroll of Illnesses, the Illustrated Biography of the Priest Ippen, the Miraculous Origin of Kokawadera, and the Mandara of the Lotus Sūtra, that clarify the actual conditions that give birth to the "positive value" of Zenchishiki leading to a person's awakening. / In these descriptions, we first analyze the iconography in terms of the disease depicted based on the perspective of retributive justice as explained in Chapter 3: Simile and Parable and Chapter 28: Encouragement of the Bodhisattva Universal Worthy of the Lotus Sūtra, and Chapter of Brahmachary/Chapter of Bongyō-bon of the Mahāparinirvāṇa Sūtra. Furthermore, we also attempt to interpret the iconography through the practices of monks including Eikan, Ippen and Ninshō who provided relief to the sick through free medical treatment, from the late Heian to the Kamakura period. / Based on the above considerations, this paper presents a new interpretation of the iconography of a diseased person, which has conventionally been understood as primarily "situations of relief for the sick," as "a symbol of the awakening of the mind." Through medieval Buddhist imagery, we aim to highlight the idea of co-existence with disease and disability in medieval Japan built on a logic that differs from that of the modern period.
著者
福田 安典
出版者
九州大学大学院比較社会文化研究院
雑誌
障害史研究
巻号頁・発行日
no.1, pp.1-14, 2020-03-25

本稿は日本古典文学研究の障害史研究における寄与を問う試論である。日本古典文学は、障害者という概念が成立する以前の文献を扱う。そのために障害や障害者に関する用語や登場人物、ストーリーを有するものが多くある。そして活字本やデータベースでも容易に拾い上げることのできる環境がある。その状況の中で日本古典文学研究は障害史研究といかに関わることができるのであろうか。本稿はこの問題に対して「狂」を取り上げて論じる。構成は以下の通りである。「1 日本古典文学における「狂」」では、日本古典文学における「狂」を取り扱う。古典文学では、狂言や狂歌などのように「気が狂う」こととは別に「狂」が一般化されている。その延長で「風狂」「狂狷」が位置づけられるので、「江戸狂人伝」といった書物も出版される。しかしながら、この「狂」が精神疾患と無縁ではないことを「2 日本古典文学における「狂人」その1」、「3 日本古典文学における「狂人」その2」で具体的な事例をあげて論じた。志が大きく周囲と迎合しない高邁な行動力の持ち主が「狂狷」、その人を指す言葉が「狂人」であると文学用語は規定されている。その狂狷と似て非なる者は「狂蕩」と呼ばれる。一見明確なこの定義は実は明確ではなく、そのダークゾーンがあることを『不可得物語』から導きだし、そのダークゾーンがミシェル・フーコーの「狂気」と重なることを論じた。その観点から『徒然草』『父の終焉日記』『百万』と『東海道中膝栗毛』の狂人描写を通観すれば、やはりそこに異相が認められて奇麗に論じ分けることができない。そこで、精神神経医学の観点から小田晋、特に彼が病誌学的方法で取り上げた「狂気」の一症例の平賀源内を取り上げた。小田は源内の事跡に文学作品を絡ませて彼を分裂気質的要素を混ぜた循環気質者と断定する。ここで重要なことは、小田の学問や診断が成り立つためには、その伝記的人物の正しい伝記や作品論が揃っていることである。そして、その原拠たる正確な伝記や作品論を提供できるのは日本古典文学研究だけである。「4 狂気と創造」では、少し観点を変えて狂気が名作の創作に関わるのか否かという点について、平賀源内を論じた。源内は狂気故に日本文学史上に輝かしい軌跡を残したのだろうか。ここに於いてもやはり平賀源内の正しい伝記資料が扱われていないために病誌学的方法の限界がある。その正しい判断は日本古典文学研究の成果を待たねばならないのである。この現象は現代の精神病理学の病跡学でも同様の指摘が可能である。ここに障害史研究のための日本古典文学研究の必要性という結論を導きだした。最後に、源内が周囲から愛された事実にわれわれが障害者と「共生」するためのヒントがあるのではないかという展望を述べた。This paper examines the relationship between studies into Japanese classic literature and disability history research. In it, we discuss the use and meaning of kyo (狂) "mad/madness". We see two uses of "madness" in Japanese literature. One is the "madness" seen in terms such as kyogen (狂言) and kyoken (狂狷), and then there is the sort of "madness" found with fukyo (風狂) "insanity" and kyoki (狂気) "insanity/madness". The final form of madness, kyoki, has often been associated with "creation" or "creativity", but in order to pursue this line of study in greater depth, further research into biographical studies of Japanese literature is needed.
著者
末森 明夫
出版者
九州大学大学院比較社会文化研究院
雑誌
障害史研究
巻号頁・発行日
no.2, pp.41-62, 2021-03-25

従来の障害史研究は文字史料に偏っており、非文字史料を活用し切れていないという反省に立ち、障害史研究の展開における歴史図像学の援用をはかるべく、中世日本絵画史料の《融通念仏縁起絵》《遊行上人縁起絵》《聖徳太子絵伝》にみる不具や癩の描写の変化をたどり、中世日本の信仰の世界にみる障害認識の変容を明らかにすることを通して障害史研究に資することを試みた。 / まず《遊行上人縁起絵》諸本〈甚目寺施行〉にみる不具や癩の図様ないし構図の対比をおこなった。不具描写には躄跛や盲がみられたものの、いずれも乞食非人の輪の周縁に描かれており、乞食や不具の層の内部に階層性が存在することが窺われた。続いて《聖徳太子絵伝》諸本の〈無遮会〉にみる不具・癩描写の対比をおこなった。鎌倉時代以降の南都および真宗系諸本には癩描写がみられた他、南都系諸本には躄や跛の描写もみられた。最後に《融通念仏縁起絵》諸本の〈念仏勧進開始〉にみる不具や癩描写の対比をおこなった。祖本の影響が強く見られる甲系諸本よりも乙系諸本のほうが躄が早く描かれる傾向が窺われたものの、明徳版本ではさまざまな不具や癩の描写が同じ円座の下に描かれるようになる経緯が窺われた。 / 《遊行上人縁起絵》《聖徳太子絵伝》《融通念仏縁起絵》にみる不具や癩の描写は時代が下ると共に、階層性が薄れていく様相が窺われ、穢れを始めとする中世日本にみる不具・癩に対する認識の収斂と分岐が平行して生じていることが窺われた。一方、聾や瘖瘂に関する記述は文字史料には普通にみられるにも拘わらず、《融通念仏縁起絵》《遊行上人縁起絵》《聖徳太子絵伝》に聾や瘖瘂の図像を認めることはできず、不具描写にみる顕性的ないし潜性的不具図像とでもいうべき特性の違いがみられた。This note canvasses transitions of disabilities and/or lepers depicted in medieval manuscripts comprised three well-known pictures, "Yugyō Shōnin Engi", "Shōtoku Taishi Eden", and "Yūzū Nembutsu Engi" in Japan to contribute to the historical iconography from the viewpoints of changes of social recognition for the disabilities and/or lepers. / First, we compared design/layout of disabilities and/or lepers depicted in scenes of "Jimoku-Ji Segyō(tr. Charity for the poor, beggars, disabilities, and lepers)" concluded in the "Yugyō Shōnin Engi", indicating only cripples and blind persons who were portrayed around a communal dining circle for beggars. This arrangement strongly suggested visually a hierarchy in the class of beggars and disabilities. Second, measuring scenes of "Mushae(tr. Charity)" in manuscripts of the "Shōtoku Taishi Eden", providing new knowledge that disabilities and lepers had become popular as a subject painted in the scenes in addition to the poor and beggars since the late middle ages. Finally, observing scenes "Nembutsu Kanjin (tr. a mass in Buddhism)" concluded in the "Yūzū Nembutsu Engi", uncovering a change that disabilities and lepers were equally arranged with un-disabled beggars in a communal dining circle in the latest manuscript, however, that the disabilities had painted prior to the lepers in early manuscripts. / The finding regarding the layout of the disabilities and lepers in the medieval pictures profoundly indicated reduction of the hierarchy in the poor, beggars, disabilities, and lepers with the times in the middle ages because of the changes, which comprised the convergence and divergence, of recognition for the disabilities and/or lepers. However, the deaf or deaf-mute was not observed in above mentioned pictures, suggesting an aporia that there were dominant icons for the disabilities such as the cripple or blind persons and recessive ones like the deaf or deaf-mute.
著者
クウィーラダーヴィト= ドミニク
出版者
九州大学大学院比較社会文化研究院
雑誌
障害史研究
巻号頁・発行日
no.2, pp.15-39, 2021-03-25

本稿は、社会思想史の視座に立ち、子どもを例に上げて、〈障害者〉をめぐる見識や見解の歴史的多様性に関してより深く、多面的な理解の実現に寄与すべき試論である。 / 前近代の日本社会において「不具」や「片輪」、もしくは「異形」、「奇形」などと称されていた、身体の構造不全や形態異常、あるいは身心的機能上の不足や欠如のある子どもたち、〈障害児〉や〈奇形児〉の宿命については、既に研究がなされてきているが、親による遺棄、社会的排除を中心として、ネガティブな側面のみに着目したものが主流となっている。特に「異児」の遺棄に対しては、明治時代を迎えるまで〈罪意識〉や〈罪悪感〉は殆んどなかったという見方が現在も通説となっている。 / 日本国内においても進んできたDis/ability History研究という新分野の開拓に伴い、近年より、前近代における〈障害〉という現象の捉え方についてのイメージを問い直す必要性を指摘する声が徐々に上がってきてはいるが、近現代と比較すると、前近代についてはまだ解明し難い論点が多く残されている。 / 江戸時代に関しては、従来の日本近世史研究では、人口史や社会経済史、庶民生活史、児童史研究等により、〈捨て子〉や〈子殺し〉といった社会的事象は、これまでも多く論考されてきたテーマであり、〈障害児〉や〈奇形児〉を含めて研究が少なくない。それらの研究は捨て子や子殺しの原因や理由についてまでは言及されているが、そういった行為が〈障害児〉らに対してなされた場合、どのようにみなされ、認識されていたのかについては、未だ解析されていないままである。当時の一部の知識人(主に国学者、儒医として活躍した儒学者、さらに僧侶等)が書き残した史料の中に、特に江戸中・後期に渡り、遺棄を勧めた声の他に、養育の義務を重要視とした理論的見地が見出せ、その両方を本論の主たる分析対象としたい。
著者
末森 明夫
出版者
九州大学大学院比較社会文化研究院
雑誌
障害史研究
巻号頁・発行日
no.2, pp.99-110, 2021-03-25

本稿は上古・中古日本の文献および先秦より宋明期にいたる中国の文献にみる啞字彙・啞語彙の位相を対照し、唐代中期の啞語彙位相と上古・中古日本の啞語彙位相のずれに焦点をあて、その中に『日本書紀』「巻27天智天皇紀」にみる建王関連記述「啞不能語」の位置づけをはかった。その結果、「啞不能語」の「啞」は日本の文献において《不言》の意味で用いられた「啞」の最初期用例であると共に、《笑声》と《オフシ》という意味の二重性を内包する可能性が窺われた。This paper focuses a Chinese character 啞 in a sentence, citing a deaf member of the imperial family in Japan, Takeru-no-Miko, in a historical chronicle "Nihon Shoki" on the basis of comparison between history of words related to the deaf-mute in Japan and China in the ancient and middle ages. The consideration suggests that the sentence was the earliest example as the 啞 meaning the deaf-mute observed in historical documents in Japan, and that the 啞 would be used as a polysemic word implying not only the deaf-mute but also smiling.
著者
高野 信治
出版者
九州大学大学院比較社会文化研究院
雑誌
障害史研究
巻号頁・発行日
no.2, pp.63-77, 2021-03-25

本稿は、近世日本の日記史料にみえる生活史としての病気記録より、前近代における障害認識の一端に迫る可能性を探ることを課題とする。 / 分析対象は、広島藩家臣で儒者の頼春水と妻・静子がそれぞれに綴った日記である。春水は藩への召し抱え、静子は広島在住を契機に、日記をつけ始め、亡くなるまで、夫・父また妻・母として、それぞれに日々の生活を書き続ける。その中には家族の病気に関する記事が多数見いだせるが、史料的にも希有なかかる日記の特色を整理する。 / その作業を前提に、病気や障害認識への議論を進める。泰平で家職に精勤するのが「家」相続の価値観として重視される近世日本の時代性のなか、健康や病気への関心の高まりが想定されるが、個人の日記が、その実態や認識をめぐり重要な手がかりを与えてくれるのを、頼春水夫婦、とくに妻・静子の日記は教える。現代医学の観点(医学史)からの検証とともに、病気との境界があいまいでスペクトラムの関係ある障害の認識が、社会性(社会生活を営む上での適正)や人間性(仕事に精勤できる健康な心身)の欠如という考え方を背景に形成される様相を、長男(頼山陽)が「狂病」「癇狂」の「持病気」を理由に廃嫡(嫡子としての地位の剥奪)されたことを軸に考察する。The purpose of this paper is the precipitation of recognition of disability in pre-modern times. The subject of analysis is a diary from the Edo period, including articles on illness. In the Edo period, interest in health and illness increased, and against this background, information on family illnesses is described. I think that there is a possibility to find out the recognition about disability in it. The subject of analysis is a diary written by a Confucian scholar of the Hiroshima Domain (広島藩) and his wife. Confucian scholars are vassals of their lords and value the survival of their family. Therefore, the ability of the person to continue the family is an important issue. A person who behaves abnormally and is recorded in the diary as a madman is considered incapable of inheriting a family line. Such persons were considered disabled. / In this paper, we consider such a problem by focusing on Rai Sanyo (頼山陽), a child of Rai Shunsui (頼春水).
著者
高野 信治
出版者
九州大学大学院比較社会文化研究院
雑誌
障害史研究
巻号頁・発行日
no.1, pp.35-50, 2020-03-25

本稿は障害者の実態析出は重要な課題と考える立場から、従来ほとんど見られない、地方(じかた)記録を対象にした実態解析を試みる。その際、長い時間軸のなか、同じ地域での定点観測が可能な記録を選択する。様々な地域記録類の複合的な分析は必要だろうが、当面、一地域での観察による問題群の析出を優先させる、そのような意図からである。具体的には、和歌山藩田辺領の町役人たちによる記録により、障害者の葛藤や生活の実相を可能な限り 検証し、整理した。