著者
河口 明人
出版者
北海道大学大学院教育学研究院
雑誌
北海道大学大学院教育学研究院紀要 (ISSN:18821669)
巻号頁・発行日
no.111, pp.163-196, 2010

ポリスの存続という至上命題の中で,古代ギリシャ人が人間の身体に抱いていた観念は,精神と乖離した二元論的な理解ではなく,彼らの生存の内的欲求を意義づけるエートス(ethos)と一体のものであった。貴族文化の余韻をとどめながらも,人間の内面は身体に表現されることを確信し,その身体を創造せんとする卓越性(アレテー)の概念と結びつき,戦士共同体における生命のアイデンティティを構成することにって,ギリシャ文化や文明をもたらした主要な源泉となった。死すべき運命を悼みながら,その反映としての不滅の栄光を保障する卓越した勇気の顕現を,ポリス間の絶えざる戦闘という不幸の中で具現しようとしたギリシャ人は,英雄精神によって不死の神に至らんとする飽くなき憧憬を抱き続け,鍛錬された身体的能力と,限りない自己啓発を希求する精神的能力の渾然一体化した「カロカガティア」という,人間のありうべき理想像に関する概念的遺産を今日に伝える。
著者
宮盛 邦友 田中 康雄
出版者
北海道大学大学院教育学研究院
雑誌
北海道大学大学院教育学研究院紀要 (ISSN:18821669)
巻号頁・発行日
no.110, pp.115-136, 2010

本論文は,田中康雄2009『支援から共生への道―発達障害の臨床から日常の連携へ』(慶應義塾大学出版会)をめぐっての,教育学を専門とする宮盛邦友の読後感と,それへの精神医学を専門とする田中康雄の応答によって構成されている,「対話の試み」という共同研究である。「子どもの生存・成長・学習を支える新しい社会的共同」のために,教育学と精神医学の対話は可能か,ということを探求するものである。
著者
小泉 雅彦
出版者
北海道大学大学院教育学研究院
雑誌
北海道大学大学院教育学研究院紀要 (ISSN:18821669)
巻号頁・発行日
no.111, pp.23-40, 2010

本論では,日本の教育現場において,学習障害に対する教育的対応が遅れたことについて検討を加え,北海道における学習障害の処遇を振り返りながら土曜教室の誕生した生成過程を検証した。そして,「北大土曜教室」における「軽度発達障害*1」のある子どもたちに対する教育的支援と学生たちの学びと育ちを踏まえ,その教育的意義を明らかにした。さらに,日本社会においてノーマライゼーションとバリアフリーを推進していく上で,特別支援教育の重要性について触れた。「北大土曜教室」における,"学び(専門)"と"育ち(人材)"を支えるシステムは,特別支援教育を推進していくうえで先進的な役割を果たしていることが示唆された。
著者
石岡 丈昇
出版者
北海道大学大学院教育学研究院
雑誌
北海道大学大学院教育学研究院紀要 (ISSN:18821669)
巻号頁・発行日
no.107, pp.71-106, 2009

本稿は,P. ブルデューとL. ヴァカンのリフレクシヴ・ソシオロジーの方法に倣い,フィリピン・マニラ首都圏のジムに暮らすボクサーたちのボクシングセンスを再構成する試みである。ヴァカンが言うように,社会学は生身の身体を具象な水準で論じてこなかった。よって,身体の社会学を構想する必要性が90年代以降社会学界で叫ばれながらも,そこで対象として扱われるものは,<血と汗のにおい>を内包した私たちにとってタンジブルな位相にあるそれからは飛翔した身体言説の分析が支配的であった。ブルデューとヴァカンと共に,社会的行為者が特定のフィールドと親和性を持つ固有の道徳的倫理的図式のセット-本稿でボクシングセンスと呼ぶもの-を受肉化するプロセスを「客観化の技法を客観化しつつ」記述すること,さらにそこから理論化の構えを提示することが,本稿の目的である。
著者
鈴木 敏正
出版者
北海道大学大学院教育学研究院
雑誌
北海道大学大学院教育学研究院紀要 (ISSN:18821669)
巻号頁・発行日
no.104, pp.249-280, 2008

2006年末の教育基本法改定以来,教育をめぐるヘゲモニーの重要な焦点が「教育振興基本計画」となり,カウンター・ヘゲモニーとしての「地域生涯教育計画」を展開することが実践上の重要課題となっている。このように見る時,まずグラムシのヘゲモニー論から教育計画論が学ぶべきことを整理しておく必要があるであろう。 しかし,これまでのグラムシ研究の限界もあり,旧来の教育計画論がグラムシを十分にふまえて理論展開をはかったとは言えない。現段階においては,グラムシ研究の今日的発展の成果もふまえて,教育計画論がグラムシから何を学び,何を発展させる必要があるかが検討されなければならない。そこでの大きな問題は,第1に,そもそも教育学の立場からグラムシをどう理解するかという研究がきわめて希薄であるということである。第2に,教育学のどの領域(論理レベル)において(したがって,グラムシのどのような理論とのかかわりで)「教育計画」を語るかが明確でないということである。 本稿では,まずIで,「グラムシと教育計画論」というテーマがいかにして成り立つかについて簡単にふれてみる。次いでIIにおいて,グラムシ理論をふまえて教育計画論へアプローチするにあたっての基本的視点を述べる。そしてIIIからVにおいて,筆者が考える教育学=「主体形成の教育学」の立場から,原論・本質論・実践論の3つの領域において,グラムシの思想を教育学としてどのように読み取ることが可能であるかについて述べ,教育学が「グラムシとともにグラムシを超えて」いく方向を考えてみる。 IIIでは,とくに人格の構造的把握と教育基本形態とくに教育労働論にかかわる議論をグラムシ理論との関連において取り上げる。IVでは,現代教育構造の把握と,それを前提にした政治的国家の諸形態と構造,現代的人格の社会的形成過程,さらにグラムシのサバルタン論とのかかわりにおける社会的排除問題について述べる。Vでは,グラムシの教育・文化活動論を現代的人格の自己教育過程として捉え直した上で,教育実践展開の論理とグラムシの知識人論との関係を論じる。 これらをふまえて,VIにおいては,グラムシの「実践の哲学」を発展させていく方向において,現代教育計画論の課題を考えてみたい。すなわち,教育計画の基本的理解,教育計画論におけるグラムシの位置,教育計画化への「別の道」とくにアソシエーションの役割を提起する。VIIでは,グラムシ的視点から教育計画論を発展させていく課題と,それまでふれられなかったグローバル・ヘゲモニー論などとの論点かかわりで,「グラムシを超えてグラムシとともに進む」課題を述べる。
著者
山内 聡也
出版者
北海道大学大学院教育学研究院
雑誌
北海道大学大学院教育学研究院紀要 (ISSN:18821669)
巻号頁・発行日
no.102, pp.91-106, 2007

本論文は,犀の寓意像が近世ヨーロッパ人の新大陸の認識にどのような影響を与えたのかといった点を図像学的側面から考察する。犀の象徴性は,新大陸の擬人像の典型であった「インディアンの女王」が引き連れるアルマジロの象徴性と重なる。それはイメージの連鎖を生み出し,ブラジルやアフリカ,そしてヨーロッパといったそれぞれを象徴する地域の区別も曖昧にする。犀の象徴性は,ヨーロッパとは異なる場所という二極化した構図でとらえられる一方,同時代に海外進出を始めたヨーロッパ自身のあり方をも映し出すのであった。ヨーロッパの人々は非ヨーロッパ世界をどう思い描いたのか,という帝国主義の眼差しの問題は近年精力的に論じられているが,個別の事例による分析はまだ不十分である。個別のテーマに絞って変貌していく眼差しの様相を描くことは,西洋と東洋,文明と野蛮といった二次元的な見方に陥っていた新大陸の表象の研究に学術的意義を与える。