- 著者
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金子 龍司
- 出版者
- 学習院大学大学院
- 巻号頁・発行日
- 2019-03-01
本稿は、レコード、映画、舞台興行、ラジオなど、1920年代以降の都市化とともに勃興・発達した大衆娯楽に対する統制を考察する。時期は日中戦争開戦前後から日本政府による統制が廃止される1945年10月前後までとする。方法としては、政府機関による娯楽統制や個々の措置が立案され講じられるまでの力学をたどり、その効果や影響を検証する。これにより、日本政府による娯楽統制のあり方に一定の見通しを与えることを目的とする。本稿が特に注目するのが、流行歌をはじめとした音楽を対象とした統制である。理由は、音楽は映画や舞台興行など他の視聴覚メディアと比較して再生が容易なため(ラジオ、レコード、実演に加え、子供から大人までの消費者による歌唱など)、人々への浸透性が高かったと評価できるからである。研究史を踏まえたうえでの本稿の課題は、以下の4点である。1.娯楽統制に関わる主体相互の力学の解明:90年代以降の先行研究において、戦時下の娯楽には、官僚、業者、製作者、観客、教育者など様々な主体が関与したことが明らかになっている。しかし、各主体間の力学に対しては関心や分析が十分及んでいないため、統制については2010年代に至っても政府対業界という固定的で二項対立的な図式で解釈がされることがある。そのため、各主体がどのように統制に関わっていたか力学的に考察し、二項対立的な図式の有効性を検証する必要がある。2.統制に対する娯楽の受け手の動向の解明:統制に関与した主体のうち、聴取者・観客など娯楽の受け手は、現在までほとんど分析が及んでこなかった。しかし、彼ら受け手は新聞雑誌や当局に対して投書を通じた意見表明を行い、統制に少なからぬ影響を及ぼしていた。このため、彼ら受け手の動向を注視して考察を進める必要がある。 3.当局の受動的な態度の解明:本稿が注目する戦時下の娯楽は、1920年代に勃興した新興メディアであり、当局の関心もさほど高くなかった。それゆえにこそ、上記2.で述べたように受け手の動向が統制に影響を及ぼす余地も生じていた。言い方を変えれば、娯楽統制は、受け手によって問題視され社会問題化した事象に対して当局が事後的に火消しをする程度で当局内でも社会的にも許容されていたことに大きな特徴があった。しかし、この点は先行研究で十分に検討されているとはいえない。 4.敗戦直後の日本政府による娯楽統制の動向の解明:日本政府による娯楽統制は、敗戦後45年10月まで存続していたが、先行研究において8月以降の動向はほとんど明かにされていない。しかし、該時期は戦争末期以来の国家存続の危機が続いていたことから、この極端な状況で娯楽に期待された役割を確かめることにより、日本政府による娯楽統制の特徴を考えるうえで多くの示唆が得られるはずである。 以上の課題を念頭に、本稿は以下の章立てで構成する。「第一章 検閲官の思想と行動‐警視庁保安部保安課興行係の場合‐」:警視庁の興行統制に注目し、総論的に検閲官とはどのような人たちであり、娯楽に対する検閲や取締りがどのように行われていたか論じる。検閲官たちの発想は「芸術至上主義」と教養主義を柱としており、大衆娯楽を弾圧しつつも、軍部に対して演劇を「保護」する役割をも果していた。 「第二章 「民意」による検閲‐『あゝそれなのに』から見る流行歌統制の実態‐」:1936年発売の大ヒット流行歌『あゝそれなのに』の取締り過程に注目し、流行歌の取締りが受け手―具体的には「投書階級」と呼ばれた中間層の意向に規定されていたことを明らかにする。 「第三章 日中戦争期の「洋楽の大衆化」と「洋楽排撃論」に対する日本放送協会、内務省の動向」:日中戦争期に人気を博して「大衆化」した「洋楽」に対する排撃論と、これへの当局の対応に注目する。内務省と日本放送協会は、日本主義と結びついて影響力を増した「洋楽排撃論」に対応せざるを得なかったが、決して「洋楽」排撃論者の言いなりになるのではなく、むしろそれぞれの方法によって「洋楽」を排撃論者たちから保護しようとしていた。 「第四章 太平洋戦争期の流行歌・「ジャズ」の取締り―音楽統制の限界―」:1941年の太平洋戦争勃発以後の流行歌や「ジャズ」を始めとした音楽の取締方針の厳格化とその実態を明らかにする。当局はたしかに取締りを強化したが、実態としては音楽の取締りは技術的に困難であり、最も取締りが強化されていた1944年頃でさえ、これを貫徹させることはできなかった。 「第五章 太平洋戦争末期の娯楽政策‐興行取締りの緩和を中心に」:サイパン陥落後に成立した小磯国昭内閣の娯楽政策に注目する。戦局が絶望するなか、小磯内閣は戦争を支える下層階級の戦意高揚のため、従来、中間層の意向を踏まえて強化してきた大衆娯楽の取締りを一転して緩和し、さらに奨励した。しかし、娯楽の享受の前提となる国民の生活基盤は、多くが空襲の激化とともに徹底的に破壊されたため、政策の所期の目的の達成は困難だった。 「第六章 敗戦直後の娯楽政策―東久邇宮内閣期を中心に」:敗戦直後の日本政府による娯楽政策に注目する。8月15日に天皇から国民に対して敗戦が告げられても、大日本帝国の国家存亡の危機は依然として続いていた。このとき、天皇および宮中グループは、国民の批判の矛先が天皇に向かないようにするため、「仁慈」として灯火管制の解除・私信の検閲の停止とともに娯楽の復活を講ずることを東久邇宮首相に指示した。本章は、これを受けた東久邇宮内閣の娯楽政策とその効用を、GHQによる娯楽政策とも対比させつつ論じる。 終章では、本稿の結論として、先にあげた本稿の4つの課題を念頭に、議論を整理して日本政府による娯楽統制の特徴と問題点を指摘する。娯楽統制の特徴としては、①統制の対象となった映画、ラジオ、レコード、娯楽興行は当時としては新興のメディアであったため、取締官庁であっても管理職クラス以上の役人の関心が薄かったこと、②各官庁は、それゆえに実務には専門職的な検閲官を配置して大きな裁量を与え、世上問題化した事案を場当たり的に取り締まるだけで良しとする受動的で「緩い」運用へと傾いていたこと、③したがって中間層が統制に容喙し、当局をして取締りを強化させる余地が存在していたこと、④ただし、戦争末期以降は統制方針が一変し、戦争遂行や秩序維持の観点から下層階級に受け入れられる大衆娯楽が奨励されたことなどを指摘する。また、上記の特徴を有する体制から生じた問題としては、統制の不公平さ―たとえば、世上問題となった有名人だけ取り締まられるなど―をあげる。こうした不公平さは、検閲官に大きな裁量が与えられた反面、再審制の導入などのチェック機構の整備が必ずしも充分でなかったことや、検閲官に場当たり的な対応が許容されていたことから生じていた。検閲を受ける側にとっては、こうした不公平感が検閲に対する怨恨へとつながった。従来の研究の多くは、彼ら被害者の証言を引用することで、検閲当局と被害者との二項対立の図式を再生産してきた。本稿が指摘したのは、こうした検閲官たちの不公平な取締りを可能にし、それを支えた構造であった。