著者
河見 誠
出版者
青山学院女子短期大学
雑誌
青山學院女子短期大學紀要 (ISSN:03856801)
巻号頁・発行日
vol.56, pp.105-128, 2002-12-10

From the 1990s the "New Civic Society" which is diffent from the market society becomes the focus of public attention. The "New Civic Society" is composed of various associations and communities including NPO, NGO, volunteer groups, ecology movements, etc. The reason why many people pay attention to the "New Civic Society" is their expectations for it to open not only a new development in politics but also a public space for human flourishing. Then what role does law play in this "New Civic Society" movement? "Republicanism" insists that law makes possible and activates communications in the New Civic Society. Therefore law is the basis for politics and human flourishing in the new era. Criticizing republicanism thoroughly, Emilios A. Christodoulidis insists that law pauperises politics and excludes many human (anguished) voices. Instead of law, he proposes "Reflexive Politics" which activates politics and human activities. His theory is based on "contingency" and "self-reference" so as to "remain free to contest." I think Christodoulidis' criticism of republicanism is to the point, but reflexive politics does not bring about open public sphere, non-exclusive human relationships. This is because the theory presupposes "passion"-based human relationships. I will propose politics (or love) as "corn-passion" instead of politics (or love) as "passion." I think "compassion"-based human relationships will certainly open the possibility to "remain free to contest." A theory based on "compassion" would restore the world of ethics, and it would try not to exclude law and politics from the world of ethics, but to locate them in the world of ethics. We can name it "Natural Law Theory as Compassion." This theory is worth studying as a philosophy of law for the "New Civic Society."
著者
任 正〓 イム ジョンヒョウ
出版者
青山学院女子短期大学
雑誌
青山学院女子短期大学総合文化研究所年報 (ISSN:09195939)
巻号頁・発行日
vol.10, pp.155-164, 2002-12

朝鮮の陶磁器は日本に三度、大きな影響を与えている。最初は古墳時代で、須恵器がつくられたが、この技術は朝鮮から日本に渡来した人たちが伝えたもので、その後、備前、常滑、丹波、瀬戸、信楽、越前の日本六古窯へと発展した。二度目は豊臣秀吉の朝鮮侵略で、このとき朝鮮から連れて来られた陶工により、九州から中国地方にかけて新しい焼物が創始された。有田焼、唐津焼、高取焼、萩焼、薩摩焼、小鹿田焼などである。この陶工たちを主人公にした小説も描かれている。三度目は近代で、柳宗悦が主唱した民芸運動により民芸ブームが起こり、益子焼などが民芸風として人気を博していることがあげられる。この柳の民芸概念に影響を及ぼしたのが李朝の白磁であった。柳はそれまで雑器扱いの李朝白磁に「用の美」を見いだしたのである。以上の陶磁器に見る日朝関係を、それに関係する人間模様にからめて講演した。柳については特に朝鮮の美を文化として教えた浅川巧のことにもふれた。陶磁器の歴史には、異文化と出会い、葛藤しつつも、互いに理解しあう学習過程が多くみられ、この体験は国際化のありかたを考える上での貴重な例としてとらえることができる。
著者
岩本 裕子
出版者
青山学院女子短期大学
雑誌
青山学院女子短期大学総合文化研究所年報 (ISSN:09195939)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.177-192, 2001-12-25

多文化社会ぶあるアメリカ合衆国において,アメリカ黒人たちがどのようにして,「自分探し」をしてアイデンティティを確認していくのか,という問題提起に,映像を通して一つの答えを見つけたい。独立独歩の黒人監督の先達たちが歩んだ道を,1990代にその「息子たち」は何を主張して映画を作り続けたのだろうか。映像の中で「娘たち」は詩を通して何を語り,自分自身を見つけていったのだろうか。公民権運動以降。「差別是正措置(アファーマティブ・アクション)」をめぐる議論は,白人からの巻き返しである「逆差別」議論へと発展し,1996年のカリフォルニア州住民投票「提案209」通過をもたらした。白人ばかりか,黒人をも二分するこの議論を映像はどのようにとらえたのだろうか。白人の立場から描かれた作品二本を通して考える。さらに黒人監督によって多文化社会ととらえられた空間で展開される出来事から,黒人にとっての多文化社会とは何なのかも検討する。自らに誇りを持つこと,その誇りを語りつぐこと,という二つのことは,厳しい歴史を強いられてきたアメリカ黒人という人種の使命であったし,これからも続くことだろう。こと黒人に限ったことではなく,全人種,全民族,当然日本の若者たちにとっても使命であるはずだ。自らの出自に誇りを持ち,語れることから,自分探しは始まるのだから。
著者
君塚 淳一
出版者
青山学院女子短期大学
雑誌
青山学院女子短期大学総合文化研究所年報 (ISSN:09195939)
巻号頁・発行日
vol.9, pp.147-154, 2001-12-25

ポール・オースターはようやく,この作品で自身のユダヤ系アメリカ人としてのアイデンティティを確立する方法を見つけたように思える。第8作目にあたるこの『リヴァイアサン』で彼は,舞台を1880年代の祖先が合衆国へ移民した時代まで遡ることになる。建国以後の少数派を抑圧し虐殺したアメリカの偽善の歴史を作品で提示することで,ベンジャミン・サックスという現代版ヘンリー・デイヴィッド・ソーローに,この国が「自由の女神」に象徴される理想に忠実かどうか問わせ自由の女神のレプリカを爆破し続けさせるのである。またこの作品が現代アメリカの抱える問題に触発され描かれたことも明らかで,出版年にはロドニー・キングのロス暴動が起き,また前年には湾岸戦争が勃発している。