Yasuhiro Kamimura (@YasKamimura)

投稿一覧(最新100件)

Twitter、広告が増えて大半は時間の無駄だと思うけど、異分野の先生のこういうメッセージが流れてくるのはいいですね。 「目の前の課題に120%力を注ぎ、歩みを止めないでさえいれば、必ずどこかにはたどり着く」(鳶巣守「研究者の理想と現実」)。 https://t.co/33pRkMtXxt
「おおかた泰時、心正しく政すなおにして、人をはぐくみ物におごらず、公家の御ことを重くし本所のわずらいをとどめしかば、風の前に塵なくして天の下すなわち鎮まりき。かくて年代を重ねしこと、ひとえに泰時が力とぞ申し伝えたる」(北畠親房『神皇正統記』) #鎌倉殿の13人 https://t.co/Rvj1oVmwgS
「カッセルの主張において、わが国にて引例するならば、総じては通商自由論上の上田貞次郎博士のかつての所論を想い、また社会評論上の河合栄治郎教授その他の自由主義的論者の諸文章を想い合わさざるを得ない」(高島佐一郎の序文。カッセル『計画経済と独裁政治』1934年) https://t.co/UjSDKZre24
授業評価の起源。「先生のスペンサーを祖述せらるるや、学生中にはこれに満足せず、先生があまねく諸家の説を咀嚼して一新機軸を出されんことを希望する者もあり、直接に先生に向かって講義の註文をする者のごときさえあった。」(外山正一先生小伝) https://t.co/ZHci4QftYV
万歳三唱を決めたのは社会学者の外山正一(1848~1900)。むしろLong Live the Queenの翻訳だったらしい。「世間では何々会万歳、何々君万歳などと勝手に用い、すべて愉快を感ずるときなどにも用いるに至ったが、それは万歳の濫用である。」(和田信二郎) https://t.co/0XJkZrBwmC

1 0 0 0 日本の経営

「われわれ日本の社会科学者がこんにちなすべきことは、学問的であるとともに現実的であり、革新的であるとともに実行可能的な提案をつぎつぎにおこなって、各界の政策決定者のために有効適切な指針を提供することでなければならない。」(尾高邦雄『日本の経営』1965年) https://t.co/XdyhMDK1i1
そういえば、厚生年金80周年の祝賀ムードはありませんでしたねえ。 https://t.co/l1MMLoUPGU
その通りだなあ。「社会学の救命策はこれだという処方箋が確認され、社会学界が一致団結してその方向に動くようなことが(万一)あるとしたら、そのときこそ社会学は死に向かうことになるだろう。」(井上俊) https://t.co/KSyj2YQYOT
運営が非民主的だったという日本社会学院の会員名簿(1920年)。戸田貞三講師や学生だった本田喜代治先生も会員。意外なのは近衛文麿、若槻礼次郎など。建部遯吾教授の友達の名士にも入ってもらっていたのだろうか。榊亮三郎(サンスクリット学者で榊文子さんの義父)も会員。 https://t.co/srItqsdq7h
「『社会学雑誌』の賛助員依頼のために各大学の教授などを訪問した際、下出君の交渉ぶりは多くを言わずして要領を得たものだと、同行の本田君なども敬服していた」(藤原勘治)。名大初代教授の本田喜代治先生もそこにいたのが嬉しい。本田は1922年、下出と藤原は1923年卒業。 https://t.co/LesXcTRF9D
下出隼吉の親友で毎日新聞記者になった藤原勘治(1895~1972)の卒業論文だろうか。メディア社会学の嚆矢。 藤原勘治『新聞紙と社会文化の建設』(下出書店、1923年) https://t.co/Ve4xBAZh03
下出隼吉の父・下出民義(1862~1952)が初期の日本社会学会のスポンサーだったことになる。 https://t.co/wVCCaU7jRX https://t.co/3Lw9f1d4a5
1924年、日本社会学会を創立した下出隼吉(1897~1931)は名古屋出身。『社会学雑誌』の創刊に参加したのは、下出のほか本田喜代治、鈴木榮太郎、林惠海など。創刊号の寄稿者は、戸田貞三、林惠海、土方成美、三田定則、中山太郎、松本潤一郎、三好豊太郎、本田喜代治。 https://t.co/aRZWHnNeT2

1 0 0 0 田中太郎

日本社会学会はそろそろ百周年なんだなあ。と思ったら、1895年に布川孫市(1870~1944)が創立した社会学会というのもあったらしい。布川は田中太郎や生江孝之と親友だった。「田中君は意志の人、生江君は情熱の人、僕は自評するも可笑しいが、まず理性の人」(布川孫市)。 https://t.co/AjN7PaMXe2
「…社会科学の前進にとっては推し測りえぬ苦難が累積しているものと考えねばなるまい。けれどもわれわれは、J・S・ミルに倣って、肥えたる豚たらんよりは空腹なソクラテスたることを選ぼう。1947年1月22日」(大河内一男) https://t.co/DnI8xf94tD
浅井金松先生(1910~?)著『続・天白区の歴史』(名古屋区史シリーズ⑩、1987年)の24章「景勝地としての八事山」。「本文は私の指導した川名中学の上村泰裕君の研究物によるものであることを付記しておく」とある。 https://t.co/R3APkn56Wj

4 0 0 0 日本天国論

「台湾人に生まれたばかりに、私は日本時代には、差別待遇を受けたり、憲兵隊に引っぱられたり、思想が悪いといって大学を退学させると脅かされたりした。日本人が去って国民政府がやってくると、今度は台湾から逃げ出さねばならなくなった」(邱永漢『日本天国論』1957年) https://t.co/orCkrPwIWU

4 0 0 0 日本天国論

「私がかなり長いスペースをさいて戦前戦後の台湾について述べたのは、蒋介石と台湾人をごっちゃにしないこと、したがって台湾に現在頑張っているのは、アメリカと蒋介石のほかにこの島の主人である台湾人がいることを思い出していただきたかったのである」(邱永漢、1957年) https://t.co/971JNnF11C
「社会科学研究会の会員諸君が、ひとたび取り上げた対象を捨て去ることなく、愛情をもって不断に注視することを自分は希望したい。それにしても、壕舎生活の調査に挺身した邱永漢君はすでに君の故国に帰り、…本書の出版を目前にひかえて寂寥の感なきを得ない」(大河内一男) https://t.co/i4W2f1nF9v
猫文二の起源?「敗戦直後、われわれ学生の虚脱状態を評して、日本の学生は戦時中猫をかぶっていたとするならば、彼らはまさに猫そのものに没落してしまったのではないか、という意味の痛烈な風刺が一台湾留学生〔邱永漢〕によって提出された」(高橋洸) https://t.co/ndnMlPgmPo
金儲けの神様・邱永漢(1924~2012)は、院生時代の1945年11月に戦後最初の社会調査をやった人だった。友人と社会科学研究会を作り、人のよい大河内教授に顧問になってもらったそうだ。東大社研ができるより前のこと。邱永漢のデビュー作でもある。 https://t.co/cAEx4hLHCW https://t.co/BWNbmQcm35

1 0 0 0 OA 國際事情

込み入った事情をリアルタイムでちゃんと把握していたんですねえ。「その頃ドイツは食糧欠乏のため穀物の豊富なウクライナ共和国と単独講和を締結して、ウクライナから糧食の供給を受けようと思った。」(外務省情報部「ウクライナ問題」1939年) https://t.co/2Pddd1Kqh8
「北方ロシアにおいては親独党は反動保守であり、南方〔ウクライナ〕においてはそれがナショナリストと呼ばれているのは、独墺勢力が浸滲している証左ともいえるであろう。」(芦田均『革命前後のロシア』1958年) https://t.co/ZU3h73N4GD
「世界大戦の終わり頃になってドイツが物資が非常になくなってくると、その頃のベルリンの人口に食を与え、ウィーンの人口に食物を与えたのは実に南露のウクライナの農業であった。これはどうしてもドイツの忘るること能わざるところである。」(米田実、1936年) https://t.co/wI49Gyikoy
元首相の意外な名文。「赤い旗の行列、聖像、砲声、火焔、破壊、それが全身の神経を興奮させる。ロシア人は劇的であり、音楽的であり、そしてまた夢想家である。彼らの耳にする革命はその実感を通じて初めて認識されるのである。」(芦田均『革命前後のロシア』1958年) https://t.co/e1CS83nhD2
「近衛をはじめ、時の指導者たちは、その革新理論が指向する東亜新秩序から世界新秩序へのプログラムが、共産主義のそれであったことに、全く気づかなかった。旧日本の悲劇はそこに生じたのである。」(立野信之『太陽はまた昇る――公爵近衛文麿』) https://t.co/gsl9xfsQmJ https://t.co/upNIQKCinw
すごい本があるものです。歴史上の人物が肉声で喋ってる。 安藤良雄編『昭和経済史への証言』上中下(毎日新聞社、1965~1966年) https://t.co/VxrLEEXSLm https://t.co/Ox8tdLMfU5 https://t.co/7sYnnLEfF0
すごい本があるものです。歴史上の人物が肉声で喋ってる。 安藤良雄編『昭和経済史への証言』上中下(毎日新聞社、1965~1966年) https://t.co/VxrLEEXSLm https://t.co/Ox8tdLMfU5 https://t.co/7sYnnLEfF0
すごい本があるものです。歴史上の人物が肉声で喋ってる。 安藤良雄編『昭和経済史への証言』上中下(毎日新聞社、1965~1966年) https://t.co/VxrLEEXSLm https://t.co/Ox8tdLMfU5 https://t.co/7sYnnLEfF0

1 0 0 0 OA 応用論理学

中村正直が驚いた訳書は、ドルバル著(今井恒郎訳)『応用論理学』(1887年)。原書はMathias Amos Drbal(1829~1885)のPraktische Logik oder Denklehre。『実用論理学ないし思考法 : 教員養成大学、中等教育機関およびあらゆる階層の教育者のために : 実例を用いて』。 https://t.co/37SobZ9qjG
大正5年刊行の『中学漢文読本』。幕末の文章を多く収録していて驚かされるが、当時は維新から半世紀。現在なら丸山眞男くらいの感覚か。おすすめは中村正直(1832~1891)「土氏論理学の序」。漢学の教え子の今井恒郎(1865~1934)がドイツ語の本を訳して驚いたという内容。 https://t.co/0QIYrFQ5pI
「西のコント、東のトンゴ」の建部遯吾(1871~1945)。調子はずれのトンデモ社会学者の印象しかないが、結構頑張っていたんだな。デュルケームにも会いに行ったとは。 猪原透「明治期の社会学と国際関係論――建部遯吾の対外観」 https://t.co/hxHp827mKJ

1 0 0 0 新評

勉強になる古雑誌記事。日本政治は本当に共産党への反作用から成り立っているんだなあ。右翼から見ると自民党も頼りないので、宗教頼みになったわけだ。 猪野健治「いま、怪物たちが考えている〝凄いこと〟――笹川良一・小佐野賢治・児玉誉士夫・田中清玄」(1974年) https://t.co/aDRA2Of2G0
森岡清美先生の社会学方法論。理論より調査のほうが板についているが、どちらもてきぱきと整理し判断をつけていくエネルギッシュな仕事ぶりを髣髴とさせる。 森岡清美「社会学的調査」(1968年) https://t.co/mXWxREnGq1 森岡清美「理論構成への接近」(1968年) https://t.co/hOjKB5LaT3
森岡清美先生の社会学方法論。理論より調査のほうが板についているが、どちらもてきぱきと整理し判断をつけていくエネルギッシュな仕事ぶりを髣髴とさせる。 森岡清美「社会学的調査」(1968年) https://t.co/mXWxREnGq1 森岡清美「理論構成への接近」(1968年) https://t.co/hOjKB5LaT3
柳宗悦は、元良勇次郎のもとで心理学を専攻したのに卒業間際に疑問が生じ、「心理学は科学たり得るや」という卒論を書いたそうだ。「扇風器は便宜でしょう。しかし自然の微風に優るとは誰もいい得ないでしょう。それはたかだか代用品に過ぎないのです」(柳宗悦「琉球の富」) https://t.co/MN2batzeMm
『私の卒業論文』の人選が文学部(と理学部)に偏っていると思ったら、法学部や経済学部には昔から卒論がなかったんだな。 https://t.co/sB6RkBMFUJ
大河ドラマ必携『吾妻鏡史話』(1936年)。著者の山路閑古(1900~1977)は東大化学科出身の俳人で古川柳研究家。学生時代に実験でたびたび爆発事故を起こしたらしい。川柳で釈尊伝を著わす。 頼朝時代 https://t.co/2gk8zRjFMg 頼家・実朝・其他 https://t.co/FiSPt6dzhz https://t.co/GWaA2vFmID
大河ドラマ必携『吾妻鏡史話』(1936年)。著者の山路閑古(1900~1977)は東大化学科出身の俳人で古川柳研究家。学生時代に実験でたびたび爆発事故を起こしたらしい。川柳で釈尊伝を著わす。 頼朝時代 https://t.co/2gk8zRjFMg 頼家・実朝・其他 https://t.co/FiSPt6dzhz https://t.co/GWaA2vFmID
大河ドラマ必携『吾妻鏡史話』(1936年)。著者の山路閑古(1900~1977)は東大化学科出身の俳人で古川柳研究家。学生時代に実験でたびたび爆発事故を起こしたらしい。川柳で釈尊伝を著わす。 頼朝時代 https://t.co/2gk8zRjFMg 頼家・実朝・其他 https://t.co/FiSPt6dzhz https://t.co/GWaA2vFmID
名古屋大学の歴代総長のうち唯一文系出身の松坂佐一総長による大学論。オルテガ型ではなくフンボルト型の趣旨で、簡にして要を得ている。 松坂佐一『大学の理念および使命について』(1961年) https://t.co/ZOrYMjINPo
「いやしくも学芸をもって自ら任ずる者は、よくその義務をわきまえ日夜黽勉刻苦し、はじめて一学士たるに恥じざるなり。豈に生徒を教育するの一事をもって足れりとせんや。」(三宅米吉、1881年) https://t.co/jT2a7GI3el https://t.co/s8uKRFjGsj
「いやしくも学芸をもって自ら任ずる者は、よくその義務をわきまえ日夜黽勉刻苦し、はじめて一学士たるに恥じざるなり。豈に生徒を教育するの一事をもって足れりとせんや。」(三宅米吉、1881年) https://t.co/jT2a7GI3el https://t.co/s8uKRFjGsj

1 0 0 0 教育試論

「大学院は大学の延長ではなくしてあくまでも研究者養成の機関でなければならぬ。学問を自己の使命と考え、生涯を学問研究にささげんとする少数者にのみ開放さるべきであって、多数の学生が単に資格をとるための方便とされてはならぬ。」(天野貞祐、1948年) https://t.co/7xIJ5wAEFl

1 0 0 0 新公論

「問題は、大学の名称を冒す学府の性質を、たんに社会有用の人物を教養するものとしておくか、もしくは真理の研究を主眼とする機関とするかであろう。学者たるを志さぬ学生といえども、この精神を涵養し、しかる後に実務に就くようにしなければならぬ。」(柴田桂太、1917年) https://t.co/uWSiUKAsuj
さすが小説的。「その頃、本郷の白十字の二階で、渡辺一夫先生と小林秀雄氏とが活話しておられるところへ行き合せて、小林さんから、卒業論文に何をするつもりかと訊かれて、ぼくは返事に窮した。すると小林さんは、自分は卒業間際になって…」(中村真一郎) https://t.co/xGLxCzeATS
1956年刊の『私の卒業論文』(東京大学学生新聞会編)。林健太郎「史料に魅了された頃」、福武直「形式主義に飽き足らず」、中村真一郎「小林秀雄にヒントを得て」あたりが印象深いが、高級すぎて(というか読書系の卒業論文ばかりで)学生指導に使えるような話は出てこない。 https://t.co/sB6RkBuwGB
林惠海教授と福武直調査助手の中国蘇州農村調査 調査団記念撮影、1940年8月、寒山寺にて (林惠海著『中支江南農村社会制度研究』有斐閣、1953年) https://t.co/tsuVjHuZuw
意外にまともではないか。「百千の反共論をならべ立てるよりも、げんざい日本の政権をにぎっている保守政党が改革され、国民に真実信頼される政治を行なうことこそ、最良の反共的"防波堤"であると信じたがゆえに、保守党の反省を強く求めた。」(児玉誉士夫、1961年) https://t.co/QocTEH9hHy
ピースロードって、こんなところに淵源があるのかも。防共鉄道、トゥーラン主義ですよ。 湯本昇『中央アジア横断鉄道建設論――世界平和への大道』(1939年) https://t.co/cjsuU3GBeX
この危機感から来る打算が宗教頼みを生んだのか。「天理教でも五百万人の会員がおり、創価学会に至っては千数百万人の会員を有しております。しかし現実に政権をとっている自民党の党員は、十五万そこそこで十六万とは持っていないのです。」(児玉誉士夫、1967年) https://t.co/KYXBw2lYRB
こんな本も書いているのか。 矢次一夫『臨時工問題の研究』(労働事情調査所、1935年) https://t.co/VFzBFTu8qr 矢次一夫『昔の労働争議の思い出』(国策研究会、1956年) https://t.co/PQPZLWWlOM
こんな本も書いているのか。 矢次一夫『臨時工問題の研究』(労働事情調査所、1935年) https://t.co/VFzBFTu8qr 矢次一夫『昔の労働争議の思い出』(国策研究会、1956年) https://t.co/PQPZLWWlOM
岸信介の側近は吉野作造の弟子だったんですね。「はなはだ失礼な言い方であるが、晩年の博士はもはや単なるデモクラシーの学徒ではなかった。ゆえに私どもは博士の天寿なお五年あらば、いかなる大事業を成し遂げられたかわからぬと思うのである。」(矢次一夫、1934年) https://t.co/W52GlK4vTB
福岡誠一(1897~1975)は国際ジャーナリストの草分け。本田喜代治先生(1896~1972)の同級生(ただし本田先生は文学部社会学科、福岡氏は法学部政治学科)。 https://t.co/efrj6w1UcV
一日一善のおじさんは、結構痛快な人だったんだなあ。『笹川良一の見た巣鴨の表情――戦犯獄中秘話』によれば、戦前の右翼には、浪人右翼、ノリト右翼、暴力右翼、大衆右翼の四類型があり、彼の国粋大衆党は前三者とは全く違う大衆右翼なのだそうだ。歴史は小説より面白い。 https://t.co/LAr2QVkKlD

1 0 0 0 小説岸信介

ソ連のスパイだった尾崎秀実の議論がいつのまにか東亜新秩序構想に忍び込んで日本の国策を誤らせ、中国共産党の勝利を助けたような調子で、反共宗教団体の描く美しい日本がやがて改正憲法に忍び込んだりするのだろうか。共産党百年の弁証法的因果はめぐる。 https://t.co/nnWJOGy804

2 0 0 0 世界の名著

それより、中央公論社「世界の名著」全81巻が国会図書館で読めるようになったの、みんな気づいてるかな(要登録)。 36巻コント/スペンサー(解説:清水幾太郎) 47巻デュルケーム/ジンメル(尾高邦雄) 50巻ウェーバー(尾高邦雄) 56巻マンハイム/オルテガ(高橋徹) https://t.co/OuHs4XFNLp
「朝鮮は東洋の咽喉を扼する勝形を占む。ゆえに東洋において波瀾を盪起する関門となるは朝鮮なり。今日において朝鮮の位置を定め、これをして確然自立する所あらしめずんば、我国人は何をもって枕を高くして安眠することを得んや」(岡本柳之助「東洋政策」1891年)。 https://t.co/K2OOadSECi

31 0 0 0 OA 明治大正史

(近代に入って酒飲みが増えたのはなぜか)「知らぬ人に逢う機会、近づきになるべき場合が急に増加して、この古くからの方式を利用し始めたのである。明治の社交は気の置ける異郷人と、明日からすぐにも共に働かねばならぬような社交であった」(柳田國男「酒を要する社交」) https://t.co/682Edn38AL
「望嶽楼の記 楼成れり。成りて望嶽と呼ぶことは如何に。名高き富士に向かえばならし。…もとより主翁〔千村夢沢〕文章に富めれば、ここに来たり遊ぶ客みな一時の英才にして、新詩百篇またたくうちに成り、雅談一日あくびを知らず」(横井也有『鶉衣』)。 https://t.co/s8tq1HSm5H

3 0 0 0 OA 経済学論攷

百年後の惨状、まことに忸怩たるものがありますね。「右の意味の大学はわが邦に一もこれあるなし、然れども他日必ず起こらざるべからず」(福田徳三) https://t.co/H7Xh0lzWNX

3 0 0 0 OA 経済学論攷

「学問研究の道に入らざる者は、文明国において社会の表面に立ちて何事に従事するにも適せざればなり、学問豈に学者のみの事ならん、研究つねにこれにより飯を喰うの術ならんや」(福田徳三) https://t.co/a6wu9Mv9wK

3 0 0 0 OA 経済学論攷

「今日の複雑なる文明生活に入りて独立自尊の人格を維持せんためには、学問的研究によりて頭脳を陶冶すること根本的に必要なり」(福田徳三) https://t.co/a6wu9Mv9wK

3 0 0 0 OA 経済学論攷

「禅道を修むるまた同じ、禅に入る者必ずしも皆坊主となるためにあらず、禅定に入りてはじめて真の品性を見いださんとて参禅するなり、学問の研究また然り」(福田徳三) https://t.co/a6wu9Mv9wK

3 0 0 0 OA 経済学論攷

「あたかも剣道柔道をもって身体を鍛うるは必ずしも皆戦士たらんがためにあらず、たんに無意味に手足を動かすよりも剣柔道によりて陶冶するほう真正健全なる身心を養い上ぐるなり」(福田徳三) https://t.co/a6wu9Mv9wK

3 0 0 0 OA 経済学論攷

「研究をもって学者のみの業とすることは根本的謬見なり、人を人として完成せしむるに研究を要するなり、健全なる忠良なる国民を作るに研究が必要なり」(福田徳三) https://t.co/a6wu9Mv9wK

3 0 0 0 OA 経済学論攷

「研究は人を活かす、研究は索漠たる学校教室を変じて花咲き鳥歌う楽園たらしむ」(福田徳三) https://t.co/a6wu9Mv9wK

3 0 0 0 OA 経済学論攷

2022年のいま、これほど高らかに大学の定義を絶叫できる研究者が日本にいるだろうか。「大学とは何ぞや、答えていわく研究者の研究のためにする自由、自治、独立なる団体これなり」(福田徳三、1915年) https://t.co/Cq3WYSnjIJ

2 0 0 0 OA 雨瀟瀟

「すでにその前年、一度医者より病の不治なることを告げられてから、わたしはただ自分だけの心やりとして、死ぬまでにどうかして小説は西鶴、美文は也有に似たものを一二篇なりと書いてみたいと思っていたのである。」(永井荷風『雨瀟瀟』) https://t.co/BG67glL5UE

2 0 0 0 OA 雨瀟瀟

「わたしは〔横井也有の『鶉衣』を〕反復朗読するごとに案を拍って、この文こそ、日本の文明滅びざるかぎり日本の言語に漢字の用あるかぎり、千年の後といえども必ず日本文の模範となるべきものとなすのである。」(永井荷風『雨瀟瀟』) https://t.co/BG67glL5UE

3 0 0 0 OA 猪・鹿・狸

「鳳来寺がまだ全盛の頃のことである。山内十二坊中の岩本院で七種の開帳があった。開祖利修仙人が百済から将来した瑠璃の壺、龍の玉、熊の角、鹿の玉、一寸八分の籾、浄瑠璃姫姿見の鏡、東照公佩用の鎧兜の七種で、一人十二文ずつ取って拝観させたという。」(早川孝太郎) https://t.co/hnwnHVqrfl

1 0 0 0 OA 張城尚歯会

横井也有、そんなに偉い人だったのか。「もし『唐詩選』〔漢文脈〕と『山家集』〔和文脈〕とが芭蕉をつくったとすれば、それに西鶴〔口語文脈〕が加わって也有をつくったといえるでしょう。」(加藤周一『文学とは何か』) https://t.co/6BOoxPdbdD

1 0 0 0 OA 牧水全集

「鳳来山は元来噴火しかけて中途でやみ、その噴出物が凝固してこうした怪奇な形の山を成したものだそうである。」(若山牧水「鳳来寺紀行」) https://t.co/Hf2rVg6ZYL
ウクライナ情勢について、何か一つ読んでみたいならこれ。 中井和夫「ウクライナにおける国民統合の困難性」(1997年) https://t.co/dQIGs0Uzdj

1 0 0 0 OA 離屋学訓

社会的投資の教え。「九功三事〔政治〕の大要は、ただ民を富ますと教うるとの二つにとどまれり。教えんとするにはまず富ますべし。また、富まさんとするにはまず教うべし。」(鈴木朖『離屋学訓』1828年)。「はなれやがっくん」。離屋は鈴木朖の号。 https://t.co/ugLo2C0OZV https://t.co/ussmEEttR9

3 0 0 0 OA 読書法

「総合的に判断する」という口癖に注意。もちろん総合的に判断すべきだが、口癖になると「こっちで適切に判断するのであれこれ言うな」という姿勢しか伝わらない。どんな分析に基づく総合かを問うべきだ。「充分に分析されないものは、決して満足に総合はされない」(戸坂潤) https://t.co/oZnHizCTKO
美濃口時次郎・企画院調査官が引用する『労働供給と規制』(1923年、シリーズ編集者はジェイムズ・ショットウェル)の著者ハンバート・ウォルフ。英国労働省の官僚でありながら詩人として著名で、ホルストが作曲している。 https://t.co/3HuDRc6krJ https://t.co/sNAhO8lHzA https://t.co/r2LuAFr4UA
同じ三面村を医学者・宮島幹之助(1872~1944)が学生時代に訪ねている。宮島は台湾阿片問題の専門家として、草間志亨(1886~1959、社会学者パークの弟子)とともに国際連盟で活躍した人。全然関係ない人物相関が意味もなくつながる瞬間。 宮島幹之助「越後国三面村の土俗」 https://t.co/bjLVbjphug
直接の出典はこちら。 https://t.co/5cJ4Fahlya

1 0 0 0 OA 厚生経済研究

「私の考うるところでは、日本におけるブルジョアは大阪人や江州商人やによって造り出されたもので、東京はただそれをあるいは模倣し、あるいはこれに追従したに過ぎないようである。少なくともそのイデオロギーの上において。」(福田徳三「文明史家としての田口鼎軒先生」) https://t.co/4nb0EnL1z3

3 0 0 0 OA 荷風随筆

「妙」と書いたつもりです。 https://t.co/X4anyAhw6Z

13 0 0 0 OA 伊藤博文公

「大隈侯が改進党を率いておられた時ですから、それに対抗して伊藤公が一大政党を組織せられたら、ここに政界の分野もおのずからはっきりして、立派な政治ができるに相違ない。ちょうど英国でディズレーリとグラッドストンの二大政治家がしのぎを削ったように」(渋沢栄一) https://t.co/NPbNXZBjZD
近藤栄蔵『呪はれたロシア』(1938年)が面白い。下卑た表現や時局的発言を割り引けば、一流の社会学的洞察を含んでいる。日本共産党の創設メンバーとは思えない、きだみのる的批評精神。 https://t.co/7D9lRy4huS

3 0 0 0 OA 荷風随筆

「書を読みて古人の言行おのれに似たるものあるを知るや、会心の喜びおのずから禁ずべからざるものあるを覚ゆるなり。読書の興趣の到底他に比すべきものあらざるは、けだしこの会心の喜びあるがためならずや。」(永井荷風「葷齋漫筆」) https://t.co/JipNcsQvZn

3 0 0 0 OA 荷風随筆

「読書に二様あり。一は学ばんがために読み、一は娯しまんがために読む。一は蛍雪の苦しみをいとわず。一は置炬燵のあたたかきを欲す。苦学の勧めは古文真宝を見て知るべく、遊戯の読書は柳樽を開いて顔に一冊屋根を葺きのごとき妙句に興ずれば足るべし。」(永井荷風) https://t.co/X4anyAhw6Z
「編者は「内務省も陸軍も無視するアメリカ社会学直伝の社会変動論」にも「国家権力への関心が幼弱」なミクロ的好事家的社会学にも飽き足らないようであり、この点は評者も大いに共感するところである。」(上村泰裕) 上村泰裕「書評――副田義也編『内務省の歴史社会学』」 https://t.co/7RQGVAH0Ii
追悼、副田義也先生。2003年の福祉社会学会第1回大会の会長講演で「研究者生命の持続期間はあと数年」と謙遜されていましたが、その後18年間を完走されたようです。 副田義也「福祉社会学の課題と方法」 https://t.co/8CdN9L4Zv4 https://t.co/J81cHjXhhj

1 0 0 0 OA 国民共済策

それはすでに1914年には邦訳されていた。 https://t.co/ClwsivUHlC
「大正六年の交、中央社会事業協会において社会事業の基礎学としての社会学を攻めたる人士を得、これが研究調査を託せんと欲し、斯学の先進・建部遯吾博士に謀りたる結果、博士の推薦により招聘したる者すなわち本書の著者・杵淵義房氏なりしなり。」(窪田静太郎) https://t.co/beGYXIJf0V

1 0 0 0 OA 本邦社会事業

「百度恢張の中において独りわが賑恤救済の事は、明治維新のためにかえって破壊しおわらしめたりというほどの大打撃を受け、幕末時代まで行なわれ来たった公私各般の救済施設も、一朝にして活動を中止するに至ったことは争うべからざるの事実である。」(小河滋次郎、1922年) https://t.co/X8C44OQiqS
「わが国民は自活し能わざる人間を一族故旧が集まって救助して、これを社会の御厄介にかけぬことにしているので、つまり救貧院が各々の家庭に存在しているのである。日本のごとく救貧法のないのが果たして称すべきであるや否や、これは疑問である。」(田中太郎、1911年) https://t.co/2EgtkNbxoh
「東京府会はじつに無情である。先には商法講習所〔一橋大学〕の廃校を決議し、今また引き続いて養育院を廃止するというのは、あまりに惨酷な処置ではなかろうか?万やむを得ないから今後は養育院を独立せしめて経営するの策を取らなければならぬ。」(渋沢栄一『自叙伝』) https://t.co/IyPVtuYSLc
「窮民を救うには第一に仕事を与えなければならぬから、新たに工場を起こし窮民を雇い入れること、別に日雇い会社を起こし人夫供給の道を講ずること、全然働くことのできぬ者のために収容所を設くることの三ヶ条を決議して府知事に答申したのである。」(渋沢栄一『自叙伝』) https://t.co/0yAqgF3hcx
「この〔東京市〕養育院の濫觴は、遠く徳川幕府時代にその源を発している。すなわち寛政時代の老中松平定信によって設けられた寄場と、深川鶴歩町に設けられた救護所と、名奉行大岡越前守の在職中に創立された小石川御薬園の養生所とがそれである。」(渋沢栄一『自叙伝』) https://t.co/M8n292vZEp
「私はどうしてもこれ〔商法講習所、現在の一橋大学〕を生かさなければならぬと考え、東奔西走して存続の必要を説き、要路の大官にも会って意見を開陳し、あらゆる方法を講じて講習所を存続せしむることに力を注いだのである。」(渋沢栄一『自叙伝』) https://t.co/bdRGau2U5a

4 0 0 0 OA 水墨集

風 遠きもの まづ揺れて、 つぎつぎに、 目に揺れて、 揺れ来るもの、 風なりと思ふ間もなし、 我いよよ揺られはじめぬ。 北原白秋『水墨集』 https://t.co/u5x5CjBedP
福田徳三が一橋(東京高商)を辞職した経緯 (29歳で休職、31歳で退官、慶應義塾教授を経て44歳で復帰)。 https://t.co/Otd51f8hDa

28 0 0 0 OA 論語と算盤

「これは青淵先生のつねに唱えられた道徳経済一致の説に合するのであります」(上田貞次郎「青淵先生とアダム・スミス」) https://t.co/IwklL1LnmW https://t.co/w1U77Gueh8

2 0 0 0 OA 算外飛沫

「台湾以後の加藤君に至りては、満場諸君の知るがごとく台湾公衆衛生の第一着手者なりき、阿片収入三百万円の製造元なりき。その他総督府に委員組織が設置せらるれば加藤君の加わらざる委員組織はほとんどこれなかりき」(木村匡「算外飛沫」)。 https://t.co/XELKLNU1rb

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