著者
奥中 康人 オクナカ ヤスト
雑誌
静岡文化芸術大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.19, pp.49-68, 2019-03-31

『陸海軍喇叭譜』が制定される1885年12月以前には、陸軍はフランスのラッパ譜を、海軍はイギリスのラッパ譜を用いたことが知られているが、それ以上の詳細は判っていなかった。しかし、近年発見された3点の手書きの陸軍ラッパ譜(靖国偕行文庫所蔵のタイトルの無い2点と、名古屋鎮台のラッパ手が記した『喇叭記帳』)によって、その実態を解明できることになった。調査の結果、日課号音、招呼、敬礼、教練のためのラッパ信号(約70曲)については、ほぼフランスのラッパ譜に由来することを確認することができる(例えば、「起床」« Le Réveil » や、「礼式」 « Aux champs » など)。しかし、軍隊内の組織に対して付与された約30曲の隊号(例えば、「鎮台一聯隊」など)、敬礼のための「靖国神社参拝式」については、日本で創作された可能性が高い。また、2000小節を超える長大な行進曲も日本でアレンジされていたと考えられる。3冊の楽譜資料は、明治前期におけるフランス音楽受容の広がりをよく示している。
著者
奥中 康人 オクナカ ヤスト Yasuto OKUNAKA
雑誌
静岡文化芸術大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.22, pp.19-36, 2022-03-31

『陸海軍喇叭譜』(1885)が刊行される以前の日本陸軍は、フランスのラッパ譜を用いたことが知られているが、それ以上の詳細はよく分かっていなかった。筆者は、すでに3点の手書きのラッパ譜を用いて調査を行ったが(奥中 2019)、その後、新たに2点のラッパ譜を閲覧する機会を得た。一つは、明治9年頃に野口吉右衛門というラッパ手が記したと思われるラッパ譜、もう一つは、明治15年に渡邉三四郎というラッパ手が記したラッパ譜である。これら5点のラッパ譜を比較検討することで、明治9年から18年までの期間に、陸軍がどのようなラッパ譜を用いたか、その実態をより詳細に明らかにすることが可能となった。調査の結果、フランスに起源をもつ50~70種類程度のラッパ信号が用いられていたこと、隊号は明治9年以降に改定されたこと、そして、2重奏や3重奏を含む6曲のラッパ行進曲が存在したことなどが判明した。
著者
奥中 康人 オクナカ ヤスト
雑誌
静岡文化芸術大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.17, pp.65-86, 2017-03-31

ラッパは、幕末に日本に入ってきた最初の西洋楽器のひとつであるにもかかわらず、これまでほとんど研究されていない。本稿は、長野県内の消防組(消防団)に関する文献からラッパについての諸記録を整理、提示することによって、その普及と変容を明らかにすることを目的としている。軍隊の道具として幕末期に導入されたラッパは、明治後期になって各地の消防組でも用いられるようになった。長野県でも、おおよそ一九〇〇年以降に広く普及し、演習や儀式等で用いられた。第二次世界大戦後には音楽を演奏するラッパ隊として再編成され、教本の刊行やラッパ吹奏大会の開催によって演奏技術が向上し、標準化が促されたことを、文献調査から明らかにした。
著者
奥中 康人 オクナカ ヤスト Yasuto OKUNAKA
雑誌
静岡文化芸術大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.23, pp.11-28, 2023-03-31

日本における西洋楽器製造の歴史は、オルガンやピアノ、ヴァイオリンの製造史に偏りがちで、金管楽器製造については、あまり調査されてこなかった。少し有名な江川仙太郎でさえ不正確な情報が多い。そこで、本稿は、明治期に金管楽器を製造していた職工について、雑誌記事や博覧会の記録に基づき、整理することを目的としている。 草創期における代表的な製造業者は、大阪では江名常三郎と上野為吉、東京では宮本勝三郎、江川仙太郎、田邊鐘太郎である。かれらの多くは、楽器の修理と信号ラッパの製造からスタートし、やがてコルネットやバリトンのような金管楽器を製造することになった。
著者
奥中 康人 オクナカ ヤスト
雑誌
静岡文化芸術大学研究紀要 = Shizuoka University of Art and Culture Bulletin
巻号頁・発行日
vol.21, pp.225-241, 2021-03-31

本稿は、国立公文書館アジア歴史資料センターのデジタルアーカイブを用いて、西南戦争(明治十年)に関係する陸軍のラッパ信号の用い方を分析することを目的としている。同アーカイブを「喇叭」等のキーワードで検索し、抽出された約三二〇件のデータは、楽器としてのラッパについて、ラッパ手について、ラッパ信号についてのデータに分類することができる。とくにラッパ信号を中心に分析を進めると、数多くのフランスのラッパ信号が用いられたこと、戦争が終盤となった九月になってから数曲のマーチを練習していたことが明らかになっただけでなく、「喇叭暗号」という特殊な用法が存在したことがわかった。 ラッパ暗号とは、あらかじめ定められたラッパ信号を問答形式で交わすことによって敵・味方を識別する用法である。しかしながら、資料から読み取れるのは、ラッパ暗号が記載された手帳や文書が敵の手に渡り、何度も改正を余儀なくされたという失態である。ラッパ暗号の運用には問題はあったものの、総じてラッパ手たちは数多くのラッパ信号を吹奏していたようであり、それまでのラッパ教育が順調であったことがうかがえる。
著者
奥中 康人 オクナカ ヤスト
雑誌
静岡文化芸術大学研究紀要
巻号頁・発行日
vol.18, pp.65-90, 2018-03-31

群馬県では、公設消防組が設立された1894年に、広くラッパが配備され、組織的な練習もおこなわれていた。ほぼ同時期に、消防用のラッパ譜も制定されていたという。本稿は、1890年代~1940年の7種類の消防ラッパ譜(「喇叭ノ符」(1895)、「喇叭符」(1895)、『喇叭符號手帳』(1896~97)、『消防の栞』(1908)、『消防喇叭音譜』(1929)、『消防喇叭教本』(1938)、『警防喇叭教本』(1940))の内容を分析することによって、近代群馬にどのような音楽が鳴り響いたのかを明らかにすることを目的としている。群馬県の消防ラッパ譜に収録された楽曲は、消防のために作られたオリジナル曲と、軍隊のラッパ譜によって構成されている。軍隊ラッパ譜から転用された曲の多くは、1885年に刊行された『陸海軍喇叭譜』とその改訂版を典拠としているが、1890年代のラッパ譜の中には、1885年以前に陸軍が使っていたフランスのラッパ譜も含まれている。1920年代には、群馬のオリジナルのラッパ文化がわずかに芽生えようとしていたが、1938年のラッパ譜では、ほとんどが『陸軍喇叭譜』の曲で占められることとなった。