著者
坂野 徹 Sakano Toru
出版者
神奈川大学 国際常民文化研究機構
雑誌
国際常民文化研究叢書4 -第二次大戦中および占領期の民族学・文化人類学-=International Center for Folk Culture Studies Monographs 4 ―Ethnology and Cultural Anthropology during World War II and the Occupation―
巻号頁・発行日
pp.141-154, 2013-03-01

本稿では、戦前日本における縄文土器をめぐる研究をリードした研究者の一人である甲野勇の戦時中の活動を検討し、太平洋戦争と考古学の関係について考える。 東京帝国大学理学部人類学科選科で学んだ甲野は、1920 年代中盤以降、同窓である山内清男や八幡一郎らと協力しながら、縄文土器の編年に関する詳細な研究を推し進め、彼らはいつしか「編年学派」と呼ばれるようになった。「編年学派」は縄文土器の編年を確立することで、明治期以来、土器を残した「人種」の問題と関わっていた考古学研究を人類学研究から切り離すことを目指したが、一方、彼らの研究は、1910 年代後半に始まる「日本人種論」の新たな動きを前提にしたものでもあった。 甲野は、太平洋戦争期になると、厚生省研究所人口民族部で嘱託として勤務を始めるが(1942 年)、そこで彼が実施したのが、有名な『大和民族を中核とした世界政策の検討』と題する膨大な秘密文書中における考古学的解説の執筆である。そこでは、甲野自身が1935 年に発表した編年研究の成果が再掲されるとともに、かつて禁欲したはずの「日本人種論」についての議論が記されている。ここには、大東亜共栄圏構想下、戦争協力を行った考古学者として知られる後藤守一の影響がうかがえる。 戦後、かつての甲野の同志である山内清男は「縄文研究の父」として高い評価を受け、戦争協力者の代表格である後藤守一も復権を果たし、戦後考古学を率いていくことになる。だが、甲野勇は、戦後考古学の主流から距離を置き、博物館建設への尽力など独自な活動を進めていった。ここには甲野なりの戦争への反省の姿勢がみてとれる。