著者
壱岐 一郎
出版者
沖縄大学
雑誌
沖縄大学人文学部紀要 (ISSN:13458523)
巻号頁・発行日
vol.3, pp.1-12, 2002-03-31

21世紀,最初の年は米中枢多発テロ,炭疽菌テロで米国が揺らいだ。日本政府は英国に次ぐ武力報復協力を示した。「報復」ムードの中で1941年9月に急死した,ジャーナリスト桐生悠々(1873-1941)を回顧することは無駄ではなかろう。大阪,東京,長野,名古屋などで記者活動をした桐生は信濃毎日新聞主筆として関東防空大演習を嗤う」を書き,退社に追い込まれ,60代の8年間,半月刊の個人誌『他山の石』を発行し続けたが,日米開戦3か月前,「廃刊の辞」を記した。「この超畜生道に堕落しつつある地球の表面より消え失せることを歓迎致し居り候うも,唯小生が理想したる戦後の一大軍粛(ママ)を見ることなくして早くもこの世を去ることは如何にも残念至極に候う」(一部,現代読みに訂正)と記した。九・一一事件の直後,米大統領は「西部劇」そして「十字軍」のように進撃をと口走った。低劣な台詞は「畜生道の地球」が決して軍縮の道を歩いていないことを示す。
著者
壱岐 一郎
出版者
沖縄大学
雑誌
沖縄大学人文学部紀要 (ISSN:13458523)
巻号頁・発行日
vol.2, pp.43-52, 2001-03-31

20世紀日本のジャーナリストの多くはペンをもって論陣を張ったが,後半から末期にはテレビ,ラジオなどによって持論を展開した。トーク,つまり話,語りかけの言論活動であった。60年代の田英夫(TBS,共同通信出身,以後,参議院議員),70年代後半からの筑紫哲也(朝日新聞出身,テレビ朝日,TBSキャスター)がその典型であろう。2000年夏,大阪を本拠にして,1日平均5枚書きながらテレビ,ラジオのコメンテーターを14年務めた黒田清(大阪読売出身,1931-2000)が全国の多くのファン,友人,知人に惜しまれて逝った。本稿はそのトーク・ジャーナリスト黒田清を解明し,あわせて21世紀を前に東京偏在の日本の大国的,大企業的ジャーナリズムがこのままでいいのか,を考える。すなわち,問われているのは20世紀日本の反省にほかならず,東アジア共通の思想家孔子は「過ははかちてこれを改むるに揮(はばか)ることなかれ」と言い残しているのである。
著者
壱岐 一郎 いき いちろう Iki Ichiro 沖縄大学地域研究所
出版者
沖縄大学地域研究所
雑誌
地域研究 = Regional studies (ISSN:18812082)
巻号頁・発行日
no.18, pp.111-123, 2016-09

1956年、福岡で最初に「『魏志』倭人伝」を読んで、『日本書紀』とのあまりの差異に驚愕した。すなわち、そこには神武天皇とか神功皇后のイメージのスメラミコト、大君は出ていなかった。24歳の遅い研究の出発だった。私の目標は通史志向で方法は中国・韓国史料を集めて分析すると同時に列島内遺物・遺跡を調べ「史実」を確認することだった。
著者
壱岐 一郎
出版者
沖縄大学
雑誌
沖縄大学人文学部紀要 (ISSN:13458523)
巻号頁・発行日
vol.4, pp.1-10, 2003-03-31

アメリカにおける01年の9・11事件は20世紀の2度にわたる原爆投下にも等しい世界史的意義をもつ。では,ブッシュ政権下における現地メディアはどもかく,東京メディアは「同時多発テロ」を正しくとらえて報道したか,大きな疑問がある。映像メディアはWTCセンターのツインタワー崩壊の瞬間を繰り返し放映した。ワシントン・ペンタゴンの百倍をこえる放映量であろう。また,02年9月17日,日朝首脳会談当日,NHKは放送の大半を拉致報道に費やした。これらの反復は「公平」で「客観的」だっただろうか。日本を代表する放送が政権の広報局に傾く中で,ニュースとその解説の難しさを痛感せざるをない。テレビが言論機関ではなく政権の広報機関に陥りやすいこと,そこには国益を別にして「民益」を損なう重大な陥穽のあることに気付く。つまるところ,巨大映像メディアは歴史文化の広く深い理解が求められていることを知るべきであろう。
著者
壱岐 一郎
出版者
沖縄大学
雑誌
沖縄大学人文学部紀要 (ISSN:13458523)
巻号頁・発行日
vol.1, pp.19-28, 2000-03-31

日本古代史のいわゆる古墳時代から7世紀末までを高校教科書では約20ページにわたり記述している。5世紀の倭国の五王から7世紀の聖徳太子,天智天皇という流れである。この原典は『日本書紀』で,教科書は戦前の神国史観を否定しているものの,まず6世紀以降をほぼ正しいとしているといってよかろう。戦後史学において,中国史,韓国史との比較,巨大古墳の考証などが進んだとはいえ,まだ重大な疑義が存在する。その大きな柱は中国史料の伝える前3世紀の徐福集団の渡来と6世紀の扶桑国である。1999年は扶桑国僧・訪中1500周年にあたるので,私は日本国内4地域で「扶桑国の謎・シンポジウム」を試みた。『日本書紀』の黙殺した史料の復権であるが,無視する学界と共にマスメディアと教科書メディアに再考を迫るものであった。この『日本紀』(日本書紀)をかの紫式部は「片そば」と批判し,公爵西園寺公望(1849-1940)は「妄誕*の書を信じると国に大いに損がある」(*でたらめ)と書き残したが,20世紀の歴史は「損」どころではなかったのではなかろうか。