- 著者
-
平 雅行
- 出版者
- 大阪大学
- 雑誌
- 一般研究(C)
- 巻号頁・発行日
- 1992
1.顕密体制論が定説化した現在にあっても、中世国家が宗派・寺院をどのように編成・配置したかは、なお不明な点が多い。そこで本研究では、北京三会・三講など中世前期の国家的法会の実施・運営過程の分析を行うことによって、この課題にアプローチしようとした。史料の収集については、法会の実施時期の史料はかなり収集できたが、法会の準備段階については、日記史料の検索がなお不十分である。たいへん手間のかかる作業であるが、諸々の俗権力との交渉を分析するには、この方面の作業をさらに進展させる必要がある。2.三講の出仕僧は証義・講師とも興福寺僧が最も多く、中世興福寺の地位からして、やや意外である。これは延暦寺・東大寺・園城寺とは異なり、興福寺だけが顕教僧のみで構成されていた特殊性に起因していよう。3.中世僧綱所・法務を中世仏教行政の総攬者と見るか否かで、私を含め論争が行われてきたが、その機能の形骸化を改めて確認した。特に綱所が東寺の他、仁和寺・延暦寺・南都に設置されている事実は、寺社勢力の分裂の結果、統合機能を果たすべき綱所が空中分解したことを物語っていよう。4.寺社勢力の統合は法務・綱所ではなく、俗権力たる院が達成していた。そのことは僧事(僧侶の人事)の決定場所が天皇御前から院御前に変化したことからもわかる。実際、三会の人選にも院が介入した事例がある。また承久の乱の後、鎌倉幕府が仏教行政や人事にしばしば介入している。ただ現在のところ、三会三講などへの幕府の直接介入は確認できなかった。5.以上の研究成果の内、一部は拙著『日本中世の社会と仏教』の新稿論文「中世宗教史研究の課題」に発表し、また一部は同書旧稿論文への加筆という形で発表した。