著者
宮田 咲矢香 小椋 純一 大住 克博
出版者
日本森林学会
雑誌
日本森林学会誌 (ISSN:13498509)
巻号頁・発行日
vol.104, no.4, pp.205-213, 2022-08-01 (Released:2022-10-25)
参考文献数
46
被引用文献数
2

里山の植生の形成過程を理解する目的で,近世には無立木地が卓越していたと考えられている里山が森林化した時期を,文献資料や旧版地形図の植生や土地利用に関する記号より推定した。対象とした京阪奈丘陵北部では,明治中期には荒地や草地,土壌浸食地などの無立木地が卓越していが,明治後期に一斉に森林化していったと推定された。成立した森林は,アカマツが優占する針葉樹林であったと考えられた。明治後期の森林化は,明治前期に砂防を主な目的とした山林保護,緑化促進などの施策が行政によりとられたこと,農業用の刈敷や秣などの利用が減少し,農村周辺の丘陵地での採草が衰退したことにより,人為攪乱が減少して引き起こされたものと考えられた。
著者
小椋 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.203, pp.113-160, 2016-12-15

2011年3月に発生した福島第一原発事故は,東日本大震災を引き金にして起きたものであったが,その原発事故により広大な国土が放射能に汚染され,国土の一部は長く人が住むこともできない大地となり,また今後長期にわたり多くの人々への健康被害が懸念されるなど,大災害となった。その大災害に至った1つの大きな要因として,メディアによる原発の必要性や安全性などを訴える広告などの情報が,原発の問題を指摘する情報よりもはるかに多大であったこともあるが,その一方で,本来伝えられるべきであったと思われる原発関係の情報が十分伝えられてこなかったということがあると思われる。そうした情報の中で,本稿では,福島での原発事故が起きるまでは最悪の原発事故であった旧ソビエトのチェルノブイリ原発事故後による食品汚染についての情報について検討した。1986年に起きたその原発事故により,タイやフィリピンなどでは大きな放射能汚染食品騒ぎがあったが,少なくとも関西地方ではほとんど伝えられなかった。それらのニュースの内容をタイなどの地元紙の記事などから確認し,それらが実際にあまり報道されるべき価値のないものであったのかどうか検討した。また,それらのニュースが日本国内で実際にどの程度報道されたのかについて,国内の強力な新聞記事等のデータベースである「日経テレコン」により確認した。一方,福島第一原発事故から5年以上を経て,放射能汚染食品や放射線による健康被害など,また原発関連の報道が十分になされない部分が出てきている。その近年の状況についても,データベース利用などにより確認し考えてみた。メディアの編集者が放射能汚染食品や人々の健康被害に関する情報を制限する背景として,社会的不安などが生じることへの配慮もあると思われるが,正しい情報が伝えられないことにより,福島での原発事故の忘却が早められ,しっかりと原発について考えようとする流れが弱められている。
著者
奥田 賢 美濃羽 靖 高原 光 小椋 純一
出版者
森林立地学会
雑誌
森林立地 (ISSN:03888673)
巻号頁・発行日
vol.49, no.1, pp.19-26, 2007
参考文献数
20
被引用文献数
2

京都市周辺の都市近郊二次林において,近年,分布を拡大しているシイ林について,その拡大過程を解明し,今後のシイ林の拡大について考察した。2004年に撮影したデジタルオルソフォトおよび1987年,1975年,1961年撮影の空中写真を判読することによって,各年のシイの樹冠分布図を作成し,さらに1936年のシイ林の分布図も併せて比較を行うことでシイの分布拡大過程を解明した。また,現地踏査によって林冠下のシイの分布図作成を行うことによって,現在のシイの分布状況を把握した。その結果,以下のことが明らかになった。1)シイは1961年以降に分布を拡大した。2)シイの全樹冠面積は1961年には6.9haであったが2004年には32.1haに達した。3)2004年の時点で調査地の東側斜面において林冠に達しているシイはほとんどなかった。4)しかし,現地踏査によって,東側斜面の林冠下にシイの分布が確認された。このような東山における1960年代以降のシイ林拡大は,1960年代から始まったガス,電気の普及に伴う,柴刈りなどによる森林への人為的な影響の減少や1970年代以降のマツ材線虫病によるマツ枯れが遷移を促進させたことなどが考えられた。また,2004年の時点で林冠にシイが確認されなかった東側斜面の多くの地域で林冠下にシイが確認されたことから,今後,シイ林は東側斜面でさらに拡大する可能性が高いと考えられた。
著者
野間 晴雄 朝治 啓三 北川 勝彦 小椋 純一 川島 昭夫 橘 セツ グルン ロシャン
出版者
関西大学
雑誌
挑戦的萌芽研究
巻号頁・発行日
2011

イギリスのプラントハンター(プラントコレクター)といわれる人々は,植物学,園芸学の知識と実践を背景に,世界各地に拡大した植民地で稀少な植物・有用植物を収集し,それをイギリス本国や別の植民地に普及するのに重要な貢献をした。その中核となったのがキュー植物園で,J.バンクス卿やW.フッカーの努力によって収集・研究がすすめられるとともに,風景式庭園に対して栽植植物の多様化からの寄与も大きかった。南アフリカ,インド,中国,オセアニア等での植物採集に関わったプラントハンターたちは18世紀以降の大英帝国拡大の一翼を担い,本国・植民地の経済植物や温帯植物の普及によって大きな経済的利益をもたらした。
著者
小椋 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.207, pp.43-77, 2018-02-28

森林や草原の景観はふつう1~2年で大きく変わることはないが,数十年の単位で見ると,樹木の成長や枯死,あるいは草原の放置による森林化などにより,しばしば大きく変化する。本稿では,高度経済成長期を画期とする植生景観変化とその背景について,中国山地西部の2つの地域の例について考えてみた。その具体的な地域として取り上げたのは,広島県北西部の北広島町の八幡高原と山口県のやや西部に位置する秋吉台である。その2つの地域について,文献類や写真,また古老への聞き取りなどをもとに考察した。その結果,八幡高原では,たとえば,今はスキー場などの一部を除き,草原はわずかしか見られないが,高度経済成長期の前までは,牛馬の放牧などのためなどに存在した草原が少なからず見られた。その草原の大部分は森林に変わり,また,高度経済成長期の前の森林には大きな木が少なかったが,燃料の変化などにより,森林の樹木は高木化した。なお,その地の草原は,高度経済成長期の直前の頃よりも少し遡る昭和初頭の頃,あるいは大正期頃まではさらに広く,その面積は森林を上回るほどであった。その変化の背景には,そこで飼育されていた馬の減少もあったが,別の背景として,大正の終り頃から製炭が盛んになり,山林の主な運用方法が旧来の牛馬の飼育や肥料用などのための柴草採取から,炭の原木確保のための立木育成へと変わったことがあった。一方,秋吉台には,今も草原が広く見られるが,それはそこが国定公園などに指定されている所で,草原の景観を守ることが観光地としての価値を維持するためにも重要であるためである。しかし,その秋吉台の草原も,高度経済成長期の前と比べると,草原面積は少し減少している。また,草原やその周辺の山林への人の関わり方の大きな変化により,植物種の変化など,その草原には大きな質的変化が見られ,また草原を取り巻く森林も高木化が進むなど大きく変化してきている。
著者
小椋 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.148, pp.379-412, 2008-12-25

今日、関東地方低地部を含む日本南部における典型的な鎮守の杜は、常緑広葉樹林(照葉樹林)であり、それは古くから人の手があまり入ることなく続いてきたと考えられることが多い。しかし、明治期以降の文献、地形図、写真をもとにした考察から、そうした通念は誤ったものである可能性が高くなってきている。ただ、これまでの考察事例はまだあまり多くはなく、かつての神社の杜が一般的にどのような植生であったかを述べるには、もっと多くの事例を検討する必要がある。そこで、本稿においては、古い写真や絵図類を主要な資料として、かつての神社の杜の植生について、より多くの事例を検討した。古い写真としては、『京都府誌』(一九一五)と『日本写真帖』(一九一二)に収められた神社の写真を、主に現況と比較しながら検討した。その結果、それらの写真からわかる神社の杜の植生は、一部には今と大きく変化していないように見えるものもあるが、多くの場合、今日の状態とは大きく異なっていた。すなわち、今日では神社の杜の植生には、クスノキやシイやカシなどの常緑広葉樹が主要な樹木となっていることが多いが、明治末期から大正初期にはスギやマツなどの針葉樹が重要な樹木として多く存在する傾向があった。また、神社付近の樹木は、今日よりも少なく、また小さいことが多い傾向があった。一方、絵図類については、幕末に発行された『再撰花洛名勝図会』(一八六四)と初期の洛中洛外図四点(一六世紀初期~中期)に描かれた神社の杜について、主に同時代に同じ神社を独自に描いた図の比較検討により、絵図類の写実性を検討しながら、それぞれの時代における神社の杜の植生について考えた。その結果、かつての神社の杜の植生は必ずしも一様ではなく、神社により大きく異なっていたが、概してマツがある程度見られるところが多く、またスギが神社の杜の重要な樹種であった場合が多かった。また、一部には常緑広葉樹の割合が大きかったと思われる神社もある。
著者
小椋 純一
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.52, no.5, pp.37-42, 1988
被引用文献数
2 1

古い時代の植生景観を考える上で, 絵画は参考になるものであるが, それがどの程度の資料性をもっかを述べることはなかなか容易ではない。ここでは, 文化年間の京都一円の景観を描いた「帝都雅景一覧」をとりあげ, その景観を分析, 検討することにより, 当時の京都周辺山地の植生を考察した。その結果, その頃の京都周辺山地には, かなり低い植生の部分が広がっていた一方, 小さな孤立林がしばしば見られたものと考えられる。
著者
小椋 純一
出版者
社団法人日本造園学会
雑誌
造園雑誌 (ISSN:03877248)
巻号頁・発行日
vol.56, no.5, pp.25-30, 1993-03-24
被引用文献数
3 9

古い時代の植生景観については不明な部分が少なくないが,明治時代になると本格的な地形図や詳しい地理的記録など,かつての植生景観を考える上での良い資料が多く残されるようになる。本研究は,今から百年余り前の明治中期に測図された迅速図の植生に関する不明部分やその精度などを,その原図やそれと同時に作成された偵察録などをもとに考察することを中心にして,その頃の房総丘陵の植生景観を明らかにしようとしたものである。その結果,その地の当時の植生景観は,森林とともに草地的なものの割合が大きく,また,森林は松林や楢類などからなる低林が多く,高木の大面積の森林の大部分は官林であったなど,今日とは大きく異なるものであった。
著者
小椋 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Japanese History (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.105, pp.297-317, 2003-03-31

日本の植生景観は,有史以来,特に植生への人間の関わり方により大きく変化しながら今日に至っている。それは,たとえば第二次世界大戦後に特に顕著なスギやヒノキなどの人工林の急速な拡大,あるいはここ30~40年ほどの間のマツ林の急激な減少などの森林の樹種的な変化もあるが,その他にも明治期以降における里山の森林樹高の変化,あるいは草原の減少などもある。本稿では,京都府の場合を例に,文献から明治期における植生景観の変化の背景を考察したものである。その結果,明治期における京都府内における植生景観の変化の大きな背景として,砂防事業の推進,山野への火入れ制限・禁止,植林の推進があったものと考えられる。そのうち,砂防については,明治4年以降に大々的な砂防事業が展開され,樹木の伐採や採草の制限・禁止などの措置がとられた。また,山野への火入れ制限・禁止も,森林の保護や拡大を主な目的としてなされ,それに対する規制は明治10年代よりかなり強くなっていった。また,明治初期より植林の奨励がなされ,それは山野への火入れ制限・禁止などで支えられることにより,明治後期にはしだいに盛んになっていった。これらのことにより,淀川流域の一部に存在したはげ山,農山村の採草地などとして存在した草原,あるいは燃料として利用された低木の柴地が減少していく一方,スギ・ヒノキを中心とした森林が拡大し,あるいは森林の樹木が高木化するなど,京都府内の植生景観に大きな変化が見られるようになったと考えられる。
著者
大住 克博 横川 昌史 小椋 純一 佐久間 大輔 増井 大樹 小山 泰弘
出版者
鳥取大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2015-04-01

里山景観は二十世紀初頭という比較的新しい時代に草山から里山林へと転換したことを、現象と仕組みの両面から明らかにした。広島県北西部では、大正初期から第二次世界大戦後の間に草地は1/5に減少した。一方、行政資料により復元された大阪府下の里山の資源利用は時間空間的に多様であり、草山から里山林への移行経過も単純では無いことが示唆された。火入れ停止後の草山は、前生樹の萌芽と風散布樹種の進入により森林化し、その後鳥散布樹種が進入して多様度の高い里山林へと移行することを明らかにした。一方草原性植物は、草地管理放棄後、短期間で消失しやすいものと消失しにくいものに分かれていた。
著者
小椋 純一
出版者
国立歴史民俗博物館
雑誌
国立歴史民俗博物館研究報告 (ISSN:02867400)
巻号頁・発行日
vol.171, pp.223-261, 2011-12

高度経済成長期を契機とする植生景観変化とその背景について,岡山県北部の中国山地(津山市阿波),京都市北部郊外(左京区岩倉付近),伊勢湾口の離島(神島)の3つの地域を例に,写真や文献類,また古老への聞き取りなどをもとに考察した。その結果,岡山県北部の中国山地では,高度経済成長期の頃までは,牛の放牧などのために広い草山が見られるところが何箇所もあったが,高度経済成長期を契機にして,草山は急速になくなっていった。一方,スギやヒノキを中心とした人工林は,高度経済成長期の頃を中心に急増した。また,人工林などに変わることなく残った薪炭林では,その利用がなくなり,近年では樹木の大樹化が進んでいるところが多い。また,京都市北部郊外の里山では,かつてはアカマツ林が広く見られたが,高度経済成長期の頃を境に,林が放置化されて植生の遷移が進み,近年ではマツ枯れによりアカマツ林は大幅に減少してきている。その一方で,シイやカシなどの常緑広葉樹林の割合が増えてきている。また,高度経済成長期の頃までは,さかんに森林が利用されたことにより,さまざまな林齢や樹高の森林が見られたが,近年は森林の樹高などの変化があまりなくなっている。また,伊勢湾口の神島でも,かつてはその山の植生はマツが主体であったが,高度経済成長期の途中から,京都市北部郊外の里山と同様に,マツ林は大幅に減少し,その一方で,近年ではヤブニッケイやカクレミノなどの常緑広葉樹主体の森林が増えてきている。一方,かつては山の南向き斜面を中心に広く見られた段々畑は放置されるところが増え,森林化しつつあるところが多い。このように,高度経済成長期以降の植生景観変化は,地域によりさまざまであるが,いずれの地域でも高度経済成長期の頃の人々のくらしの激変や国の政策などが原因となり,人々の植生への関わり方も大きく変化し,それによって大きな植生景観の変化が生じた。Vegetation changes with the high economic growth period as the turning point and their backgrounds in three regions in Japan were studied based mainly on photos, literatures and interviews of elders. Those three studied regions were mountainous village located in the north of Okayama Prefecture (Aba, Tsuyama City), northern suburb of Kyoto City (Iwakura, Sakyo-ku) and an island in the mouth of Ise bay (Kamishima). Results are as follows.In the mountainous village in northern Okayama Prefecture, broad grassland areas for cattle grazing et cetera were commonly seen until the time of high economic growth. However they have disappeared rapidly since the high economic growth period. On the other hand, plantations of Japanese cedar and Japanese cypress increased rapidly especially in the time of high economic growth. Meanwhile woodland trees once used for firewood and charcoal have usually grown much bigger as they have not been used as fuel since that time.In the hilly and mountainous areas in the northern suburb of Kyoto, Japanese red pine forests were once seen widely. However, they have decreased greatly by pine wilt after the high economic growth period, as the forests were left without use and the plant succession proceeded. On the other hand, evergreen broadleaved trees such as Castanopsis and Quercus have been increasing gradually. And until the time of high economic growth, the forests had a variety of stand age and tree height due to the intense use. However, the variety has been lost greatly in recent years.In the Kamishima island in the mouth of Ise bay, Pinus was once dominant species in the vegetation of the mountain. However, pine trees have decreased greatly, while evergreen broad leaved trees such as Cinnamomum and Dendropanax have increased after the high economic growth period. It is similar to the case of the northern suburb of Kyoto. Meanwhile the terraced fields once widely seen especially on the south-facing slopes of the island have been gradually covered with bushes and trees as they have been abandoned.Thus, although changes in vegetation since the period of high economic growth vary by region, great changes of vegetation have occurred in every region due to the big changes of relationship between man and vegetation which were caused by the rapid changes of people's lives and nation's policy in the time of high economic growth.
著者
井上 寛司 山岸 常人 小林 准士 平 雅行 久留島 典子 関根 俊一 淺湫 毅 松浦 清 大橋 泰夫 小椋 純一 和田 嘉宥 的野 克之 田中 哲雄 松本 岩雄 鳥谷 芳雄 花谷 浩 山内 靖喜 野坂 俊之 石原 聡
出版者
島根大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2009

天台宗の古刹である浮浪山鰐淵寺は、中世出雲国一宮出雲大社の本寺として創建され、極めて重要な役割を果たした。本研究は、鰐淵寺に対する初めての本格的な総合学術調査であり、鰐淵寺の基本骨格や特徴、あるいは歴史的性格などについて、多面的な考察を加え、その全容解明を進めた。
著者
高原 光 深町 加津枝 大迫 敬義 小椋 純一 佐々木 尚子 佐野 淳之 大住 克博 林 竜馬 河野 樹一郎
出版者
京都府立大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2007

堆積物中に残存している花粉や微小な炭(微粒炭)の分析から,特に過去1万年間には,火が植生景観に強く影響してきたことを解明した。特に1万~8千年前頃には火事が多発して,森林植生の構成に影響を及ぼした。また,過去3千年間には,農耕活動などに関連して火事が多発し,照葉樹林やスギ林などの自然植生はマツ林と落葉広葉樹林へと大きく変化した。火入れによって,ナラ類を中心とする落葉広葉樹林が成立する機構も解明できた。草原や里山景観の形成には,火入れが強く関連していることが明らかになった。