- 著者
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新谷 和之
- 雑誌
- 人文研究 (ISSN:04913329)
- 巻号頁・発行日
- no.65, pp.25-46, 2014-03
一五世紀半ば以降、各地の守護は分国に戻り、地域支配に専念するようになる。その際、守護はそれまで分国支配の実権を握っていた有力被官と対立し、抗争の結果、戦国大名が生まれると理解されている。しかし、守護被官が権力内で一定の権能を果たすことは、守護の支配に必要とされる面もあり、当該期の権力抗争を守護と被官の矛盾の面のみで捉えるのは適切ではない。本稿は、この点について近江のケースをもとに考察した。一六世紀前半、近江守護六角氏は二度にわたる抗争の末、守護代の伊庭氏を排斥した。その原因は、伊庭氏が強大な権限を握り、六角氏当主との矛唐を深めたことにあると考えられていた。だが、伊庭氏の権限は六角氏権力内で容認されており、伊庭氏自身も六角氏権力の枠を逸脱しようとはしなかった。この事件の契機は、室町幕府将軍家の分裂という政治問題にある。六角氏の有力被官として中央と地方の双方につながりをもった伊庭民は、細川京兆家の要請や自身の被官からの突き上げを受け、六角氏と対立する道を選んだのである。当該期の抗争は、権力内の覇権争いにとどまらず、政治・社会の変動に伴う構造的な問題と捉えられる。