著者
木村 清孝
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.947-961, iii, 2005-03-30

本論文は、近代日本において、西欧から移入された文献学的な仏教研究の軌跡を辿ることを基軸として、このおよそ百年間における仏教研究の歴史を顧み、その特徴を明らかにするとともに、それがもつ問題点を探り、合わせて今後の仏教研究のあり方について述べようとするものである。明治時代の初め、<近代的>な仏教研究の扉は、少なくとも表面的には伝統的な仏教学と切れたところで、南條文雄によって開かれ、高楠順次郎によって一応定着した。それが、文献学的仏教研究である。この伝統は、のちに歴史的な見方を重視する宇井伯寿によって新展開を見た。さらにその愛弟子の中村元は、宇井の視点と方法を継承しながらも、それに満足することなく、新たに比較思想の方法を導入し、「世界思想史」を構想し、その中で仏教を捉えることを試みた。この比較思想的な仏教研究が、西田哲学を継承する哲学的な仏教研究と並んで、現在も主流である文献学的な仏教研究に対峙する位置にあると思われる。最後に付言すれば、これからの仏教研究は、その中軸として、文献学的研究と、それを踏まえた思想史的研究、さらには、その思想史的研究によって明らかになる重要な「生きたテキスト」をよりどころとする比較思想的研究が遂行されることが望まれるのではなかろうか。
著者
木村 清孝
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.78, no.4, pp.947-961,iii, 2005-03-30 (Released:2017-07-14)

本論文は、近代日本において、西欧から移入された文献学的な仏教研究の軌跡を辿ることを基軸として、このおよそ百年間における仏教研究の歴史を顧み、その特徴を明らかにするとともに、それがもつ問題点を探り、合わせて今後の仏教研究のあり方について述べようとするものである。明治時代の初め、<近代的>な仏教研究の扉は、少なくとも表面的には伝統的な仏教学と切れたところで、南條文雄によって開かれ、高楠順次郎によって一応定着した。それが、文献学的仏教研究である。この伝統は、のちに歴史的な見方を重視する宇井伯寿によって新展開を見た。さらにその愛弟子の中村元は、宇井の視点と方法を継承しながらも、それに満足することなく、新たに比較思想の方法を導入し、「世界思想史」を構想し、その中で仏教を捉えることを試みた。この比較思想的な仏教研究が、西田哲学を継承する哲学的な仏教研究と並んで、現在も主流である文献学的な仏教研究に対峙する位置にあると思われる。最後に付言すれば、これからの仏教研究は、その中軸として、文献学的研究と、それを踏まえた思想史的研究、さらには、その思想史的研究によって明らかになる重要な「生きたテキスト」をよりどころとする比較思想的研究が遂行されることが望まれるのではなかろうか。
著者
原 實 川崎 信定 木村 清孝 デレアヌ フロリン ユベール デュルト 落合 俊典 岡田 真美子 今西 順吉 木村 清孝 末木 文美士 岡田 真美子 ユベール デュルト 田辺 和子 落合 俊典 デレアヌ フロリン 松村 淳子 今西 順吉 津田 眞一 北田 信 清水 洋平 金子 奈央
出版者
(財)東洋文庫
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2006

平成18年度より3年間、「古代インドの環境論」と題し、同学の士を誘って我々の専攻する学問が現代の緊急課題とどの様に関連するかの問題を、真剣に討究する機会を持ち得た事は極めて貴重な体験であった。外国人学者を交えて討論を重ねる間に、我々の問題意識はインド思想や佛教の自然観、地球観にまで拡がって行ったが、それらは現代の環境破壊や無原則な地域開発に警告する所、多大なるものがあった。「温故知新」と言われる所以である
著者
木村 清孝 Kiyotaka Kimura
出版者
国際仏教学大学院大学
雑誌
国際仏教学大学院大学研究紀要 = Journal of the International College for Postgraduate Buddhist Studies (ISSN:13434128)
巻号頁・発行日
no.10, pp.170-155, 2006-03-31

In Japan, wa (和. he in Chinese) is still popular as an important tenet taught by Prince Shotoku in the Ancient Age. In this paper, the author tries to analyze the concept of he as it appears in Chinese and Japanese Buddhist texts (Especially Chinese Versions of the Buddhist Canons) and clarify its various meanings, some of which have been deeply influenced by Chinese thought. Since the time of Early Buddhism, Buddhists have fundamentally attached importance to unification and harmonious relations of the order. For example, the famous Dhammapada says, sukha sanghassa samaggi samagganam tapo sukho. Samaggi in this sentence was translated he (和) or hehe (和合) in China. This seems to be the most basic sense of he in Buddhism. Secondly, the idea of hejing (和敬), which relates with he mentioned above is also notable. This idea served as the base of the theory of six kinds of hejing (六和敬), which means harmonious behaviors in the six fields of body (身), speaking (口), mind (意), sila (戒), view (見), and benefit (利) in general. But it does not seem that this theory was formed before the occurrence of Mahayana Buddhism in the first century B.C. and widely prevailed all over the Buddhist world. Thirdly, there is the term of heyan-aiyu (和顔愛語. wagen-aigo in Japanese). This phrase is very popular in Japan. However, we can not find out any equivalent in the Sanskrit text of the Amitayus-sutra to heyan, that constitutes the most well-known idiom in one of the Chinese versions of it. Fourthly, we discuss the concept of heguang-tongchen (和光同塵) 50 Buddhism and the Concept of he (和, wa in Japanese) in East Asia (Kimura) originating in the Laozi. This was accepted in Chinese Buddhism in two ways, i.e., one positive, and the other negative. We can see one typical example of the positive usage of this idiom in the Great Concentration and Insight (Mohezhiguan.摩訶止観) by Zhiyi (538-597). The negative usage of it, in the expression butongqichen (不同其塵) appears in the Mahayana-nirvana-sutra translated by Dharmaksema. Lastly, the author investigates the relationship between these various meanings of he in East Asian Buddhism and the thought of he advocated by Prince Shotoku. Our conclusion is that Prince Shotoku tried to apply the Buddhist idea of samaggi to the secular society at large.
著者
原 實 今西 順吉 落合 俊典 木村 清孝 津田 眞一 デュルト ユベール 杉山 二郎 平川 彰
出版者
国際仏教学大学院大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2001

平成13年度以来同16年迄の4年間、幸い科学研究費補助金の支給を受け、研究協力者の助言を得ながら研究を続行し得た成果を以下に報告する。近時ジェンダー研究が盛んで本邦に於いても社会学者を中心に所謂「女性差別」「男女平等」を学問的に研究しようとする気運が昂まった。筆者はこの問題を自らが専攻する古代インドの文献に徴して学問的に研究しようと試み、方法論を筆者の専攻する文献学に取り、斯学の世界的リーダーとして令名の高かったロンドン大学のJ.Lisley博士の精神的支持を得てその研究に従事した。不幸にして同博士は昨年急逝したが、同種の研究に従事する「ギリシャの女たち」の著者桜井万里子氏(東大教授)やタイ国の法制史を研究し比丘尼の生活規範を纏め上げた石井米雄氏(文化功労者、京大名誉教授)の助言を得ながら同学のインド古典研究者、仏教学者を研究協力者として研究を進めた。ここに提示するものは過去四年間に亘って研究代表者が発表したもの中心に同類の「女性」に関する過去の研究を一括したものである。その結果分量が大部となり、従って研究協力者の論文は今回見合わせざるを得ず、それらは別の機会に発表する事とした。古代インドの「貞女」「烈女」「淫女」の諸相、「妻」「娘」の地位を中心に「男尊女卑」の系譜を辿ると共に、「貞節」「不倫」の諸問題を系統的に文献に徴して整理したものである。