著者
木鎌 耕一郎
出版者
八戸学院大学
雑誌
八戸学院大学紀要 (ISSN:21878102)
巻号頁・発行日
no.49, pp.15-36, 2014-12-24

青森県とキリスト教の最初の出会いは、キリシタンの世紀後半であり、舞台は津軽である。そこには二つの局面がある。一つは、津軽藩を築いた津軽為信とその息子信建と信牧が、京都、大坂でキリスト教に触れ、為信は受洗に至らなかったが二人の息子が受洗したことである。もう一つは徳川家康の禁教令により、京都・大坂・加賀の士族信者が津軽に流刑となったことである。本稿では、二つの局面のうち、第一の津軽為信父子とキリスト教との接点に焦点を当て、中でも津軽為信がキリスト教に接近することになった「契機」と「動機」について考察する。前半である本稿(1)では、先行研究を検証し「動機」について考察を行う。
著者
木鎌 耕一郎
出版者
八戸学院大学
雑誌
八戸学院大学紀要 (ISSN:21878102)
巻号頁・発行日
no.50, pp.61-81, 2015-03-31

1596年のイエズス会年報では、津軽藩の初代領主である津軽為信は、大坂で修道士から信仰の手ほどきを受け、説教を聞き、洗礼を望んでいたとされる。また1607(慶長12)年の年報では、長男信建が自ら司祭を訪ね受洗した後に死を迎えたことが伝えられている 。津軽氏とキリシタンを扱う主要な文献は、基本的に上記の二つの年報に依拠している。そのような中、1591年度の年報には、インド副王使節として都に居たヴァリニャーノ巡察師を訪問した人物に、「奥州の大名」がいたとする記述がある。「奥州の大名」は高山右近を通じて説教を聞くことを望んだとされる。この人物が為信であれば彼のキリスト教接近の「契機」にキリシタン大名高山右近の存在が浮かび上がってくる。本稿はこの仮説について検証した。
著者
木鎌 耕一郎
出版者
八戸学院大学
雑誌
八戸学院大学紀要 (ISSN:21878102)
巻号頁・発行日
no.50, pp.61-81, 2015-03-31

1596年のイエズス会年報では、津軽藩の初代領主である津軽為信は、大坂で修道士から信仰の手ほどきを受け、説教を聞き、洗礼を望んでいたとされる。また1607(慶長12)年の年報では、長男信建が自ら司祭を訪ね受洗した後に死を迎えたことが伝えられている 。津軽氏とキリシタンを扱う主要な文献は、基本的に上記の二つの年報に依拠している。そのような中、1591年度の年報には、インド副王使節として都に居たヴァリニャーノ巡察師を訪問した人物に、「奥州の大名」がいたとする記述がある。「奥州の大名」は高山右近を通じて説教を聞くことを望んだとされる。この人物が為信であれば彼のキリスト教接近の「契機」にキリシタン大名高山右近の存在が浮かび上がってくる。本稿はこの仮説について検証した。Tamenobu is the feudal lord in Tsugaru, in the times when Missionaries of the Society of Jesus had enhanced the propagation of Christianity. He was interested in Christianity, and his two sons were baptized. Most literature about them and Christianity wrote on the basis of The Japan Annual Report of Jesuit in 1596 and in1607. However, in these materials, it is not known for the opportunity that Tamenobu became close Christianity. Jesuit missionary Luis Frois wrote in The Japan Annual Report of Jesuit in 1591, that "a lord of Oshu" has been led to Christianity by Ukon TAKAYAMA, who is the famous Christian feudal lord. I verified the possibility that this person "a lord of Oshu" is Tamenobu through the spatial and temporal relation between Tamenobu and Ukon.
著者
木鎌 耕一郎
出版者
八戸学院大学
雑誌
八戸学院大学紀要 (ISSN:21878102)
巻号頁・発行日
no.49, pp.15-36, 2014-12-24

青森県とキリスト教の最初の出会いは、キリシタンの世紀後半であり、舞台は津軽である。そこには二つの局面がある。一つは、津軽藩を築いた津軽為信とその息子信建と信牧が、京都、大坂でキリスト教に触れ、為信は受洗に至らなかったが二人の息子が受洗したことである。もう一つは徳川家康の禁教令により、京都・大坂・加賀の士族信者が津軽に流刑となったことである。本稿では、二つの局面のうち、第一の津軽為信父子とキリスト教との接点に焦点を当て、中でも津軽為信がキリスト教に接近することになった「契機」と「動機」について考察する。前半である本稿(1)では、先行研究を検証し「動機」について考察を行う。Tamenobu Tsugaru is the first feudal lord of the Tsugaru clan. He met Society of Jesus propagator at the end of 16th century and accessed Christianity. His two sons were baptized. Most literature about them and Christianity wrote on the basis of The Japan Annual Report of Jesuit in 1596 and in1607. However, in these materials, it is not known for the "an opportunity" and "the motive" that Tamenobu became close Christianity. I clarified about these, inspecting some precedent studies.
著者
木鎌 耕一郎
出版者
八戸学院大学
雑誌
八戸学院大学紀要 (ISSN:21878102)
巻号頁・発行日
no.50, pp.83-93, 2015-03-31

幕末維新期に、新しい生き方を模索した東北の士族階級の中に、各地に設けられた開港地で宣教師らに学ぶ者が現われた。彼らはキリスト教信仰を新しい精神的支柱とし、社会的な活動に携わっていった。その中のひとりに、八戸藩出身の士族、源晟(みなもと・あきら)がいる。彼もまた、維新期にキリスト教に感化され、やはり自由民権運動に参与して地元政界で活躍した人物である。彼が入信したキリスト教は明治期に函館から宣教を開始したハリストス正教会(ロシア正教会)であった。一時期八戸には、ハリストス正教会の教会も存在した。本稿では、明治期の八戸地域におけるハリストス正教会の宣教の経緯と、これに関わった人々の動向について、関連史料と先行文献をもとに整理する。
著者
木鎌 耕一郎
雑誌
八戸大学紀要
巻号頁・発行日
no.44, pp.59-74, 2012-12
著者
木鎌 耕一郎
雑誌
八戸大学紀要
巻号頁・発行日
no.44, pp.59-74, 2012-12
著者
木鎌 耕一郎
出版者
八戸学院大学
雑誌
八戸学院大学紀要 (ISSN:21878102)
巻号頁・発行日
no.56, pp.61-85, 2018-03-30

本稿の目的は、明治初期に八戸で最初のハリストス正教の洗礼を受けたパウェル源が、やがて自由民権運動に参画し、青森県会議員、そして衆議院議員として活躍した様子をできるかぎり具体的に跡づけることである。その際、第一に、明治初期の正教入信者が「国家の革新」という大志を抱き、西洋近代の思想を摂取する過程で受洗したのに対して、ニコライがもたらしたロシア正教は彼らが向かって行った「近代化」や「西洋化」に抗する宗教であったこと、そして第二に、日清戦争後に高まった反ロシア的な国民感情の中で正教徒が直面した受難に着目し、そのような事情がパウェル源の事例にどのように当てはまるかについて考察する。
著者
木鎌 耕一郎
出版者
八戸大学
雑誌
若手研究(B)
巻号頁・発行日
2004

平成17年度は、平成16年度に得られた知見に基づき、第二バチカン公会議以降のカトリックとユダヤ教の関係史の中にエディット・シュタイン列聖問題を位置付け、その特殊性と歴史的意義を探った。第二バチカン公会議公文書『キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言』(Nostra Aetate)第4項の内容と成立経緯を検討した。さらに、ヨハネ・パウロ二世在位以降を同公文書の理念の具現化の時代と捉え、その言動を重点的に検証した。また合衆国における両宗教間の対話の展開に着目し、その中で見出された対話に介在する問題点を指摘し、その問題点が平成16年度で検討したユダヤ人のアイデンティティにおける問題と密接な繋がりにあることを見出した。また、エディット・シュタインに関する家族が描く、カトリック側からのエディット・シュタイン観とは異なる聖者の人間的な側面に着目し、そうした情報が本件に及ぼす影響や意味について考察した。さらに、2003年2月に公開されたエディット・シュタインがピオ十一世に宛てた手紙に関して、これをホロコーストの時代におけるカトリック教会の政治的姿勢と関連づける解釈の存在を指摘した上で、ユダヤ人問題の政治的解決を「非本質的」と考えていた1933年春時点のエディットの内的状況をテキストに即して明らかにした。研究目的のひとつであった本件が現代の宗教間対話の理論的側面に与える問題提起を明らかにする点については、十分に果たすことができなかった。
著者
木鎌 耕一郎
出版者
八戸大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2007

1933 年春にエディット・シュタインが教皇ピオ11 世に宛てて記したとされる手紙が、2003年に公開されたことを受けて、カトリックとユダヤ教の間で展開された論争について調査した。関連文献の収集、研究を通して、「手紙」執筆の内的動機を探るとともに、エディット・シュタインの自己理解に見られるユダヤ人としてのアイデンティティとユダヤ民族との連帯感の特性、カルメル修道会の霊性に基づく「殉教」への意志の特性について考察した。