著者
村木 桂子 ムラキ ケイコ Muraki Keiko
出版者
同志社大学日本語・日本文化教育センター
雑誌
同志社大学日本語・日本文化研究 (ISSN:21868816)
巻号頁・発行日
no.12, pp.109-130, 2014-03

研究論文(Article)唐の玄宗皇帝(685~762)と楊貴妃(719~756)を題材とする絵画は、古代から近世にわたり連綿と描き継がれてきた。とはいえ、玄宗と楊貴妃のイメージ(どのような人物として描くのか)とその目的は必ずしも同じではなく、明らかに時代による変化が認められる。これまでの研究によれば、古代では「長恨歌」に基づいて玄宗と楊貴妃を悲恋の主人公として描くことによって、文学的情趣に訴えることを目的としたり、玄宗が楊貴妃に耽溺する様子を描くことによって、為政者への勧戒とする手段として用いたりした。しかし、近世になると、古代からのものに加えて、『開元天寶遺事』に基づいて、玄宗を栄華を極めた人物として描くことによって、為政者の権威を高める装置として利用されるようになった。ただし、古代と近世をつなぐ中世については、作例が乏しいため、玄宗と楊貴妃がどのような人物として描かれ、その目的は何であったのかについては明らかになっていない。本稿の目的は、中世の数少ない遺品の一つである南禅寺所蔵《扇面貼交屏風》中の扇面九点の図様と賛文を分析することによって、空白の中世における玄宗と楊貴妃のイメージと目的がどのようなものであったかを明らかにすることである。分析の結果、図様は玄宗の華麗な宮廷風俗を描く近世の作例と構図、モチーフが共通するものの、賛文は古代と同様に貴族に享受された感傷性や信西入道の「玄宗皇帝絵」にみられる栄華の儚さを哀れむ無常観を継承していることが判明した。おわりに、このような不均衡とも言うべき事態は、画を享受する公家や武士は、俗の世界にあって、風俗への嗜好を強めるのに対して、賛を記す禅僧はといえば、聖の世界にあって、旧来の世界観を堅持する傾向があることによって生じた可能性があることに言及する。
著者
村木 桂子 ムラキ ケイコ Muraki Keiko
出版者
同志社大学日本語・日本文化教育センター
雑誌
同志社大学日本語・日本文化研究 = Bulletin of Center for Japanese Language and Culture (ISSN:21868816)
巻号頁・発行日
no.16, pp.17-42, 2019-03

研究論文(Article)このほど、京都の北野天満宮(北野社)を描いた屏風が新たに見出された。本論で取り上げる二曲屏風の《北野社頭図屏風》(個人蔵、以下新出本と称す)がそれで、北野社の結構のみならず、門外で喧嘩沙汰に及ぶ人物や、南蛮風の胴服を着用する人物を描く点が目を引く。このような描写内容などから、本図が十六世紀中頃から十七世紀にかけて成立した「近世初期風俗画」と呼ばれる作品群の一例であることは明らかである。しかし、近世初期風俗画の歴史それ自体が極めて複雑な様相を呈しており、本図がどのような位相・系譜に属するものであるかは、容易に見極めがたい。そこで、本論では、新出本に描かれた地理的状況、点景人物の姿態や着衣の描写に注目して、いつ頃の景観を描いているのかを考察することを通じて、本図が近世初期風俗画の歴史の中でどのように位置づけられるのかを明らかにすることを目的とする。そのため、まず新出本の概要について述べ、つぎに北野社を描く絵画には三つの系譜があることを確認する。そのうえで、その中の一つ風俗図の系譜をさらに「洛中洛外図」系、「名所風俗図」系に分け、それぞれ二作品(合計四作品)を選んで、北野社の建物の配置および歌舞伎小屋の様子を比較分析する。その結果、新出本は、慶長十二(1607)年の社殿再建以降の景観を描いており、北野社頭で遊楽に興じる人々を描いた一連の北野社頭図ともいうべきジャンルに該当することから、この新出本も当初は六曲一隻であった可能性に言及する。さらに、喧嘩沙汰の人物の姿態や着衣を分析した結果、新出本の景観年代は、元和元(1615)年のかぶき者の風俗取り締まりを上限とし、寛永(1624~43)前半ごろを下限とすることを指摘する。おわりに、以上のことを踏まえて、本図は、かぶき者を画中に描き込んで過ぎ去った戦乱の世への追憶を感じさせることによって、伊達を称揚する人々に向けて描かれた風俗画であった可能性を指摘する。巻末ページの執筆者「村木 桂子」の表記に誤りあり (誤)「日本語・日本文化教育センター 嘱託講師」→(正)「グローバル・コミュニケーション学部 嘱託講師」
著者
村木 桂子
出版者
関西大学東西学術研究所
雑誌
関西大学東西学術研究所紀要 (ISSN:02878151)
巻号頁・発行日
vol.51, pp.A295-A324, 2018-04-01

This painting shows not only views of the Kitano Shrine in Kyoto after it was repaired by order of Hideyori Toyotomi but also the lively scene around the temporary theater erected near the shrine, where the play of Okuni-Kabuki is being performed. It used to form a pair of six-fold screens with another painting representing ome of the noted spots of the Higashi-yama (the Gion Shrine) in Kyoto. The purpose of this paper is to consider the art historical significance of "the itano Shrine and Okuni-Kabuki Screen" while focusing on the image of the staffage person. Through analysis, this painting shows numerous pious people visiting the Kitano Shrine and it seems that the painting as depicted is filled with a religious atmosphere rather than one of a pleasure trip.
著者
太田 孝彦 林田 新 村木 桂子 森下 麻衣子 吉田 智美
出版者
同志社大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2008

従来、江戸時代絵画は様式を語るのが常で、筆法が果たす機能に注意することはなかった。筆法の機能に注目してみれば、「書と画」の南画家たちにとって筆法修得は「古人になる」王道であり、狩野派が語る粉本の重視は筆法の価値を取り戻そうとする試みだったと解釈できる。こうした筆法重視の観点からは新たなる江戸時代の絵画史が語られることになる。それは従来の「美術」の観点から語っていた江戸時代の絵画史とは別の面を見せることになるだろう。