著者
樋口 聡
出版者
広島大学教育学部
雑誌
広島大学教育学部紀要 第二部 (ISSN:04408713)
巻号頁・発行日
no.36, pp.p201-211, 1987

Content science is a science of educational "content" of school subject. This unfamiliar name of science was advocated at Hiroshima University several years ago to join the educational content of school subject to the background basic sciences. This paper clarifies the position of the content science in the studies of curriculum and instruction, and its relation to the basic sciences.Although the name, "content science", was advocated, the character and significance of the science have not been defined yet. The reason is that the studies in the content science incline toward some practical and concrete problems of each subject, and the structure behind those problems cannot be noticed enough. The consideration of the prospect through a schema of education in this paper is a structuralistic attempt to define that structure.On the categorical basis, the concept of education is regarded as relation or function such as:On a condition of P, E = F (a, b, c)(P: purpose, E: education, a: tutor, b: pupil, c: media).As the content science's "content" means the content of the media(c), the content science has the place there. On the other hand, the basic sciences are located apart from education, therefore the content science is not the basic science itself. The content science is formed by making a loop touching those basic sciences. The loop consists of discovering some questions in education(1); looping the basic sciences(2); and feeding back to education(3). The insufficiency of most studies in the content science is that they only pay attention to the (2)-(3) connection and lack the (1)-(2) connection. A (1)-(2)-(3) loop is needed in the content science.
著者
青木 孝夫 原 正幸 樋口 聡 桑島 秀樹
出版者
広島大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2003

申請書の研究の目的に示したように、藝道に代表される日本の伝統的藝術観は、西欧の近代的藝術観から疎外される形で成立したが、現代文化に於いて重要な意義を担っており、作品に結実する独創性の美学とは別の藝術的実践の美学を支えている。その藝道思想の現代的活用の探求を進め、美的文化の日常的実践やその身心観を考察した。天才や独創性の神話を離れて展開した藝術は、複製技術の普及と絡み広範な美的実践として姿を現し、従来の藝術の境界を突き崩し拡大している。この点の探究を、研究の実施計画に従い、各分担者が進めた。その具体的内容を記す。青木は、上記の事態を習い事や美的教養の伝統に即して解明し、また文化の日常的な実践や礼儀・作法など藝道の名では呼ばれていない、実践するアートの享受と自己涵養の思想的解明に尽力した。樋口は現代の文化的実践が前提する東洋的身心観の特性を西欧との比較の上に探究を進め、知的藝術観とは異なる身心の涵養に関わる東洋的身心観及び藝術観を考察した。原は、現代の文化実践を支える東洋の礼楽思想や音楽的実践などを、東西の古典に即し比較学的に推進した。桑島は、現代文明が生み出した美的理念でもある崇高が、所謂藝術現象に限定されない広汎な文化現象と関わることに着目し、その淵源を理論的歴史的に探究し、なお現代文明に於ける文化実践の意義を検討した。以上を受けて青木が総括した。本研究の意義について簡単に述べる。習い事や美的教養また東洋的身心観の解明を進め、人間性の身心両面に亘る涵養と表現の問題を、何よりもまず〈藝術〉として了解してきた日本の伝統を解明した。以上を基礎に、その発展的形態である藝道・武道・礼法・躾け・嗜み・スポーツなど、広義のアートと呼ばれるべき文化的実践の意義を現代的文脈に於いて解明し、それが現代文明が必要とする身心の全面的「教養」即ち涵養と関わることを解明した点が格別重要である。
著者
佐藤 臣彦 樋口 聡 小林 日出至郎 新保 淳 杉山 英人 木庭 康樹 林 英彰 GUNTER Gebauer 周 愛光
出版者
筑波大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2005

本研究プロジェクトでは、スポーツは単なる身体的事象ではなく, 他の芸術分野と同様、それ自体の独自性を持つ文化であることを理論的に明らかにするとともに、すでにギリシア時代に、自らの身体能力自体を競い合う心性が存在していたことを明らかにした。また、身体についても, 単なる自然的存在ではなく、大きな可塑性を有する文化的存在で、その育成には体育(身体教育)が決定的に重要な役割を果たしていることを明らかにした。
著者
樋口 聡
出版者
日本スポーツ社会学会
雑誌
スポーツ社会学研究 (ISSN:09192751)
巻号頁・発行日
vol.21, no.1, pp.53-67, 2013-09-30 (Released:2016-08-04)
参考文献数
48

武道とダンスが中学校の保健体育で必修になった。その必修化が、学校教育に何をもたらすのか、武道とダンスを学校教育で教えることでどのような教育的可能性を考えることができるのか。その展望を示すことが、本稿の目的である。 まず、武道とダンスの必修化をめぐって、武道やダンスの研究者や学校現場の教員によってすでになされている議論を、『体育科教育』(大修館書店)の特集号で概観した。体験の楽しさの探求、生徒の知的好奇心の刺激、歴史学習の大切さ、道徳教育・人間教育の方向性が、関係者によって論じられ、共有されていることが明らかになった。次に、文化の伝承の問題を、武道とダンスのそれぞれについて検討した。特に武道について、我が国固有の伝統と文化の強調が、必修化の背景にあると考えられるからである。「型」の文化の学びと、西洋近代のメカニックな合理性からずれた身体運動技法との出会いが、武道・ダンスの文化の伝承の契機として指摘された。そして、武道やダンスを学校教育で教えることの根源的意義として、「身体感性の学び」の生成についての議論が提示された。武道もダンスも、感覚・感受性、表現、技能、主体性といった身体感性の学びの場として捉えることが、学校教育で武道やダンスを必修化することによってもたらされる可能性であることが明らかになった。武道とダンスの必修化の結果、学びの広がりに応じて、教科の枠組みの融解がより一層進む可能性も示唆された。
著者
樋口 聡
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.45-53, 2013-09-14 (Released:2017-08-10)

本稿では、鈴木篤氏の論考の問題の所在、方法、結論を簡潔に確認し、特に問題設定に関わる方法に、大きな問題があることを指摘した。そして、鈴木氏が方法として参照するプロソポグラフィの単純な限界の理解、ピエール・ブルデュの『ホモ・アカデミクス』の問題意識の共有、パリのフランス国立科学研究センター研究員へのインタヴューを通して、教育学・教育哲学の「全体像」をつかむという鈴木氏の思いに向かう道は、鈴木氏の試みとは違って、個別的な研究や研究者についての緻密な分析描写(物語の生成)であるべきことを指摘した。
著者
利島 保 樋口 聡 鳥光 美緒子 坂越 正樹 藤川 信夫 小笠原 道雄
出版者
広島大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
1999

ポスト・モダン的状況下における教育科学の課題に関して日独協力研究を実施した結果、下記の諸点について新たな知見が得られた。美学、身体性の観点から:「ミーメーシス」は美学の特殊な術語として理解されてきたが、「模倣」「倣う」「写す」という日本語の意味の広がりにおいて捉えるとき、ゲバウア、ヴルフ等のドイツにおける研究と連関させられる。模倣の身体性、芸術制作の創造性とともに日本の伝統的な学びのスタイルが模倣と習熟にあったことが学びの復権として改めて注目されるべきである。環境問題の視点から:環境は今や教育の一対象領域にとどまらず、今日の教育を再構築する根底的視点となっている。ドイツにおいても「持続可能な発展」のキーワードのもと、多様な文化的能力、課題発見・解決能力の形成がめざされており、日本での「生きる力」「新学力」との共通教育課題が確認された。研究の全体を通して以下のことが指摘される。教育学のポストモダン体験以降、理論レベルでは人間形成に関する理解の流動化が認められた。実践レベルでも「教育の実定性」への懐疑から、近代学校教育の周縁部で新たな人間形成理解が胚胎しつつあった。近代の理性に基づいた知から感性、身体性に基づいた教育の知への転換は、閉塞状態にある今日の教育と教育学の枠組みを組み換え、新たに展開する可能性を示唆している。その契機となるものが、芸術や環境との身体を伴った相互体験、プログラム化されない他者との一回的出会い等であることも明らかにされた。
著者
樋口 聡
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.18, pp.15-24, 2009-09-12 (Released:2017-08-10)

鈴木康史氏のフォーラム報告論文は、明治期日本の思想家を取り上げ、近代的人間を表象する用語、例えばpersonという英語に対する訳語が「身」からいかにして「人格」へと変容したのか、そして「身」がいかにして「精神的なるもの」に取って代わられたのか、といった問題を考察し、そこに「主体」の表象の変容を見ようとするものである。その変容とは、「主体」から身体的な領域が抜け落ちていくことであり、さらに「人格」の観念の登場とともに「身体」は徹底的に無化され、透明化する身体へと帰結した、と鈴木氏は考える。主体が変容し、身体が脱落し、そして身体が透明化した、というのである。本稿では、鈴木氏の問題提起の面白さを受けとめつつ、主体から身体が脱落するという図式的な見方がはらむ問題点を指摘した。
著者
樋口 聡
出版者
教育思想史学会
雑誌
近代教育フォーラム (ISSN:09196560)
巻号頁・発行日
vol.21, pp.81-89, 2012-10-13 (Released:2017-08-10)

「美と教育」再論を見据えて、シュタイナーのシラー論を考察の対象とし、特にシュタイナーの『自由の哲学』における議論を、今日の教育や人間に関する通念的理解を異化する契機と見なすことを試みた西村拓生氏のフォーラム報告論文において、西村氏自身がその試みを「あえて」シュタイナーについて語ると規定していることが、本コメント論文では着目された。なぜ「あえて」なのか。シュタイナーをめぐるいくつかの文献とともに、筆者自身が経験したシュタイナー論との関わりも振り返えられ、シュタイナーを近代教育思想研究の中にこれまでの躊躇を越えて取り込む可能性が示唆された(「あえて」と言う必要は、もはやないだろう)。西村氏が異化の契機としてシュタイナーを捉えることもさることながら、むしろシュタイナー学校での教育実践を多角的に考察する中でシュタイナーの生き方や思想が参照され研究されることに、これからのシュタイナー教育思想研究のひとまずの方向性があるのではないかという見方が提示された。
著者
樋口 聡
出版者
美学会
雑誌
美学 (ISSN:05200962)
巻号頁・発行日
vol.55, no.2, pp.1-13, 2004-09-30 (Released:2017-05-22)

The question of whether or not sport is art has been discussed by many scholars of the philosophy of sport. Taking this discussion into account, we now know that a simple conclusion regarding sport as art is not adequate, because it is clear that there is a politics of culture concerning sport and art behind the discussion. In this paper, the author summarizes this broader, background discussion as the context for critically reviewing Wolfgang Welsch's paper "Sport-Viewed Aesthetically, and Even as Art?" (XIVth International Congress of Aesthetics, 1998). Specifically Welsch considers modern sport as an example of today's aestheticization of the everyday, and regards sport as art. An important matter we should pay attention to in Welsch's paper is that he proposes two different concepts of art, that is: "art-art" and "sport-art." Welsch's strong point is that he clarifies the ambiguity of the contemporary concept of art and suggests a broad extension of the notion of art beyond the traditional concept of art through the discussion of the relationship between sport and art. Welsch's discussion is based on his idea of "recurrence" to the original meaning of aesthetics, aisthetis.
著者
金田 晋 樋口 聡 原 正幸 奥津 聖 菅村 亨 青木 孝夫 外山 紀久子 松本 正男
出版者
東亜大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2000

21世紀の初頭にあたって、アジア美学は、世界美学の多元化のもとで、辺境の地位から表舞台に登場した。そのような比較美学の視点から、アジアの藝術思想を事象に即して再検討し、新しい問題地平を開発しようとした。1)「藝術」という西欧近代美学で形成された枠を突破する必要がある。それは高級な教養としての藝術を娯楽に向かって開放する(シュスターマン教授を共同研究者として示唆を得た)。それはまた美的という価値概念をエポケーして、生の感性をむき出しにすることとも通じる。アジアの身体思想から新たな身体・感性論を開拓せんとした(樋口聡等)。2)訓練、練磨は、西欧美学においては新しい技術を身につけるための準備を意味していた。だが東洋で、それは座禅が端的に示しているように、何よりも身体から日常生活の惰性や先入観を洗い落とし、無の境地を開くための身体的行為であった(青木孝夫等)。3)感性的図式としての時間と空間は、西欧近代美学においてはっきり区別され、とくに言語は時間的継起において捉えられてきた。それに対して、東洋の漢字に代表される言語観において、書字は言語的行為にどこまでも浸透し、空間的並列として直観されるところに特色をもつ。カリグラフィーが言語の新しい可能性を開拓する(奥津聖等)。4)諸藝術ジャンルについての、事象に即した研究。中国の音楽(原正幸等)、日本近代の人形劇(澤井万七美)、絵画(菅村亨等)、色彩問題(金田)。スタッフ外から西アジアの工芸の発表(福田浩子)。5)古代ギリシャの陶器画に見られるアジアのイメージについての実証的研究(長田年弘)。現代の演劇パフォーマンスにおけるアジア・イメージ(外山紀久子)。アジアは内なる者の自覚としてだけでなく、他者によって作り上げられたイメージとしても捉えられるべきである。そこにはナショナリズムの問題も加わるであろうし、また共同研究に参加された藤川哲による、現代芸術におけるアジア・ブームの分析。