- 著者
-
桜井 啓子
- 出版者
- 日本中東学会
- 雑誌
- 日本中東学会年報 (ISSN:09137858)
- 巻号頁・発行日
- no.9, pp.143-164, 1994-03-31
イランは,スンニー派のアラブ民族が多数派を占める中東世界において,シーア派に属するアーリア民族として,その独自性を維持してきたことで知られている。そのため,イランすなわちシーア派・アーリア民族の国家として定式化されることが多い。しかしながら,このようなイラン像は,必ずしもそこに住む人々によって共有されてきたわけではない。現実のイランは,多民族,多宗教社会であって,人々は,それぞれの属する民族,宗教,地域に帰属意識をもってきた。19世紀末,欧米列強による帝国主義的な侵略の脅威に晒されて以来,イランの指導者たちは,イランを国民国家として統合することの必要性を強く意識してきた。彼らは,自らの国内的ならびに国際的な政治目標を達成するうえで,最も都合のよい共同体像を描き,それを国民が共有することを欲してきた。どの時代の指導者も,ムスリム,シーア派,イラン,ペルシア,アーリアなどを,この国土に暮らす人々の主要な属性とみなしてきた。しかし,体制の相違により,これらの要素の扱いは,相当に異なったものとなった。ところで,お互いに顔を合わせることもない広い範囲に住む人々の間に共同体意識を醸成するうえで,歴史教育の果たす役割は大きい。歴史は,過去に生きた特定の人々を,祖先として教えることによって,現在に生きる人々を結び付ける。共同体の起源,過去の栄光そして祖先の戦いや屈辱の物語は,人々が属する集団のイメージを鮮明にする。歴史は過去を物語ることによって,現在に奉仕し,また将来の使命を説く。指導者は,歴史的素材の取捨選択,構成,評価において教科書内容に深く関与することによって,自らの存在を正当化できるような歴史物語を描いてきた。したがって,教科書に描かれた歴史は,その史実の正確さや解釈の妥当性においてではなく,歴史物語に託された目的やそれが果たした役割において検討されなければならない。このような観点から本稿は,まず,カージャール朝末期,パフラヴィー朝末期,イラン・イスラム共和国という3つの異なる体制下で発行された小学校歴史教科書を考察し,それぞれの体制がどのような共同体像を描いてきたのかを明らかにする。次にこれらを比較しそれぞれの共同体像が何を指向し,どのような役割を果たそうとしてきたかを検討する。