著者
清水 真一
出版者
横浜国立大学
巻号頁・発行日
1996

横浜国立大学, 平成8年3月31日, 博士(工学), 乙第100号
著者
友田 正彦 大田 省一 清水 真一 上野 祥史 小野田 恵 ファム レ・フイ ブイ ミン・チー グェン ヴァン・アイン
出版者
独立行政法人国立文化財機構東京文化財研究所
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2013-04-01

実物遺構が現存しない14世紀以前のベトナム木造建築の上部構造の解明に寄与することを主目的に、建築型土製品等の考古遺物と現存建築遺構等の現地調査をベトナム北部各省と中国国内で計6次にわたり実施した。これにより、ベトナムにおける中国建築様式の段階的かつ選択的な受容のあり方について新知見を加えるとともに、ベトナム木造建築様式の独自性が李・陳朝期に溯ることを明らかにした。ハノイでの研究会開催や、日越両語による研究論集の刊行を通じ、ベトナム北部出土建築型土製品の調査データも含めた研究成果を公開するとともに、従来あまり知られていなかった研究資料を提供することができた。
著者
清水 真一
巻号頁・発行日
1996-03-31

第1章 序 論 番付は、様々な部材を組み上げてモノを造る際に、各部材の据え付け位置を示す心覚えとして記される符丁である。木造建築は特に構成部材が多いことから、手仕事に伴う誤差に対処するために仮組をして部材調整をした後、改めて番付を頼りに組み上げることとなる。このように番付は建物の出来映えに直接関わる生産の技術として書要であるが、建物形態ばかりでなく生産工程や造営組織の在り方によっても番付の必要性や用い方は様々であったと考えられる。番付はモノと人を結びつける中心的な役割を担い、生産システムとしての性格を備えているといえる。番付は個々の建物の建立や修理の沿革を知る資料として重視されているに関わらず、番付そのものについての体系的な研究は行われずにきた。本研究は生産システムに関わる有用な資料としての番付について、その歴史的変遷とその背景について考察し、併せて番付からみた大工の系統や地域性など建築界の諸相を明らかにする。番付は見え隠れ部分に記されるのが常であり解体の機会を除いては確認は困難である。したがって基礎的な資料の収集については文化財建造物の保存修理工事の成果に負うところが大きい。対象とした時代は、古代から中世前期(鎌倉・室町前期)にかけてのもっぱら方位番付が用いられた時代と、中世後期(室町中・後期)から近世初斯の慶長年間にかけて各種の新しい番付形式が普及し地方色が形成された時代との二時期に大区分した。 第2章 古代・中世前期の番付 新築当初の組上番付は、法隆寺五重塔などの諸例から大和では古代以来用いられたことがわかる。極めて限られた部位に適用されたものであったが、中世前期にかけて次第に地方に普及するとともに側廻りの組物などを対象に用いられて、六技掛けの成立にも象徴されるような軒廻り整備の進展にとって重要な技術的裏付となったと考えられる。方位番付の形式は、塔婆や三間堂のような求心的平面の場合には中心からみた四面と四隅の方位で示すが、横長平面の場合には、唐招提寺講堂や法隆寺東大門では棟通りから前後に振分けて表記する形式が採られ、構造主体が前後対称な古代建築にふさわしいシステムといえる。また、中世前斯には密教本堂に代表される奥行の深い建物が現れたことから、四面の方位を記した上でさらに各面毎に一端からの数を追う形式が現れるなど、番付形式自身にも時代の要求に応じての変化をみることができる。 第3章 中世後期・近世初期の番付 14世紀末から15世紀初頭にかけて、数字のみで表記する回り番付・時香番付・組合番付の使用が相次いで確認できる。回り番付は、中世前期以来の軒廻り整備に対する技術的要求から考案きれたと考えられる。室町中期には京都を中心とする一帯を挟んで、東日本と西日本の広範な地域での使用が確認でき、本来は京都を中心に用いられた形式が地方に普及した結果と考えられる。南北朝の兵乱後、幕府の造営を中心に京都の造営活動が再び活性化するとともに、建物内部の各柱筋にも適用することを前提とする形式である時香番付が考案された。畿内から西は山陽道、東は東海道へと主要街道筋に沿って普及していった様相が窺える。京都では、近世初頭にはさらにイロハ組合番付という小屋雑専用の番付が考案される。一方、大和では古代以来の方位番付を踏襲し、地方においても方位番付は新番付の補助的役割にとどまることになる。番付には建築界の移り変わりが反映している。また、播磨や近江湖東地方では、直行座標によって位置を示す合理的な形式である数字組合番付が用いられた。中央の動向とは異なる独自の形式が考案された背景には、地方建築界の活発な造営活動があったことを示すものとして注目できる。 第4草 番付からみた中世後期と近世初期の建築界 生産システムとしての番付の在り方にも大きな変化が現れた15世紀前半までには、縦挽鋸の使用、請負工事の出現、職名としての「棟梁」の登場など建築生産に関わる諸事象が現れたことは既に知られており、これらは生産技術の向上と造営形態の組織化が進展したことを物語る。中世後期に登場した各種の新番付は、起点と進行方向を定めて数字のみで表示することから、抽象的、数学的思考方法の成熟が窺えるし、正面柱筋を優先とする形式は奥行の深い平面形態が現れて構造主体に正面性が芽生えたことを反映している。また、次第に野小屋にも規矩的な納まりが重視されて小屋組番付を用いるようになるが、近世初期には軸部とは異なった番付形式を充てるものが現れ、軸部と小屋組とが構造的な分離を遂げたことを示している。番付は工匠集団内で一定の形式が踏襲されるから作事の分担や工匠の交流があったことが確認できる。特に姫路城など近世初期の城郭建築の造営においては、地元工匠に加えて遠方の工匠を招いて建物毎、階毎の作事分担があったことがわかる。また、地域の中で番付形式の混在が著しい所は、概して工匠の交流など建築活動が活発であったことを示し、円教寺や大徳寺などでは番付から寺外工匠による活躍の様も窺える。中世新番付の分布状況をみるとそれぞれ地域性が認められる。番付形式と建築様式の地域性を比較してみると、直接的な関係を明らかにすることはできない。しかし、中部地方南部で西日本と関東の主流形が交錯すること、東日本では定型的であるのに対して、西日本では特に近畿から山陽にかけて混在傾向が著しいことなど、番付形式、様式ともに一致した傾向が見受けられる。 第5車 中世法隆寺大工とその造営形態本章では棟札や棟木銘のような銘文墨書ばかりでなく番付を含めた建築墨書全般についての総合的な資料分析を通じて、法隆寺大工の特異な造営形態である四箇末寺大工職と四人大工制度について、その成立から解体に至る経緯を追跡した。四人大工制度は、弘安元年(1278)に四箇末寺大工職を得た四姓の工匠達を構成員として四姓が対等な立場で参画して惣寺の作事を独占するものである。番付に併せ用いられた特有な用語を追跡することで、法隆寺大工が旧興福寺大工を主体として成り立っていることがわかる。治承兵火後の興福寺復興に続く時期に行われた法隆寺東院修造は興福寺工を主体として行われ、その後の作事の縮小に伴って職場独占の機運がおこり四人大工制度が成立したと考えられる。この制度は室町後期に末寺の大工職が消滅した後も維持されたが、中井家配下に組み込まれて行われた慶長大修理をもって解体に向かったことが知られる。これを契機に再び寺外工匠の参画と部位別作事分担が行われたことも番付から裏付けられる。 第6章 結 語 古代から近世初期にかけて、番付が限られた部位から次第に建物全体へと適用されるに至った経緯を追跡すると、整った納まりを追求したり、複雑化する建物形態への対処方法を模索し、あるいはより雑織的な造営形態を追求する申で、工匠達が様々に工夫を凝らしながら番付を様々に変化発展させてきたことが明かとなった。古代代以来の方位番付を頑なに踏襲しながら対処した大和の工匠、はた目にはやや不便なシステムであっても独自の番付形式を斯いた延暦寺工匠、時香番付、さらにはイロハ組合番付という進んだシステムを積極的に採用した大徳寺工匠を始めとする京都の工匠、中央での動向にとらわれずさらに進んだシステムを早くから採用した円教寺工匠をはじめとする播磨の工匠など、番付形式やその用い方には時代の要請に対する工匠例の対処の在り方が現れている。また、番付を通じて、建築活動の中心が移り変わり、あるいは地方建築界が勃興した様など、建築界の動向を時代や地域を越えて見通すとともに、工匠の交流や作事分担の様などモノ造りに直接関わった工匠達の動向をも描き出すことができた。本研究では、建築生産のシステムとしての重要な役割を担う番付について、その性格と研究の意義を明らかにし、歴史的な変遷課程をたどる基礎的な作業を通じて、番付を建築史研究の重要な方法論のひとつとして提示できたと考えている。
著者
片山 和俊 尾登 誠一 清水 真一
出版者
東京芸術大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2005

第1年次(平成17年度)に中国福建省西南部、第2年次(平成18年度)に広東省北部の客家民居実測および聞き取り調査、第3年次(平成19年度)に広東省深セン市周辺および香港郊外に残る客家民居の実測調査と、東京芸術大学建築科と香港大学建築学科による国際的なワークショップを行った。今回調査対象とした地方各地域に中国の近代化、急激な経済成長の影響が色濃く見られた。中国の主要都市や各地方の中心都市が発展する表の顔とすれば、客家民居が多く残っているような周辺地域は裏の顔の一つであり、人が住ないままに放置された民居や、無造作な建替えによって荒廃が進む住環境が多く見られた。客家民居と集落にかって見られた風土と生活が一体化した風景は、今急速に失われつつある。その一方で例は少ないが、民居や集落を観光資源として集落博物館や民家園として利用する試みも見かけた。宿泊施設として改築中の民居も見られた。文化財の保存という観点からは問題が残る安易な改修もあったが、生活文化遺産を継承する有効な方法の一つとして捉える必要があると思われた。それほどに変貌と荒廃の範囲が広く急激である。このような実測調査プロセスを経て、当初描いた生活文化遺産の物的な記録を残すという客家民居の実測調査に加えて、実態に基づいてこれからの民居と集落の継承を考える必要を感じ、最後のまとめとして香港大学とのワークショップを行った。ワークショップでは、我々がこれまで行なって来た研究調査の成果を発表するとともに、香港大学建築学科松田直則教授の協力を得て、両校の先生と学生たちによる継承に対する様々な提案を行い、客家民居のこれからのあり方についての意見交換を行った。このことを通じて国を越えた生活文化遺産の問題への関心を高め、将来に向けた日中学術交流の礎を築くことができたと考えている。