著者
石田 雅樹
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.47, pp.27-36, 2012

本稿はハンナ・アーレントの政治理論をシティズンシップ教育論の視点から検証したものである。アーレントが能動的市民の政治参加を強調しながらも、シティズンシップ教育の可能性に至らなかったのはなぜなのか。この疑問に対して、本稿はアーレントとバーナード・クリックの政治理論とを比較し考察を行った。アーレントもクリックもともに能動的市民の政治的意義を認めながらも、前者はシティズンシップ教育に消極的であるのに対して、後者はそれを強く推進した。本稿は、この両者の相違が「政治」と「市民」の認識の隔たりに由来することを論証した上で、両者の隔たりの中にシティズンシップ教育のジレンマがあることを明らかにした。
著者
石田 雅樹
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.48, pp.79-88, 2013

本稿はハンナ・アーレントの「教育者」としての側面に着目し、その教育活動と研究活動がどのような関係にあったのかを検証したものである。アーレントが戦後アメリカの大学で教鞭を取っていたことは良く知られているが、具体的な授業内容や学生観、また学生からの評価などについてはこれまで断片的にしか論じられてこなかった。本稿ではこれらに着目することで、アーレントが大学教育の中で学生たちに何をどのように伝えたのか、同時代の政治的課題や政治哲学的課題をどう扱ったのかを辿り、そこで実践された「教育」が彼女の「研究」とどのように結びついていたのかを明らかにした。
著者
石田 雅樹
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.57-67, 2015

ウォルター・リップマンの政治思想は、その「世論」民主主義批判の文脈において「エリート主義」「保守主義」と解釈され、ジョン・デューイらリベラリズムの論敵として理解されてきた。しかしながら、リップマンの「政治」と「教育」をめぐる議論を検証すると、そこにはニつの政治教育論が存在し、一方はデューイらと同様に学校教育を通じてアメリカ社会を民主的に変革するものとして、他方はそれとは別の教育論理でアメリカのリベラル・デモクラシーを再構築するものとして描かれていることに気づく。本論はこれまで論じられてこなかったこのリップマンにおける二つの政治教育論を取り上げ、一方の政治教育論が「市民教育」[メディア・リテラシー」「知能テスト批判」をキーワードとして市民の政治知識の向上に寄与するものであり、他方が「コモンローの精神」「公共哲学」「文明的作法」をキーワードとして一般公衆の精神的陶冶を強調するものであることを明らかにした。
著者
石田 雅樹
出版者
日本政治学会
雑誌
年報政治学 (ISSN:05494192)
巻号頁・発行日
vol.71, no.2, pp.2_237-2_255, 2020 (Released:2021-12-15)
参考文献数
41

本稿は、ジョン・デューイにおける 「市民性教育」 論と 「国民性教育」 論を比較検証し、その教育論におけるナショナリズムの位置づけを明らかにしたものである。 デューイのナショナリズムについてはこれまで、第一次大戦期におけるアメリカ参戦支持論などを中心に研究が行われてきたが、この時期に展開した 「国民性教育」 の内実について十分な検証は行われてこなかった。本稿はこの時期における 「市民性教育」 と 「国民性教育」 との関係性に注目し、両者の共通点と相違点を検証することで、デューイの教育論におけるナショナリズムの意義を明らかにした。つまり一方でデューイが、「市民性教育」 論によってナショナルな枠組みを超える視点を提示しつつも、他方では 「国民性教育」 論同様に学校教育にナショナルな統合機能を期待していたことを示し、双方においてデモクラシーとナショナリズムとが不可分な形で結びついていることを明らかにした。またデューイは 「市民性教育」 と 「職業教育」 との一体性を主張したが、その 「職業教育」 の在り方もドイツ的価値観を批判し、アメリカの価値観が投影されたものであった。本稿は以上のような点で、大戦期におけるデューイ教育論とナショナリズムとの関係を明らかにし、その可能性と限界を論じた。
著者
石田 雅樹
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.39-47, 2015-01-28

ウォルター・リップマンが『世論』(1922)で安易な「世論」民主主義を批判し、政治の実践においては専門家の知性の活用を重視していたことはよく知られている。しかしながら、この専門家の知性の活用は統治者だけではなく、「世論」を生み出す「一般公衆」へも向けられていることについては、これまでほとんど注目されてこなかった。またさらに「世論」の偏向を是正する取り組みとして、今日で言うところの「メディア・リテラシー」への言及があることも考察の対象とされてこなかった。本稿はこれまで軽視されてきたリップマンの「市民教育」論、あるいは「メディア・リテラシー」論に光を当て、それが「世論」改善にどのような役割を果たすのかを明らかにした。
著者
石田 雅樹
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.49, pp.39-47, 2014

ウォルター・リップマンが『世論』(1922)で安易な「世論」民主主義を批判し、政治の実践においては専門家の知性の活用を重視していたことはよく知られている。しかしながら、この専門家の知性の活用は統治者だけではなく、「世論」を生み出す「一般公衆」へも向けられていることについては、これまでほとんど注目されてこなかった。またさらに「世論」の偏向を是正する取り組みとして、今日で言うところの「メディア・リテラシー」への言及があることも考察の対象とされてこなかった。本稿はこれまで軽視されてきたリップマンの「市民教育」論、あるいは「メディア・リテラシー」論に光を当て、それが「世論」改善にどのような役割を果たすのかを明らかにした。
著者
石田 雅樹
出版者
宮城教育大学
雑誌
宮城教育大学紀要 = Bulletin of Miyagi University of Education (ISSN:13461621)
巻号頁・発行日
vol.50, pp.57-67, 2016-01-29

ウォルター・リップマンの政治思想は、その「世論」民主主義批判の文脈において「エリート主義」「保守主義」と解釈され、ジョン・デューイらリベラリズムの論敵として理解されてきた。しかしながら、リップマンの「政治」と「教育」をめぐる議論を検証すると、そこにはニつの政治教育論が存在し、一方はデューイらと同様に学校教育を通じてアメリカ社会を民主的に変革するものとして、他方はそれとは別の教育論理でアメリカのリベラル・デモクラシーを再構築するものとして描かれていることに気づく。本論はこれまで論じられてこなかったこのリップマンにおける二つの政治教育論を取り上げ、一方の政治教育論が「市民教育」[メディア・リテラシー」「知能テスト批判」をキーワードとして市民の政治知識の向上に寄与するものであり、他方が「コモンローの精神」「公共哲学」「文明的作法」をキーワードとして一般公衆の精神的陶冶を強調するものであることを明らかにした。
著者
石田 雅樹
雑誌
宮城教育大学紀要
巻号頁・発行日
vol.47, pp.27-36, 2012

本稿はハンナ・アーレントの政治理論をシティズンシップ教育論の視点から検証したものである。アーレントが能動的市民の政治参加を強調しながらも、シティズンシップ教育の可能性に至らなかったのはなぜなのか。この疑問に対して、本稿はアーレントとバーナード・クリックの政治理論とを比較し考察を行った。アーレントもクリックもともに能動的市民の政治的意義を認めながらも、前者はシティズンシップ教育に消極的であるのに対して、後者はそれを強く推進した。本稿は、この両者の相違が「政治」と「市民」の認識の隔たりに由来することを論証した上で、両者の隔たりの中にシティズンシップ教育のジレンマがあることを明らかにした。