著者
織田 顕祐 米田 健志
出版者
大谷大学
雑誌
基盤研究(C)
巻号頁・発行日
2004

本研究の目的は、仏教の中国伝来をインド文化圏と中国文化圏との東西交流と見たときに、一体どのようなことが見えてくるのかその実態に迫ることである。従来、仏教の東漸は篤信の外国三蔵によって行われたと簡単に考えられてきたのであるが、そうした面が否定できないにしても、より大きな働きは文化圏同士の交流にあったのではないかと考えるべき点がいくつもある。中国に仏教が伝来したのは、ほぼ紀元1世紀頃であり、2世紀中旬以降になると経典翻訳も次第に数を増してくるが、この時代は中央アジアにおいて大月氏国が隆盛となる時代と重なっている。この時代の中国における仏教受容を伝える中国側の歴史資料は、伝説的な要素が多くて信用することができないと一般的には考えられているが、こうした点を今回改めて検討した結果、いくつかの理由によって記述に信愚性が高いことが明らかになった。こうした点から考えるに、インドと中国を結ぶ大月氏国の存在は想像以上に大きかったはずであり、こうした点の研究がますます重要であることが明らかとなった。また、漢代の牟融撰述の「理惑論」にはある程度詳細な仏伝や、仏経は万巻に及ぶといった言及があり、後漢当時の訳経のみによっては到底知ることのできなかったはずの記述がなされている。こうした事実は牟融が後漢の都であった洛陽を離れて、交趾(現在のハノイ)に至って初めて知ったことであった可能性が高い。こうした点から考えるに、当時交趾には相当量の仏典が齎されていたことが想像され、仏教の東漸が中央アジアの陸路経由ばかりでなく、インドシナを経た海路によっても盛んに行われたことを窺わせる重要な事実であると言うことができる。言うまでもなく、物流という面から見れば、海路によるほうが圧倒的に有利であり、「物」としての経典の将来はこうした面を見逃すことができないと考えられ、こうした視点に立った研究が一層重要である。