著者
森山 一隆 菊池 一郎 石井 則久
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.78, no.3, pp.231-250, 2009 (Released:2011-02-07)
参考文献数
50

ハンセン病療養所において、妊娠・出産が可能であった国立療養所奄美和光園について、時代背景などを追いながら考察した。 和光園の創設は1943 年と新しく、1946 年から1953 年までの米軍占領を経て、日本のハンセン病行政体制に組み込まれた。 1949 年頃より、松原(のちの和光園事務長)の和光園でのカトリックの宣教、1951 年からのパトリック神父の宣教は入所者の妊娠・出産の考えを変えた。また、松原、パトリック神父、ゼローム神父、星塚敬愛園の大西園長などの指導のもと、療養所自治会、子供の親、大平園長などによって出産後の子供の養育に道筋が作られ、「夫婦舎の内則」としてまとめられた。実際面では、1953 年から1954 年まで新生児を看護婦ないし松原の家族が保育し、1954 年11 月からは保育所(「こどもの家」、後に「名瀬天使園」に名称変更)での保育が始まった。さらに2~3歳からは「白百合の寮」で養育が行われた。両親との面会は限られていたが、成長し、現在では立派な社会人となって社会で活躍している。 らい予防法のもとで療養所入所者の妊娠・出産は困難であったが、カトリックを中心とした妊娠・出産・保育・養育の制度を確立することで、和光園においてはハンセン病患者が子供をもつことが可能であった。
著者
菊池 一郎
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本らい学会雑誌 (ISSN:03863980)
巻号頁・発行日
vol.62, no.3, pp.118-124, 1993

熊本のハンセン病の歴史は本妙寺に患者が集まったことに始まるがその起源ははっきりしない。明治4年には喜捨をうける患者の記録があり,人の眼に触れるようになった。これは明治4年7月に廃藩置県,8月に非人解放令が発令されたあと,国内の交通が自由になったことと関係があろう。明治28年に私立の回春病院,明治42年に公立の九州療養所が設立されたが,本妙寺集落は昭和15年の患者の強制収容で終わった。その間の集落の存続の理由などを検討したが,差別が少ない集落であったことや,経済生活が容易であったことや,公立療養所での生活の厳しさなどがその理由であったようである。患者の強制収容は回春病院の廃止と同様戦争準備であったと思われるが,国家権力の意識と実行がどういう関係にあったかは明らかでない。
著者
菊池 一郎 杉田 誠一 前田 亨
出版者
[東北農業試験研究協議会]
雑誌
東北農業研究 (ISSN:03886727)
巻号頁・発行日
no.62, pp.127-128, 2009-12

平成20年5月26日に青森県津軽地域の鶴田町、板柳町及びその周辺で降雹がありブドウ'スチューベン'でこれまで経験の無い甚大な被害が発生した。雹害を受けた時点の新しょうは初期伸長中で軟らかかったことから、茎、葉柄に多数の打撲等の傷を受け、かつ葉の裂傷も多く、生育不良が懸念された。また、新しょうの茎と同様に花穂の穂梗、穂軸にも多数の打撲等の傷が観察された。そこで、被害を受けた花穂(果房)を被害程度別に追跡調査し、生育、品質等について比較検討したので報告する。