著者
森 修一 石井 則久
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.76, no.1, pp.29-65, 2007-02-01 (Released:2010-03-12)
参考文献数
135
被引用文献数
1

ハンセン病政策と医学の関わりに焦点を当て、特に隔離政策について、日本の隔離政策の独自性と世界の政策との共通性を考察した。世界のハンセン病史、欧州の隔離の歴史を考証し、近代医学が隔離を提唱する背景と日本の隔離に与えた影響を歴史的、医学史的に検討した。また、絶対隔離政策進展の経過とその背景、プロミン以降の世界の隔離、日本に於ける隔離継続の要因を考察した。
著者
牧野 正直
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.79, no.1, pp.25-36, 2010-02-01 (Released:2011-09-02)
参考文献数
18

本年(2009年)は、わが国においてハンセン病患者の公的機関への隔離・収容が開始されて丁度100年目にあたる。すなわち、政府は1907(明治40)年法律第11号「癩予防ニ関スル件」を公布し1909(明治42)年それを施行、放浪する患者の隔離・収容を開始した。 この小論で、わが国のハンセン病医療史において最も重要な事項の一つである、この法律の成立にかかわった医師、政治家、官僚がどのようなものであったかを検証した。するとこれは意外に少人数のエリート集団であり、一人ひとりが学閥・同門・同郷などといったしがらみで強く結びつけられていたことが明らかになった。 また、この法律は、二回の改正を経ながら89年間維持・継続されることになったが、この維持・継続のためには光田健輔を中心とした系類や光田イズムを信奉し続けた多くの療養所所長たちが浮かび上がって来た。 全療協が主張する「100年の“記念”でも“祝賀”でもなく“総括”である」という言葉を重く受け止めたい。
著者
荒川 創一
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.80, no.3, pp.301-304, 2011-09-01 (Released:2012-09-28)

Human immunology and relationship between immune mechanism and infection were explained. Humoral immunity and cellular immunity collaborate properly and eliminate microorganisms. In immunocompromised host these mechanisms are broken. For prevention of healthcare associated infections, standard precausion is important basically. Additionary, according to the status of the patient, contact precaution, droplet precaution or airborne precaution should be applied.
著者
森 修一
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.87, no.2, pp.73-90, 2018 (Released:2018-12-05)
参考文献数
56

Isolation of leprosy patients beginning in the Middle Ages of Europe was a religious isolation based on the doctrine of Christianity. It was terminal care with compassion for the purpose of protecting the patient, but the patient had to finish his life in Lazaretto. This aspect deeply engulfed people the image of leprosy as diseases isolated, diseases of fear, dark and dusky. A plague epidemic starting in the 14th century became the greatest tragedy in European history, and one third of the population died out. Pest epidemic continued until the 18th century, and cholera also became popular from the 19th century. In the epidemic of plague and cholera, in Europe, developed public health policies mainly against measures against infectious diseases and opposed it. As a result, the European public health policy was forced to sacrifice minorities with the aim of maximizing maximum happiness, and was established in the 19th century with the development of bacteriology.   Leprosy was prevalent in the 19th century in Canada, Hawaii, Norway and Germany. It began with management as a genetic disease at the beginning, became to be considered as an infection eventually, Mycobacterium leprae (Lepidoptera) was discovered by Hansen in 1873, and then overcome by overcrowding as a public health policy I was tried. Isolation was strict, but protection was also secured by Christian missions and isolation aimed at terminal care was also done. The former strongly aimed at transition from religion to science mainly in the United States, scientific measures were taken based on the “International Conference”. The latter was centered on British Christianity mission, with the dignity and compassion of human being the center of its activities. Two isolation became the tide of the world in the modern age, eventually leading to the trial of the isolation policy based on science and compassion.   Chemotherapy starting with Promine in 1943 changed Hansen’s disease from incurable disease to diseased disease, science learned from the spirit of religion, changed the isolation as public health policy, religion was a remedy for patients who respect scientism , Aiming to escape from the concept of isolation in the Middle Ages. Eventually, this result fruited as WHO’s measures against leprosy, isolation policy shifted to outpatient treatment, and WHO policy of multidrug therapy (MDT) began in 1981. With the progress of this policy, the number of leprosy patients worldwide has drastically decreased, and in 2010 only one country where leprosy is a public health problem became one country. It was also the end of the history of the tragedy of leprosy for thousands of years.   The history of leprosy gave humanity a number of tragedies, but the way to overcome it has given us a lot of lessons. Today, utilizing what we learn from the history of leprosy to the future will be our mission living in the era when leprosy is about to be overcome. In this paper, while examining the process of religion and science overcoming leprosy, I will clarify the history of leprosy and I would like to think about the significance of telling the history as archives as a history.
著者
森 修一 加藤 三郎 横山 秀夫 田中 梅吉 兼田 繁
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.72, no.3, pp.217-237, 2003 (Released:2007-11-30)
参考文献数
76
被引用文献数
1

本研究は戦前、日本に唯一存在したハンセン病患者の自由療養地である群馬県吾妻郡草津町湯の沢部落の社会科学的分析の中から、何がハンセン病患者の隔離の二つの側面である「迫害されている患者の社会の圧力からの保護」と「感染源である患者からの社会の防衛」のダイナミズムを後者への優位に導いていったのかを明らかにすることを目的とするものである。その過程は湯の沢部落の実態の解明(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究1、II」)、自由療養地議論の展開と消滅の過程の検証と湯の沢部落の関わり(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究III」)、湯の沢部落消滅後にその精神が日本の隔離政策に与えた影響(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究IV」)などの研究の総体である。本稿では自由療養地構想から絶対隔離政策への変遷過程を国会での議論、内務省の政策およびその意思決定過程、自由療養地議論の中の湯の沢の役割、などから描いた。加えて、自由療養地を望む患者たちの意見とその背景を示すと共に世界の隔離政策と日本の隔離政策をその歴史的過程を含みながら対比、考察した。
著者
金澤 伸雄
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.86, no.2, pp.107-113, 2017 (Released:2018-08-29)
参考文献数
30

ハンセン病はらい菌による感染症であるが、伝染病ではなく、むしろ宿主の免疫状態や反応によって病像が決まる「免疫病」とされる。同時に、「遺伝病」ではないが、宿主の遺伝的素因も大きく関与する。本稿では、免疫異常の病態を2つの「免疫ベクトル」で二次元的に展開し、筆者がこれまで経験してきたサルコイド様肉芽腫性病変を伴う原発性免疫不全症、遺伝性自己炎症性疾患であるブラウ症候群、鑑別が重要なサルコイドーシスなどとともに、類結核型とらい腫型のハンセン病をその平面上に位置付けることにより、これらの対比を明確にした。確かにハンセン病は先進国では消えゆく疾患であるかもしれないが、免疫学にかけがえのないモデルを提供し、その進歩に大きく寄与した。免疫抑制剤の進歩による再帰感染のリスクという新たな問題も出現し、現代においてなお、「古くて新しい」この疾患の存在意義は大きい。
著者
湯浅 洋
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.68, no.2, pp.87-90, 1999 (Released:2007-11-30)
参考文献数
4

Successful “Leprosy Elimination Programme” since 1991 managed to reduce global case load to nearly 1/10 in 10 years. However, this rapid fall of case detection/incident rate. This means that even after year 2, 000, control effort of leprosy as an infectious disease must be sustained, while adequate control / care of leprosy as a deformity / disability causing disease need more attention.
著者
熊野 公子
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.71, no.1, pp.3-29, 2002 (Released:2007-11-30)
参考文献数
177
被引用文献数
7 7

In leprosy, the causative bacteria, Mycobacterium leprae, will not threaten the lives of the hosts directly because they proliferate only slowly in the Schwann cells of the peripheral nerves. It is the “reactions” which give the patients irreversible morbidity through the inflammatory damages to the peripheral nerves. Physicians should be aware of the possibility of the state of the “reaction” when they examine leprosy patients. They also should be aware of the possibility of leprosy and the state of the “reaction” when they examine patients with cutaneous lesions and/or peripheral nerve disturbances, because it may be the first presenting symptom of the disease. In this review, recent advances on the issue about the reactions are discussed including pathogenesis, immunology, clinical features, pathology, treatment and prevention.
著者
杉田 泰之
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.70, no.1, pp.3-13, 2001 (Released:2007-11-30)
参考文献数
41
被引用文献数
3 3

Polymerase chain reaction(PCR)によるMycobacterium lepraeの遺伝子の検出は、従来の抗酸菌染色では検出できない少量の菌を高感度に検出することを可能にした。ハンセン病の診断にはM.lepraeの検出が決定的な診断根拠となるため、PCRの利用によって簡便かつ正確に診断することが可能になると期待される。横浜市立大学医学部皮膚科学教室では、M.lepraeを検出するためのPCRを独自に設定し、多くの医療施設から検査依頼を受けている。ハンセン病におけるPCRについて解説するとともに、理論的な特徴、利用する際の具体的な注意点等を述べ、1994年から2000年までの7年間に当教室で行った59例の検査の結果を示した。
著者
森 修一 加藤 三郎 横山 秀夫 田中 梅吉 兼田 繁
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.27-44, 2003 (Released:2007-11-30)
参考文献数
22
被引用文献数
1

本研究は戦前、日本に唯一存在したハンセン病患者の自由療養地である群馬県吾妻郡草津町湯の沢部落の社会科学的分析の中から、何がハンセン病患者の隔離の二つの側面である「迫害されている患者の社会の圧力からの保護」と「感染源である患者からの社会の防衛」のダイナミズムを後者への優位に導いていったのかを明らかにすることを目的とするものである。その過程は湯の沢部落の実態の解明(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究1、II」)、自由療養地議論の展開と消滅の過程の検証と湯の沢部落の関わり(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究III」)、湯の沢部落消滅後にその精神が日本の隔離政策に与えた影響(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究IV」)などの研究の総体である。本稿では湯の沢部落の歴史を描き、その変遷の過程における住民たちの努力、キリスト教者たちの活躍を描くと共に、国家によるハンセン病政策の変遷、特に明治期からの隔離政策と湯の沢の関係が密接である点を示した。またここに、逆境下でも人間はいかに生きようとするのか、何を望むのかを描き、自由療養地の価値をそこに示した。
著者
森 修一 加藤 三郎 横山 秀夫 田中 梅吉 兼田 繁
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.73, no.1, pp.47-63, 2004 (Released:2007-11-30)
参考文献数
26

本研究は戦前、日本に唯一存在したハンセン病患者の自由療養地である群馬県吾妻郡草津町湯の沢部落の社会科学的分析の中から、何がハンセン病患者の隔離の二つの側面である「迫害されている患者の社会の圧力からの保護」と「感染源である患者からの社会の防衛」のダイナミズムを後者への優位に導いていったのかを明らかにすることを目的とするものである。その過程は湯の沢部落の実態の解明(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究I、II」)、自由療養地議論の展開と消滅の過程の検証と湯の沢部落の関わり(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究III」)、湯の沢部落消滅後にその精神が日本の隔離政策に与えた影響(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究IV」)などの研究の総体である。本稿では戦後、栗生楽泉園から始まる患者運動を通して、湯の沢で培われた精神は楽泉園内でも生き続け、患者運動の戦端を開き、「特別病室」を廃止、職員の不正を暴き、やがて多磨全生園と共闘し、「全国癩療養所患者協議会」を生み、絶対隔離政策と対峙する力を形成する様相を描いた。併せて、「特別病室」設置の背景、戦中を中心としての療養所内の混乱の様相とその要因を述べた。
著者
森 修一 加藤 三郎 横山 秀夫 田中 梅吉 兼田 繁
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.72, no.1, pp.11-25, 2003 (Released:2007-11-30)
参考文献数
15
被引用文献数
2 1

本研究は戦前、日本に唯一存在したハンセン病患者の自由療養地である群馬県吾妻郡草津町湯の沢部落の社会科学的分析の中から、何がハンセン病患者の隔離の二つの側面である「迫害されている患者の社会の圧力からの保護」と「感染源である患者からの社会の防衛」のダイナミズムを後者への優位に導いていったのかを明らかにすることを目的とするものである。その過程は湯の沢部落の実態の解明(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究I、II」)、自由療養地議論の展開と消滅の過程の検証と湯の沢部落の関わり(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究III」)、湯の沢部落消滅後にその精神が日本の隔離政策に与えた影響(「草津湯の沢ハンセン病自由療養地の研究IV」)などの研究の総体である。本稿では湯の沢部落がどのようなコミュニティーであったのかを概説した。ここで見る湯の沢部落は、病者の集団というイメージではなく、一般人のコミュニティー以上に活気があり、自治のシステム、施設等が完備された先進的なコミュニティーであった。
著者
森山 一隆 菊池 一郎 石井 則久
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.78, no.3, pp.231-250, 2009 (Released:2011-02-07)
参考文献数
50

ハンセン病療養所において、妊娠・出産が可能であった国立療養所奄美和光園について、時代背景などを追いながら考察した。 和光園の創設は1943 年と新しく、1946 年から1953 年までの米軍占領を経て、日本のハンセン病行政体制に組み込まれた。 1949 年頃より、松原(のちの和光園事務長)の和光園でのカトリックの宣教、1951 年からのパトリック神父の宣教は入所者の妊娠・出産の考えを変えた。また、松原、パトリック神父、ゼローム神父、星塚敬愛園の大西園長などの指導のもと、療養所自治会、子供の親、大平園長などによって出産後の子供の養育に道筋が作られ、「夫婦舎の内則」としてまとめられた。実際面では、1953 年から1954 年まで新生児を看護婦ないし松原の家族が保育し、1954 年11 月からは保育所(「こどもの家」、後に「名瀬天使園」に名称変更)での保育が始まった。さらに2~3歳からは「白百合の寮」で養育が行われた。両親との面会は限られていたが、成長し、現在では立派な社会人となって社会で活躍している。 らい予防法のもとで療養所入所者の妊娠・出産は困難であったが、カトリックを中心とした妊娠・出産・保育・養育の制度を確立することで、和光園においてはハンセン病患者が子供をもつことが可能であった。

3 0 0 0 OA 水俣にまなぶ

著者
原田 正純
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.78, no.1, pp.55-60, 2009 (Released:2010-12-21)
参考文献数
9
被引用文献数
1 2

Minamata disease (MD) was first recognized in May 1956. Its first recognized victims were 3 and 5 years old children. Environmental contamination most rapidly and seriously affected the physiologically and socially weak among the residents. Methylmercury (MeHg) had accumulated in fishes and shellfishes and those who ate them had been poisoning with it.MD is an indirect poisoning by MeHg through the food chain as a result of environmental contamination, and is the first known disease to cause abnormalities in the fetus due to a toxic substances passing through the placenta. In 1962 MeHg poisoning through the placenta was found for the first time in the world. It used to be considered that poisoning was caused by direct exposure to a toxic substance, and that toxic substances did not pass the placenta. MD had implications in various fields. Namely it also stirred up legal, ethical, and eugenic arguments concerning fetal protection. Also man thought about a man's worth.
著者
森 修一 石井 則久
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.86, no.1, pp.69-90, 2017 (Released:2017-08-18)
参考文献数
52
被引用文献数
1

日本のハンセン病政策は1907年の 「癩 (らい) 予防ニ関スル件」 の施行に始まるが、患者隔離は1909年の連合府県立 (国立) ハンセン病療養所 (以下、療養所) の開設からであった。本政策は1996年の 「らい予防法」 廃止まで継続され、約35,000人 (実数、推測値) が隔離を受けたが、その入退所動向の全容は未だ明らかではない。本研究では国立療養所の入退所動向を解析し、日本のハンセン病政策の実態を明らかとすることを目的とし、1909年から2010年まで102年間の入退所者数とその内訳を各国立療養所の年報や内部資料を収集し、内容を検討し、項目などを統一した上で、年次ごと、ハンセン病に関するそれぞれの法律の施行されている期間ごとにその内訳を集計した。その結果、102年間の総入所者数 (入所、再入所、転入を延べ数として集計した) 56,575人、総退所者数 (転所、軽快退所、自己退所、ハンセン病でない、その他を延べ数として集計し、死亡者数を加えた数) 54,047人 (死亡 : 25,200人、転所 : 4,350人、軽快退所 : 7,124人、自己退所 : 12,378人、ハンセン病でない : 310人、その他 : 4,685人) であった。法律ごとの内訳は、 「癩予防ニ関スル件」 (1907年―1931年) では総入所者数12,673人、総退所者数9,070人 (死亡 : 3,496人、転所 : 197人、軽快退所 : 79人、自己退所 : 4,824人、ハンセン病でない : 55人、その他 : 419人) 、 「癩予防法」 (1931年―1953年) では総入所者数31,232人、総退所者数23,354人 (死亡 : 11,559人、転所 : 488人、軽快退所 : 2,087人、自己退所 : 5,848人、ハンセン病でない : 247人、その他 : 3,125人)、 「らい予防法」 (1953年―1996年) では総入所者数12,098人、総退所者数18,159人 (死亡 : 7,654人、転所 : 3,450人、軽快退所 : 4,412人、自己退所 : 1,558人、ハンセン病でない : 8人、その他 : 1,077人)、 「らい予防法廃止に関する法律」 (1996年―2009年) では総入所者数572人、総退所者数3,464人 (死亡 : 2,491人、転所 : 215人、軽快退所 : 546人、自己退所 : 148人、ハンセン病でない : 0人、その他 : 64人) であった。今回の研究から日本の隔離政策下での入退所動向の全容がはじめて明らかとなった。
著者
森 修一
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.86, no.3, pp.189-211, 2018 (Released:2018-08-29)
参考文献数
20

ハワイでは19世紀半ばからハンセン病の蔓延が始まった。これに対してハワイ王国政府は1865年に公衆衛生政策としての隔離を決定、モロカイ島のカラワオを療養地とし、患者移送を始めた。患者の発見は密告と逮捕により行われ、容赦なくモロカイ島に送られた。政府は当初、カラワオで患者が自給自足する農業コロニーを目指したが、地理的特性や予算不足などが要因となり、農業コロニー構想は失敗し、カラワオは無法地帯となり、多くの混乱が生じた。1873年にはダミアン神父がカラワオに赴き、患者の救済を開始、政府との交渉にも務め、混乱は収拾された。その後、ハンセン病対策費の増加、治安システムの整備などによりカラワオには治安が確保され、療養地は近接するカラウパパへ拡がり、その拡充と制度の整備の過程とアメリカ合衆国の関与の中でハワイでは隔離政策が進展していった。
著者
中村 昌弘
出版者
日本ハンセン病学会
雑誌
日本ハンセン病学会雑誌 (ISSN:13423681)
巻号頁・発行日
vol.70, no.3, pp.127-133, 2001 (Released:2007-11-30)
参考文献数
6
被引用文献数
1 1

1882年、Kochによって結核の原因としての結核菌が発見され、培養、動物移植も達成されたが、らい菌はその9年前(1973年)にHansenによって発見されたにも拘わらず128年を故る現在においても、そのin vitro培養は未だに不可能である。そして、今や、らい菌培養の研究は不毛の研究として、細菌学の領域より忘れ去られようとしている。一方、らい菌のマウス足蹠内増殖、アルマジロヘの移植は達成されているので、細菌としてのらい菌の増殖能力の欠如についての疑問は全く存在しないし、らい菌が抗酸菌のカテゴリーに属するものであることは疑う余地もない。それでは何故らい菌は培養できないかの理由について、本報において、次の点について考察を加えることにする。1.長期間の培養による培地の老廃化のためか2.らい菌のカタラゼー欠損のためか3.らい菌の細胞壁の脆弱性のためか以上の、らい菌が培養できない理由の中で最もその可能性の高いものは、細胞壁の脆弱性によるものではないかと思われる。従って、らい菌の細胞壁を強靭にすれば、無細胞系で増殖する可能性は得られるものと推察される。