著者
藤井 紘司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
地理学評論 Series A (ISSN:18834388)
巻号頁・発行日
vol.83, no.1, pp.1-20, 2010-01-01 (Released:2012-01-31)
参考文献数
64

琉球弧の最も南に位置する八重山諸島では,水稲耕作のできない「低い島」からマラリアの蔓延する「高い島」へ耕作地を求めて通耕してきた歴史がある.従来,八重山諸島における遠距離通耕は旧慣租税制度である人頭税〔1637~1902〕によるものとされてきた.本稿は,1903(明治36)年の地租改正による人頭税撤廃以降,つまり近代期における海を越える遠距離通耕の変遷,その消長をあきらかにすることを目的とした.研究方法としては,土地台帳とそれに付随する地籍図,および明治30年代の行政文書「喜宝院蒐集館文書」の分析,また聞書きによるフィールド調査を行った.これらの調査によって,遠距離通耕の興隆期は近代期にあったことをあきらかにした.これらの現象は,A)新税法の施行,B)市場経済の浸透,C)「高い島」に位置する村落の衰退,D)技術的な発達などを背景として,「低い島」の過剰人口を吸収する生業適応として興隆期を迎えた.
著者
藤井 紘司
出版者
観光学術学会
雑誌
観光学評論 (ISSN:21876649)
巻号頁・発行日
vol.6, no.1, pp.3-17, 2018 (Released:2020-03-25)

本稿の目的は、マスツーリズムの弊害に対処しつつ、ながらく外発的な開発を拒否し、歴史的環境を軸とした観光まちづくりに取り組んできたむらが、なにゆえに大規模リゾートの誘致を許容したのかをあきらかにすることにある。本稿でとりあげる沖縄県竹富島は、伝統文化の保全と観光とを両立させた自治的なまちづくり先進地であるものの、大規模リゾートの誘致により、一見、地域社会の「内発性」が揺らいでいるようにもみえる。 本稿では、半世紀以上にわたる観光まちづくりの経緯をふまえ、その都度その都度の限られた選択肢のなかで、暮らしの問題を解決するために、地域内の各組織や個人がさまざまな外部アクターと離合集散しつつも、連帯する外部アクターを取捨選択していることをあきらかにした。本稿は、大規模リゾートの誘致もまた外部アクターとの連帯の一種ととらえつつ、パートナーシップ的発展論の視点から地域社会の内発性と外部アクターとのかかわりについて考察するものであり、地域社会による取捨選択の基準といったものをより積極的に論じる必要があることを指摘した。
著者
藤井 紘司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.86, 2011 (Released:2011-05-24)

研究の目的 本報告では、琉球弧のもっとも南に位置する八重山諸島を対象にして、「高い島」と「低い島」とで構成されたこの海域世界における19世紀末期から20世紀初頭における島嶼間交流を復原することに目的がある。島嶼間交流の研究は、おもに異なる生業経済を持った主体間の交流に焦点を絞ってきた。しかし、本報告は、歴史的に「低い島」の住民が「高い島」の生態環境を利用し、耕作地や水源地を所有してきた事例を通して、海上を越える埋め込まれた生業適応のあり方について分析する。なお、本報告では、この海上を越える生業適応を「通耕」という語彙を用いて、森林資源や飲料水の獲得といった行為を含めて使用する。 研究の方法と結果 本報告では「高い島」への通耕経験を跡付ける史料として、竹富町役場の所有する土地台帳とそれに付随する地籍図を用いた。また、地籍データの欠如した箇所は、税務課に保管されていた和紙製の「旧公図」を適宜用いて復原した。 まず、土地台帳に関しては、記載項目を相互に照らし合わせ、合計2083筆の土地について、その所有者の属する大字(所有質取主住所)を1筆ごとに特定し、これを地籍図上で彩色表示した。本報告では、これを「土地の所有権者住所大字分類」と名付けている。 さらに、統計データとしては、1885(明治18)年当時の八重山諸島に位置する村落の実態をまとめた田代安定(1857-1928)の復命第一書類(国文学研究資料館所蔵)の第28冊「八重山島管内西表嶋仲間村巡檢統計誌」と第35冊「八重山島管内宮良間切鳩間島巡檢統計誌」とを使用した。1892(明治25)年時の「沖繩縣八重山嶋統計一覽略表」(国立国会図書館所蔵)と併せて、当時の「高い島」と「低い島」との関係を検討するためには貴重な史料である。 また、同時代史料として、「低い島」の頭職に就いていた宮良當整(1863-1945)の記した日誌や備忘録、南島踏査を行った笹森儀助(1845-1915)の『南島探驗』(1894年)を参照した。さらに、視覚的な史料としては、1890年代の前半に作成されたと考えられる「八重山古地図」(沖縄県立図書館所蔵)と「八重山蔵元絵師の画稿」(石垣市立八重山博物館所蔵)とを使用した。 これらの史料と、土地台帳とそれに付随する地籍図、および明治30年代の状況にふれた「宮良殿内文書」の分析、また聞き書きによるフィールド調査や伝承されてきた古謡の分析をもとに、八重山諸島における「高い島」と「低い島」との交流史を復原した。 これらの調査によって、本報告の対象とした事例には、狭域集中型の通耕と広域分散型の通耕の2つの形態があり、また、「低い島」の住民は、「高い島」に水を得るための「池沼」や、通耕先で寝泊まりするための「宅地」を村(字)持ちで所有していたことをあきらかにした。 1904(明治37)年の「琉球新報」には、本報告の対象とした「低い島」の住民による刳舟の操縦技術の卓越さを記した記事があり、おそらく、通耕と操舟の技術とは、歴史的に併行し成長してきたといえる。「高い島」と「低い島」とで構成されたこれらの海域世界は、このような「海上の道」を維持することによって、島嶼環境に規定された制約性に対応し、埋め込まれた生業適応という現象を発生させてきたのである。