著者
東郷 直子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.190, 2011 (Released:2011-05-24)

犯罪の発生を地理的にとらえる試みは,19世紀の地図学派や1920年代のシカゴ学派による研究以来,社会学や環境犯罪学の分野を中心に行われてきた.地理学においても近年,警察機関などからの情報公開が進んだことを受けて,GISを用いた犯罪情勢の視覚化・分析・モデル予測が盛んである.しかしながら,田中(1984, 1988)のように犯罪の発生を一種の都市病理現象とみなし,犯罪被害者と犯罪発生場所の関連性について社会地理学的な観点から分析・考察したものはまだ少ない. そこで本研究では,地理学的な分析に適しているであろう街頭犯罪のうち比較的標本数の多いひったくり犯罪に着目し,その空間パターンから都市内部の犯罪発生につながる諸関係を明らかにすることを試みた. 研究対象地は大阪市全域とした.分析資料は「大阪府警察犯罪発生マップ」1)および同府警が実施している「安まちメールサービス」を用いた.研究対象期間は2009年(n=1,386)および2010年2月19日~同年12月31日(n=860)である.ひったくり被害者の年齢・性別,発生時刻,被害者・加害者の交通モードをクロス集計し,発生地点のポイントデータからカーネル密度推定により作成したひったくり密度分布図や空間スキャン統計で検出した犯罪ホットスポットなどと比較しながら,被害者属性と発生場所の地域特性について考察する.さらに,ひったくりと短時間の人口移動との関連性をみるために,パーソントリップデータを用いた分析を行った. 調査期間内に観察されたひったくり被害者数のうち約9割が女性である.これらの女性被害者を年代別・24時間帯別にみると,一般的なオフィス職の始業・就業時刻と前後する7時台と19時台を境に,中心となる被害者の年齢層が20歳代から60歳代・70歳代にシフトしている(図1).彼女たちがひったくりに遭った場所については,それぞれ市中心部の商業地域,および市東部から南東部にかけての住宅地域に明瞭な高密度ゾーンがみられ,これは23時台の非居住滞留人口密度および16時台の居住滞留人口密度のパターンによく対応する.原田ほか(2001:42)が東京23区の事例で指摘したように,大阪市でも繁華街の深夜営業の飲食店などで働く女性(おそらく若年層が中心)が帰宅中に被害に遭いやすく,一方で無職女性(高年層の多くが含まれる)の被害は自宅から近い日常行動圏内で起こる傾向がある.歩行者・居住者の属性や時間帯によって被害に遭う場所の潜在性が異なることは,都市内部での多様な防犯対策の必要性を意味している. さらに今回の発表では,都市病理現象としての大阪市のひったくり発生分布の差異について明らかにするために,空間スキャン統計量によって犯罪集積のクラスターを検出し,各々について高齢者率・人口密度・エスニシティといった地域特性指標との相関分析を行う. 注 1) http://www.map.police.pref.osaka.jp/Public/index.html(最終閲覧日:2011年1月18日) 文献 田中和子 1984.大阪市の犯罪発生パターン―都市構造と関連づけて―.人文地理 36(2):1-14. 田中和子 1988.被保護層居住パターンからみた大阪市の都市構造.福井大学教育学部紀要III(社会科学) 38:1-19. 原田豊・鈴木護・島田貴仁 2001.東京23区におけるひったくりの密度分布の推移:カーネル密度推定による分析.科学警察研究所報告防犯少年編 41(1・2):39-51.
著者
花岡 和聖 中谷 友樹
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.186, 2011 (Released:2011-05-24)

I はじめに 明治期、ペストやコレラ、マラリア、結核などの伝染病が各地で発生し、様々な防疫対策が取られた。当時、発生状況や患者、感染原因等が詳細に調査され、各地で流行誌としてまとめられた。 ペストに関しては、大阪は、神戸と並び、全国的に最も早い時期にペストの流行が始まる。1909年に発行された『大阪府第二回百斯篤流行誌』によると、大阪では、1899年~1900年及び1905年~1907年にわたりペストが流行した。とりわけ1907年11月には、発生患者数が220名を超えており、それ以前で最も多い約80名の患者が発生した1905年12月と比較しても、1907年11月頃の流行は非常に大規模なものであった。 そこで、本研究の目的は、大阪市を対象にして、『大阪府第二回百斯篤流行誌』から、1906年9月~1907年12月末までのペスト患者の時空間データベースを構築し、当時のペストの地理的分布や拡散過程を明らかにする。地理情報システム(GIS)を用いて、上記の資料を地図化し、改めて分析することで、ペスト流行に関する新たな知見が得られるものと期待できる。こうした研究は、医学地理学だけでなく、情報科学を活用した人文科学研究であるデジタル・ヒューマニティーズ(Digital Humanities)研究としても位置付けられる。 II ペスト患者の時空間データベースの構築 『大阪府第二回百斯篤流行誌』から、大阪市を対象に、「ペスト患者の時空間データベース」の構築を、以下の手順で行った。 まず「「ペスト」患者一覧表」に掲載されるペスト患者の属性をエクセルに入力し、患者属性データを作成する。属性には、ペスト患者の番号や氏名、発病月日、発見理由及月日、病類、住所、発見場所、職業、性別、年齢等の情報が含まれる。 次に、仮製二万分一地形図上に患者の発生地点が記された「大阪市「ペスト」鼠及「ペスト」患者発生図」と、住宅地図上に患者の発生地点と番号が記された詳細図を用いて、発生地点のポイントデータを作成した。具体的には、まずGISを用いて、上記の仮製図を幾何補正し、地図上に記された患者発生地点のポイントデータを入力する。続いて、詳細図に記された発生地点の位置関係をもとに、仮製図上のポイントデータの患者番号を特定した。その上で、患者番号をキーにして、661件の患者属性データとポイントデータを結合した。 最後に、これら以外にも、流行誌に掲載されたペスト鼠数や患者間の同居・交流関係の情報をデータベースとして整備した。 III ペスト患者とペスト鼠数の分布 ペスト患者の時空間データベースを用いて、患者全体のうち、発病と発見が同一場所のペスト患者の発生地点及びペスト鼠数を図に示す。ペスト患者が密集する地域は、主に難波や南堀江、南北に流れる東横堀川の東側である。患者の分布は、感染源となるペスト鼠数の分布はとも一致する。当時、捕獲した鼠の買い取りが行われていたが、1907年、難波警察署管内では年間94,351頭の鼠が検査され、うち1,460頭がペスト菌を有していた(10万頭に対して1547頭)。一方、曽根崎警察署管内では、鼠10万頭に対してペスト鼠は、47頭であった。 IV 患者間の同居・交流関係 特筆すべきは、『大阪府第二回百斯篤流行誌』の「「ペスト」患者同居及交通関係図」には、患者間の同居関係や交流関係が示される点である。この資料をデータベースとして整備し、患者属性データと合わせて利用することで、感染経路を時空間的に追跡が可能となる。これは当時の人的交流の空間範囲を示す資料ともなり得る。 V おわりに 本研究では、『大阪府第二回百斯篤流行誌』を用いて、同資料に掲載される患者属性及び地図上の発生地点から、ペスト患者の時空間データベースを構築した。これを利用することで、患者の発病月日に基づき、発生地点の時空間的変化を把握でき、どのようにペスト拡散し流行したのかを、患者の人口学的、社会経済的属性とも関連付けながら、詳細に分析できる。さらには、患者間の交流関係の情報は、社会ネットワークの観点からの分析や検証も可能である。
著者
中西 雄二
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.101, 2011 (Released:2011-05-24)

_I_ はじめに 1953年12月25日、それまでアメリカ軍政下にあった奄美諸島の施政権が日本政府に返還された。これにより、奄美諸島は鹿児島県に再編入され、引き続いてアメリカ軍政下に置かれた沖縄との間に新たな行政的な分断が生じることとなった。そして、奄美に本籍を置いたまま沖縄で生活する人々は、法的に「外国人」として扱われるとともに、外国人登録の義務化やそれまで保障されていた様々な権利の剥奪をみるに至った。本研究では、沖縄における奄美出身者の法的地位が大きく変動した奄美の施政権返還前後の時期に注目し、沖縄における奄美出身者の就業状況や同郷団体活動の様態を明らかにすることを目的とする。 _II_ 奄美から沖縄への移住 第2次世界大戦前から他地域への移住が数多く認められた奄美諸島であったが、当初、近接する沖縄方面への移住はそれほど多くなく、むしろ日本「本土」の工業地帯や産炭地域へ移住する人々の規模の方が圧倒的に大きかった(『奄美』1930年2月号)。そうした状況が一変したのが、第2次世界大戦後である。特に、沖縄でのアメリカ軍基地の本格的な建設ラッシュが始まり、それに伴う軍作業に従事する労働者需要が高まった1950年以降、奄美から沖縄への「出稼ぎ」移住は急増した。この背景には、1946年2月に沖縄・奄美と「本土」との間の渡航が制限されていたことや、戦後の大規模な引き揚げによって奄美の人口が過去最高を記録するなど、余剰労働人口の顕在化していたことなどが挙げられる。 _III_ 底辺労働者としての就労 1950年半ばには沖縄での軍作業従事者約4万人中、約1万3000人が奄美出身者といわれるまでになった。そのため、1950年代前半を通して、沖縄本島における大島本籍者の居住分布は那覇市周辺の市街地とともに、基地建設が盛んに行われた本島中部への集中傾向が認められた。また、当時、主に男性に特化されていた建設労働者以外にも、女性の「出稼ぎ」も顕著となったが、性産業を含めた底辺労働に従事する人々も少なくなく、しだいに奄美出身者を表す「大島人」という標識が差別的な意味合いを持つ場面も出てくることとなった。沖縄だけでなく、奄美のマス・メディアまでが警察による沖縄在住奄美出身者の検挙事例を強調するような状況で、沖縄で組織された沖縄奄美会は、同郷者の「善導・救済・犯罪防止」を目指す活動を模索する。 _IV_ 奄美返還をめぐる動揺 このような状況で、1953年には当局が把握する正式に本籍を奄美から沖縄に移した奄美出身者だけでも約4万人に達していたが、同年8月に日本政府への奄美の施政権返還が沖縄に先行して決定した。以降、返還時期と返還後の沖縄在住奄美出身者の法的地位の扱いに関する議論が活発化する。例えば、1953年8月18日の『沖縄タイムス』に「沖縄にとって大島の分離は明らかにプラスである。(中略)大島人の多くが引き揚げることにでもなれば、漸く就職難を訴えてきた労働界は供給不足という事態が生ずることになるので沖縄の労働者にとってこの上もない好条件をつくることになる」といった社説が掲載されたり、同年12月に沖縄全島市町村長定例会議が奄美出身者の大規模な郷里帰還を琉球政府に要請したりした。 結果的に、沖縄在住奄美出身者は奄美の先行返還後、沖縄に本籍を移さない限り外国人である「非琉球人」として扱われることとなり、選挙権や公務員への就職資格などを失っただけではなく、他の日本国籍者に与えられていた政府税の優遇措置の適用外に位置づけられるなど、極めて不利な立場に置かれることとなった。 以上の一連の過程を経て、沖縄奄美会に代表される奄美出身者の同郷団体は「公民権運動」と呼ばれる権利回復を求める運動を繰り広げるなどした。しかし、いわゆる「名士」層を主としていた同郷団体は、底辺労働者の同郷者に対する否定的な認識を内在化していたこともあり、広範な層の同郷者を糾合することもなく、結局は1972年の沖縄返還まで、抜本的な処遇改善を達成するには至らなかったといえる。
著者
木本 浩一 アルン ダス 辰己 佳寿子
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.170, 2011 (Released:2011-05-24)

1.はじめに インド環境森林省は、2010年8月31日、ゾウの保護に関する包括的な報告書Gajah-Securing the Future for Elephants in Indiaを発表した。この報告書は、ゾウに「国家遺産動物 National heritage animal」としての地位を与えるもので、国際地理学連合(IGU)でも最新ニュースとして取り上げられた(2010年11月7日、HPにアップ)。 インドにおける森林経営が大きな転機を迎えたのは、1990年代のことであった(木本:2008)。いわゆる住民参加型森林経営の一種として導入された「共同森林経営Joint Forest Management (JFM)」は、本格導入から10年を迎えようとしている地域が多く、ようやく実際に住民と森林局とがどのように利益配分を行うのかといった「成果」についての議論や活動が始まろうとしている。 現在、インドの森林地域では、以上の他に、都市化や農民のよる入植、ホットスポットの指定など、さまざまな事象がみられる。ただし、ここで注意しなければならないことは、個々のイシューや事象を「地域」という枠組みでみていかない限り、その評価が難しいということである。つまり、先に触れたゾウ問題は、森林をゾウに特化・純化した地域として認定してしまうために、そのことに付随する多くの問題を現象させてきた。また、各種の線引きが為される中で、そもそも森林とは何か、という基本的な問題が喫緊の課題として噴出してくることになった。 2.研究の目的と方法 以上を踏まえ、本報告では、植民地化や独立後の工業政策のもとで実施された森林伐採とは異なる、農民による森林開発の実際について、カルナータカ州マイソール県フンスール郡周辺地域を対象として、検討したい。 農民の入植、開発には2つのタイプがあり、まず遠方から富裕な農民が入植する場合と、次に周辺的な貧しい農民が開拓する場合とにわけられる。
著者
西井 稜子 松岡 憲知
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.155, 2011 (Released:2011-05-24)

1.はじめに 大起伏山地の中~上部斜面には,山体の重力性変形によって形成されたと考えられる多重化した稜線と凹地列からなる地形がしばしば認められ,二重山稜や多重山稜と呼ばれている.現在,稜線上で目にする二重山稜の多くは,測量精度を超えるほど動いていないため,その動態については依然不明な点が多い.最近,南アルプスアレ沢崩壊地周縁では,年間約0.6 mの速度で開きつつある特異な二重山稜の存在が明らかになった(Nishii and Matsuoka, 2010). 本発表では,4年間の観測データと空中写真判読に基づいて,この二重山稜の経年変動について報告する. 2.調査地域と方法 南アルプス北部の間ノ岳(標高3189 m)南東斜面に位置するアレ沢崩壊地は,比高400 m, 平均傾斜40°の急峻な斜面を示す.崩壊地内部では,2004年5月の融雪期に大規模な崩壊が発生した.一帯の年降水量は約2200 mmで,11~6月まで積雪に覆われる.この崩壊地周縁において,2006年10月~2010年10月の無積雪期を中心に,トータルステーションとRTK-GPS測量を組み合わせた斜面の動態観測を行った.さらに,二重山稜の動きを可視化するため,2008年5月から自動撮影カメラ(KADEC-EYE_II_)を設置し,一日間隔で撮影を行った.また,測量実施前の二重山稜の動きを推定するため,3時期(1976, 2003, 2008年)の空中写真判読,2004年崩壊前の現地写真との比較を行った. 3.結果と考察 測量結果から,2地点(A, B)の二重山稜(崖)が急速に広がっていることが明らかになった(図1A, B).崖より谷側斜面では,地表面が緩んでいることを示す新鮮なテンションクラックを数多く伴いつつも,形状を維持し全体的に低下している.A地点では,4年間の総移動量は290 cmに及ぶ.その動きは,冬期に遅く(約1 mm/日),夏期に速い(約3.5 mm/日)という季節変動を伴いながら,年平均の日移動速度では,1.5 mm/日(初年度)から2.7 mm/日(最終年度)へと加速した.広がりつつある二重山稜A, Bは,現在ほど明瞭な崖ではないが1976年には既に存在していた.また,B地点の崖高は,1984年と比較して約1 m増加した.A地点における総移動量の3~4割は,2004年の崩壊によって側方の支持を失った斜面の方向(北東)への動きであることから,2004年の岩盤崩壊以降,急速度で崖が広がり始めたと推定される.観測された二重山稜の動きは,2004年崩壊の応力開放によって新たに斜面の不安定化が生じたことを示しており,今後再び発生するであろう深層崩壊の前兆を示すと考えられる. 引用文献 Nishii, R., Matsuoka, N. 2010. Monitoring rapid head scarp movement in an alpine rockslide. Engineering Geology 115: 49–57.
著者
杉原 重夫
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.83, 2011 (Released:2011-05-24)

日本各地で産出する黒曜石(黒曜岩)は、石器時代における石材資源として貴重な存在であった。これらの黒曜石製遺物の産地推定は、顕微鏡による晶子形態の観察、フィッション・トラック年代測定、機器中性子放射化分析(INAA)、蛍光X線装置(WDX・EDX)やエレクトロンプルーブX線マイクロアナライザー(EPMA)による元素分析など、さまざまな方法が用いられている。なかでもエネルギー分散型蛍光X線分析装置(EDX)を用いた産地分析は、多数の試料を非破壊且つ短時間内に処理できることから、現在では主流な方法である。 明治大学文化財研究施設では、日本全国の黒曜石原産地の調査成果を基に、各地の石器時代遺跡から出土した黒曜石製遺物の原産地推定を行ってきた。これまでに原産地推定の対象にしたのは250遺跡、遺物数は約30、000点に上る。その結果、北海道白滝・置戸産の黒曜石が樺太の遺跡から、霧ヶ峰産黒曜石が青森県山内丸山遺跡から、神津島産黒曜石が三重県や能登半島の遺跡で利用された例など、広域にわたる黒曜石の原産地―消費地の関係が明らかになってきた。今回は関東各地の旧石器時代~縄文時代遺跡の黒曜石原産地推定データを基に、海洋運搬の手法を効果的に利用したと想定される伊豆諸島・神津島産黒曜石の流通経路や流通範囲の変遷について、海洋環境の変化との関係から考察する。 1) 日本列島に人類が渡来した酸素同位体ステージ3(MIS3)の当初から、神津島産黒曜石は石器石材として使用された。MIS2~1の低海面期の東京湾は陸化しており、神津島産黒曜石については相模湾を北上し相模野台地から武蔵野台地へ至る流通ルートが推定される。 2) 縄文時代早期~前期~中期初頭は縄文海進最盛期と前後し、伊豆大島を中継地とする相模湾北上ルート・東京湾北上ルート・太平洋沿岸ルートが海上経路として開拓されたと推定できる。神津島の南方にある御蔵島や八丈島も神津島産黒曜石の流通圏に含まれる。 3) 縄文時代中期は神津島産黒曜石の流通が最も活発になり、伊豆半島・南関東地方の遺跡では高い比率で利用される。また、古鬼怒湾周辺地域の遺跡からも、太平洋沿岸ルートより搬入したと推定される神津島産黒曜石の利用が卓越する。伊豆半島東部の見高段間遺跡は伊豆半島を縦断して駿河湾東部沿岸地方に至る黒曜石の流通ルートとして重要な中継地であったと推察できる。 4) 縄文時代後期~晩期になると、伊豆諸島では依然として神津島産の利用比率が高い状態が維持されるものの、その他の地域では利用比率が低下し、相模湾北上ルート・東京湾北上ルートに限定される。このことは伊豆大島・下高洞遺跡における神津島産黒曜石の時期別利用比率の変化からも認められる。 神津島産黒曜石の利用を考えた場合、伊豆大島が神津島産黒曜石の流通ルート上において重要な位置を占めていたと推定できる。このような黒曜石の流通には海洋環境に適応した運搬手段(舟・筏等)が利用されたと考えられる。今後は全黒曜石製遺物を対象とした分析や新たな遺跡発掘調査により、神津島産黒曜石の流通圏について議論を深めたい。
著者
米村 創
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.91, 2011 (Released:2011-05-24)

沖縄にはトンビャン(桐板)と呼ばれる植物性の原材料で織られた織物がある。本研究では、トンビャンの原材料である植物について、沖縄・中国の貿易、貿易品の流通、そして中国での農作物生産物からその解明を試みることを目的としている。 トンビャンは古く琉球王国時代から中国の福建省福州からの貿易品として輸入されていたという伝承が残っている。トンビャンは糸で輸入されることも多く、輸入された糸は沖縄の織物生産者の手によって織られ、高貴な身分の者を筆頭に一般庶民の間でも夏の衣服として広く利用されていた。トンビャンの織物生産は沖縄の統計や伝承によれば、昭和10年代ころまで生産されていたが、その後は中国からの輸入が途絶え、原材料が無くなった沖縄地域でトンビャンが織られることはなくなった。原材料である植物の種類が不明であることより、現在では「幻の織物」として沖縄では位置づけられている。その原材料が竜舌蘭の一種ではないかと一部の研究者の間では説明されているが、未だに不明なままであると言わざるを得ない。 台湾や海南島(海南省)では明治・大正・昭和の時期にパイナップル(鳳梨)繊維を織物用として広範囲に特用農産物として栽培し、外国や内国へ輸出(移出)していたことが当時の資料や統計から明らかとなっている。主に中国大陸沿岸地域に輸出(移出)していたが、輸出先で鳳梨繊維の名称が麻類の名称へ変化することが多く、中国大陸沿岸地域での鳳梨繊維利用の確認が困難であった。しかし、福州港、また福州の周辺地域にも鳳梨繊維が流通していることが明らかとなり、福州で購入したという沖縄のトンビャンはこの鳳梨繊維で生産されたと考えることができる。見た目上、鳳梨繊維と沖縄のトンビャンの繊維が類似していること、台湾などにおける鳳梨繊維の外国への輸出供給量の減少時期と、沖縄におけるトンビャン生産量の減少時期が一致していることもそのことを裏付けている。つまり、トンビャンの原材料は主にパイナップルである可能性を指摘できる。図は予想されるトンビャンの原材料から消費地までの流通経路である。 沖縄の植物繊維の織物の一つに芭蕉布というものがある。芭蕉布などは沖縄で原材料である芭蕉を沖縄で栽培し、沖縄で織る織物であるが、一方トンビャンは輸入品のみの織物であることから、元々その織物を外国に求めていた貿易品であったと推察される。
著者
矢嶋 巌 小坂 祐貴
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.189, 2011 (Released:2011-05-24)

近年、日本では地方都市の高齢者を中心にフードデザート(以下FDsと略記)問題が顕在化している。FDs問題とは、自家用車や公共交通機関を利用することが困難な社会的弱者における、生鮮食料品店への近接性の低下がもたらす食料問題である(岩間ほか2009)。日本におけるFDs問題は1990年代後半から地方都市を中心に買い物難民、買い物弱者として発生が報告されている。FDs問題が深刻な問題として認識されてきたのはごく最近になってのことであり、研究報告も多くはなく、衛星都市を事例とした研究は現時点では確認されない。 本研究の目的は、京阪神大都市圏に含まれる衛星都市である兵庫県加古川市を対象にFDs問題の事例研究を行い、同市における高齢者の買い物環境について考察し、FDs問題の解決策について模索することである。同市は、1990年ごろに大型店が次々と出店した地域で、中小規模のスーパーが受けた影響は大きい。また1960年代から1990年代半ばまで衛星都市として急激に人口が増加し、その時期に移り住んだ年齢層が一定であることから、現在急速に高齢化が進んでおり、中小小売業の衰退と高齢化というFDsの条件からも研究対象地域として適している。研究方法は、GISを用いて生鮮食料品店への近接性と高齢者の居住状況からFDsエリアを想定し、聞き取り調査により高齢者の買い物状況や地域特性について調査した。特に買い物難民の条件とされる経済・健康・孤独の3つの視点を重視した。今回は、山陽本線東加古川駅北側のA地区、加古川線厄神駅北西約2kmに位置するB地区の2つの住宅地区に居住する高齢者を対象に聞き取り調査を行った。 本研究によるFDsエリアに居住する高齢者への聞き取り調査の結果、経済・健康・孤独の全ての条件にあてはまる高齢者を見つけ出すことはできなかった。しかしながら、いずれかの条件にあてはまる人は多くみられた。A地区では、5年ほど前に地区の中心にあったスーパーが閉店し、スーパーは住宅団地の周辺部に限られるようになり、身体的に弱っている高齢者の買い物環境は悪化傾向にある。聞き取り調査によると、閉店したスーパーは、生鮮食料品の供給だけでなく、地域のコミュニティの場にもなっていたという。単なる生鮮食料品店の復活のみならずコミュニティの場としての復活を望む声も聞かれた。 B地区では、5年ほど前に地区唯一の食品スーパーが閉店してから2年間FDsの状態であったことが明らかになった。現在では、同じ場所に別のスーパーが出店しているが、住民への聞き取り調査によると経営状態は良くはないという。このままでは以前のようにつぶれてしまうのではないかと懸念する声も多く聞かれた。B地区のようにスーパー経営が難しい地区については、社会福祉サービスとして行政による最低限の生鮮食料品の供給体制整備が必要となっているのかもしれない。 今後高齢化が急速に進むと予想される加古川市においてFDs問題はいっそう深刻化していくものと考えられる。また、高齢化問題は日本全国において共通する傾向であり、今後もさまざまな地域でこういった問題が見られるであろう。FDs問題の根本的な解決のために、今後も様々な地域における研究蓄積が急がれる。 <参考文献> 岩間信之・田中耕市・佐々木緑・駒木伸比古・齋藤幸生2009. 地方都市在住高齢者の「食」を巡る生活環境の悪化とフードデザート問題―茨城県水戸市を事例として―. 人文地理61-(2): 29-45.
著者
池田 敦 岩花 剛 末吉 哲雄 西井 稜子 原田 鉱一郎 新井 秀典
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.229, 2011 (Released:2011-05-24)

はじめに 富士山は、温暖な中緯度に位置する日本にありながら、その標高ゆえに山頂部の年平均気温が-6℃前後という日本では特異な寒冷環境にある。一方で活火山でもあり約100年前までは山頂部で噴気活動が記録されている。富士山は現在、山頂付近に永久凍土がまとまって存在する本州でおそらく唯一の場所であるが、そのことは大気側の低温条件と地盤側の高温条件の複雑なバランスを反映していると考えられる。しかし富士山山頂部の地温は、これまでほぼ1mより浅い位置でしか観測されておらず、実際に永久凍土に関する深部の情報は得られていなかった。本稿では2008年夏に山頂部に設置した深さ3mの観測孔2本の地温変化を中心に論じ、富士山の地温を支配する要因について2年間の観測で明らかになったことを紹介する。 調査地点・調査方法 火口周囲の比較的平坦な2ヵ所(標高3690m前後)の火山砂礫層に深さ約3mの観測孔を掘削し、データロガーを用いて地温を観測した。1ヵ所(観測孔#1)は地形的な凸部で積雪深が50cmを超える期間はごく短い。もう1ヵ所(観測孔#2)は吹きだまりで年間8ヵ月以上も積雪に覆われている。観測孔#1の脇では気温、降雨等の気象要素も観測した。また、山頂部6地点、北斜面8地点、南斜面3地点で、データロガーを用いて表層(深さ0.5~1mまで)の地温を観測した。 結果と考察 観測孔#1、#2ともに先行研究の想定に反し、全深度が融解することが確認された。観測孔#1では、深さ2.5m以下の地温が年間を通じて0℃からそれをわずかに上回る値で推移し、永久凍土が存在するかどうかの境界に位置した。とくに降雨に伴い地温が急上昇する特徴的な関係が見出された。地盤の昇温は一般に伝導によるが、富士山の透水性のよい砂礫層では降雨浸透による熱伝達の効果が大きいために融解が進み、永久凍土の発達が抑制されていた。観測孔#2では、観測開始当初、地表面付近以外で2~5℃という高い値を示していた地温が、年間を通じて低下し、2009年秋の1℃にも達しない昇温のあと、翌年も低い値で推移したが、2010年夏に急上昇した。積雪が冬季は地温の低下を、夏季は地温の上昇を抑制し、積雪条件が毎年異なるため、年による地温変化が大きい。風衝地と比べると地温が高く、観測孔より深部に永久凍土が存在する可能性はほとんどなかった。 その他の地温プロファイルも比較検討すると、積雪の溜まりやすさと透水性のよさが富士山において地温を顕著に高く保っていた。山頂部でも永久凍土が確認できない地点があることから、富士山では斜面方位・傾斜と微起伏が地表面における日射量や風向風速を不均一にし、さらにそれらが積雪分布や土壌水分の空間分布を著しく不均一にし、透水性の不均一性も相まって、地温がコントロールされており、永久凍土分布がパッチ状であると予想できた。今後は各要素間の関係を定量化し、永久凍土分布を見積もるなど研究を多方面へ発展させる予定である。
著者
塚本 僚平
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.12, 2011 (Released:2011-05-24)

1.はじめに 近年の地場産業研究においては,伝統的地場産業や都市型地場産業に関する蓄積がみられた。しかし,その一方で,地方部において日用消費財(伝統性が強調されない製品)を生産する産地(地方型・現代型の産地)が研究対象としてとり上げられることは少なかった。こうした産地は,労賃の高騰や輸入品との競合といった各種の環境変化の影響を受けやすいため,そうした問題に関する様々な対策が講じられている。本報告では,地方型・現代型の産地である今治タオル産地をとり上げ,主に1980年代以降に起こった産地の変化を捉え,分析する。 2.タオル製造業の動向と今治タオル産地 日本国内には,今治(愛媛県)と泉州(大阪府)の二大タオル産地があり,国内生産額の約8割が両産地によって占められている。このうち,今治タオル産地では,先染先晒と呼ばれる製法によって,細かな模様が施された高級タオル(それらの多くは,高級ファッションブランドのOEM製品)やタオルケットが多く生産されてきた。また,泉州タオル産地では,後染後晒と呼ばれる製法によって,白タオルや企業の名入れタオルが多く生産されてきた。 今治では,1984年からタオル生産がはじめられ,その後,度重なる機器の革新を背景に,高級タオルを生産する産地へと成長していった。1955年に生産額が国内1位になった後も成長を続け,1985年にピーク(816億円)を迎えた。また,その後も,1991年まで700億円以上の生産額を維持し続けるなど,国内最大の産地として今日まで維持されてきた。 3.産地の縮小と産地の対応 国内のタオル産地は,1990年代前半までは,順調な成長を遂げてきたが,近年では,新興国からの輸入品に押され,苦戦を強いられている。今治タオル産地も例外ではなく,2009年時点での企業数は135社(対ピーク時,73%減),2,652人(同,76%減),生産量9,381t(同,81%減),生産額133億円(同,84%減)となっている。 こうした事態を受け,産地内では生産工程の海外移転や一貫化,産地ブランド化・自社ブランド化といった動きが起こった。このうち,生産工程の海外移転・一貫化については,一部の有力企業に限ってみられる現象である。これは,ブランドのOEM委託先が,海外へとシフトし始めたことへの対応策として採られたものであり,コスト低減のほか,リードタイムの短縮,品質向上等も目的としている。 一方の産地ブランド化・自社ブランド化は,従来のOEM生産を主体とした問屋依存型の生産構造からの脱却を狙うものである。産地ブランド化については,四国タオル工業組合が主体となって事業を推進し,ブランドマーク・ロゴの制定から品質基準の作成,新製品開発,メディアプロモーション等が行われてきた。結果,産地の知名度の高まりや,流通経路の多様化といった効果がみられ,そうした流れのなかで,自社ブランドを展開する企業も増加してきた。 4.おわりに 近年の今治タオル産地では,従来からの産地内分業が維持される一方で,一部の企業においては,生産工程の海外移転や一貫化といった変化が確認された。このうち,海外生産については,逆輸入品の流入による市場の圧迫や産地ブランドへの影響を懸念する声が聞かれた。また,当該産地における産地ブランド化事業は,成功事例の一つといえるが,産地ブランドに対する認識には企業間での温度差がみられた。
著者
小田 匡保
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.107, 2011 (Released:2011-05-24)

1.はじめに 2004年に刊行された村上春樹『アフターダーク』は、女子大学生の浅井マリが夜の街でいろいろな人に出会う、深夜の数時間の物語である。『アフターダーク』は深夜の都会を舞台にした小説で、都市の具体的描写もあり、地理的な分析が可能である。本発表においては、『アフターダーク』の舞台となる街を主に空間的観点から読み解き、深夜の街における「闇」との出会いについて考察したい。 『アフターダーク』に関しては、これまでにも多くの論考・論評がある。東京文学散歩のサイト「東京紅團」は作品中の施設の現地比定を試みているが、納得のいくものではない。神山(2008)は村上作品の空間的特徴を検討し示唆に富むが、『アフターダーク』については、テレビ画面内の部屋(異界)に関心があり、本稿の分析とは重ならない。 2.登場人物と「色」 「景観」を広く解釈して、「色」についても考察する。登場人物の服装や持ち物の色は、マリ、高橋、エリ、カオル、白川、中国人娼婦、中国人組織の男ら、人物の性格に応じてかなり使い分けがされている。一見対照的に見える白川と主人公マリの共通性はこれまでも別の面で指摘されているが、服装やカバンの色にもうかがえる。 3.場所の設定 作品全体の舞台は渋谷と思われるが、村上(2005)は「架空の街」と述べている。発表者は、渋谷を念頭に置いた架空の場所が設定されていると考える(以下〈渋谷〉と表記)。登場人物の自宅の位置などを地図化すると、人物の性格により、〈渋谷〉と自宅との距離や、〈渋谷〉からの方向性などに違いがあることが明らかになる。街内部の施設の位置についても検討し、ラブホテルやファミレス、公園、コンビニなどの配置について地図化を試みる。 4.「闇」との出会い 他の村上作品と同様、『アフターダーク』も異界との接触がテーマの1つである。中国人組織との6回の接触を分析すると、特定の場所だけでなく、どこでも「闇」の世界と出会う可能性があることが示されている。また、深夜の街全体が異界としても描かれている。 本発表の詳細は、小田(2011)で発表予定である。 文献 小田匡保 2011. 村上春樹『アフターダーク』の空間的読解―「闇」と出会う場所としての深夜の街─. 駒澤大学文学部研究紀要 69(予定). 神山眞理 2008. 物語に表現される空間の図学的考察─村上春樹の小説を示例として─. (日本大学)国際関係学部研究年報 29: 65-82. 東京紅團. 《村上春樹の世界》afterdarkを歩く.(http://www.tokyo-kurenaidan.com/haruki-afterdark.htm) 村上春樹 2005. ロング・インタビュー:「アフターダーク」をめぐって. 文學界 59(4):172-193.
著者
藤井 紘司
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.86, 2011 (Released:2011-05-24)

研究の目的 本報告では、琉球弧のもっとも南に位置する八重山諸島を対象にして、「高い島」と「低い島」とで構成されたこの海域世界における19世紀末期から20世紀初頭における島嶼間交流を復原することに目的がある。島嶼間交流の研究は、おもに異なる生業経済を持った主体間の交流に焦点を絞ってきた。しかし、本報告は、歴史的に「低い島」の住民が「高い島」の生態環境を利用し、耕作地や水源地を所有してきた事例を通して、海上を越える埋め込まれた生業適応のあり方について分析する。なお、本報告では、この海上を越える生業適応を「通耕」という語彙を用いて、森林資源や飲料水の獲得といった行為を含めて使用する。 研究の方法と結果 本報告では「高い島」への通耕経験を跡付ける史料として、竹富町役場の所有する土地台帳とそれに付随する地籍図を用いた。また、地籍データの欠如した箇所は、税務課に保管されていた和紙製の「旧公図」を適宜用いて復原した。 まず、土地台帳に関しては、記載項目を相互に照らし合わせ、合計2083筆の土地について、その所有者の属する大字(所有質取主住所)を1筆ごとに特定し、これを地籍図上で彩色表示した。本報告では、これを「土地の所有権者住所大字分類」と名付けている。 さらに、統計データとしては、1885(明治18)年当時の八重山諸島に位置する村落の実態をまとめた田代安定(1857-1928)の復命第一書類(国文学研究資料館所蔵)の第28冊「八重山島管内西表嶋仲間村巡檢統計誌」と第35冊「八重山島管内宮良間切鳩間島巡檢統計誌」とを使用した。1892(明治25)年時の「沖繩縣八重山嶋統計一覽略表」(国立国会図書館所蔵)と併せて、当時の「高い島」と「低い島」との関係を検討するためには貴重な史料である。 また、同時代史料として、「低い島」の頭職に就いていた宮良當整(1863-1945)の記した日誌や備忘録、南島踏査を行った笹森儀助(1845-1915)の『南島探驗』(1894年)を参照した。さらに、視覚的な史料としては、1890年代の前半に作成されたと考えられる「八重山古地図」(沖縄県立図書館所蔵)と「八重山蔵元絵師の画稿」(石垣市立八重山博物館所蔵)とを使用した。 これらの史料と、土地台帳とそれに付随する地籍図、および明治30年代の状況にふれた「宮良殿内文書」の分析、また聞き書きによるフィールド調査や伝承されてきた古謡の分析をもとに、八重山諸島における「高い島」と「低い島」との交流史を復原した。 これらの調査によって、本報告の対象とした事例には、狭域集中型の通耕と広域分散型の通耕の2つの形態があり、また、「低い島」の住民は、「高い島」に水を得るための「池沼」や、通耕先で寝泊まりするための「宅地」を村(字)持ちで所有していたことをあきらかにした。 1904(明治37)年の「琉球新報」には、本報告の対象とした「低い島」の住民による刳舟の操縦技術の卓越さを記した記事があり、おそらく、通耕と操舟の技術とは、歴史的に併行し成長してきたといえる。「高い島」と「低い島」とで構成されたこれらの海域世界は、このような「海上の道」を維持することによって、島嶼環境に規定された制約性に対応し、埋め込まれた生業適応という現象を発生させてきたのである。
著者
淺野 敏久
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.178, 2011 (Released:2011-05-24)

1.はじめに 韓国で大きな環境問題論争を引き起こしたセマングムとシファの干潟開発に関して,報告者らは2003年より,断続的に利害関係者等への調査を行ってきた。その結果の一部を浅野ほか(2009)として報告したが,今回の報告では,そこでも述べたようにセマングム干拓反対運動が,堤防閉め切り直後から,急速に縮小したことに関連して,日本の状況とは対照的に異なる「その後」の状況を,同様に環境悪化が問題になったシファ開発の現状とあわせて紹介することにしたい。 2.シファ湖の「その後」 韓国の西海岸は干潟が発達し,1960年代から政府によって積極的に干拓事業が進められてきた。そこでは食料増産,住宅開発,産業団地開発などが行われてきた。一方で,環境への関心の高まり,民主化後の環境市民運動の隆盛などにより,大規模な自然改変をともなう開発に対して環境面から問題視する動きもみられる。 シファ干拓は,干拓事業が環境への悪影響を及ぼすことを人々に知らしめる転機になった開発事業である。農地や工業団地開発のために,約1.3万haの干潟を干拓し,約4千haの海面を閉め切って淡水湖にする計画が立案された。1994年までに防潮堤が建設され,湖は海から閉め切られた。水門が閉められると湖の水質が急速に悪化し,農業用水源として使えないばかりでなく,悪臭被害や沿岸農地に風の塩害をもたらすなどした。結局,淡水化による水資源開発をあきらめ,水門を開いて海水を流入させることになった。 しかし,シファ湖では,水資源開発を断念し水門を開いたという話では終わらず,海水流通のために堤防を開削し,そこに潮力発電施設を建設するという計画がたてられ,実際に建設された。さらに,干拓地には風力発電施設の建設も検討され,当該地域の干拓計画は,自然エネルギーを用いる「環境に配慮した持続的開発」として,工業団地開発,都市開発,リゾート開発が進められつつある。大規模開発による干潟の環境問題震源地は,エコロジカルな産業開発予定地という場所になっている。 3.セマングムの「その後」 セマングム干拓は1991年に着工された。33kmの防潮堤を築き,その内側に約3万haの新しい土地と1万haの淡水湖をつくる計画で,当初は農地開発を目的としていた。シファ湖の環境悪化問題が社会的関心をひいたことで,セマングム干拓も大きな社会問題となった。地元の漁業者や市民にとどまらず,全国レベルで環境団体その他市民団体や研究者らが計画への疑念を表明し,反対運動が拡大した。反対運動のピークは2003年の三歩一拝行進が行われた頃で,反対派と事業推進派のそれぞれの示威活動が活発に繰り返された。2006年には堤防がつながり広大な干潟は外海から遮断されてしまった。非常に活発であった全国的な反対運動は,その後,急速に縮小してしまった(関心と運動資源を他の開発事業に向けてしまった)。 反対派の運動が縮小してしまうと,推進派の一極であった全羅北道は国への開発推進圧力を強めた。2007年にはセマングム開発を推進するためのセマングム特別法が制定され,2010年には防潮堤が完成するとともに,セマングム総合開発計画が確定した。そもそもは大規模な農業用地を開発する干拓事業であったセマングム開発は,その事業の中心を工業・都市開発および観光開発を行う内容に変わった。ここでも再生可能エネルギーを利用した親環境的な「持続可能開発」を行うことが志向されている。 4.おわりに 2010年末に福岡高裁判決を受け,諫早湾干拓事業地での閉め切り堤防の開門調査が行われることになった。セマングムと諫早湾では水門の閉め切り・開放を求めて,同じ時期に裁判が行われ,いずれも原告勝訴の判決が出され,その後の展開が注目された。日韓の運動関係者等の相互訪問や連携も活発になり,両者は対比して議論されることも多かった。しかし,わずか数年しか経っていないのに,諫早では地道な運動が継続され,開門調査にまでつながりそうなのに対して,セマングムでは開発への反対運動はほぼ影を潜め,むしろ逆にセマングム開発は,21世紀に誇る地球環境に優しい「韓国の緑の希望」と喧伝されるに至っている。この差がなぜ生じるのか,この差がもつ意味は何なのか,議論を深めることが望まれる。ただし,今回の報告では韓国の状況を報告するにとどめ,論点の洗い出しや着眼点の整理を行いたい。
著者
伊藤 徹哉 飯嶋 曜子 小原 規宏 小林 浩二 イリエバ マルガリータ カザコフ ボリス
出版者
公益社団法人 日本地理学会
雑誌
日本地理学会発表要旨集 2011年度日本地理学会春季学術大会
巻号頁・発行日
pp.44, 2011 (Released:2011-05-24)

I. はじめに 1989年以降のいわゆる「東欧革命」を通じて,中・東欧各国は経済的には市場経済へと移行し,価格の自由化や国営企業の民営化が推し進められた。これに伴って物不足の解消や物価上昇といった経済的変化や失業者の増加などの社会的変化が生じ,また地域的な経済格差も拡大していった。農業経済を中心にする地域,とくに大都市から遠距離の農村では工業やサービス業の大規模な開発が困難であり,これらの地域は後進地域として社会的・経済的課題を抱えていることが指摘されている。 研究対象のブルガリアでは,現在も就業構造において農業経済への依存がみられる一方,「東欧革命」以降,首都ソフィアとその近郊をはじめとする大都市での経済開発も進展しており,農業地域と大都市との経済格差が拡大しつつある。本研究は農業経済を基盤とするEU新規加盟国のブルガリアを対象として,国内の地域的な経済発展における格差を国内総生産(GDP)と平均年間賃金に基づいて明らかにし,人口分布や人口移動などの社会的特性と,産業別就業者数と海外からの直接投資額などの経済的特性から経済格差の背景を考察することを目的とする。分析に用いた資料は,2008年9月,2009年9月および2010年8~9月の現地調査によって得られたブルガリア国立統計研究所 (National Statistical Institute) が刊行した統計年鑑や統計資料である。 II. 地域的経済格差 国内6つの計画地域Planning RegionごとのGDPに基づいて地域経済の変化を分析した。その結果,首都・ソフィアを含む南西部では活発な経済活動が認められる一方,その他の地域,とくに北西部と北中央部が経済的に低迷しており,しかも1999年以降においては南西部とその他の地域との差が拡大していた。 また,国内に28設置されているDistrict(以下,県)ごとの平均年間賃金(以下,年間賃金)に基づいて経済上の地域的差違を考察する。まず,全国平均の年間賃金は2009年において7,309BGN(レバ)であり,2005年における数値(3,885BGN)と比較すると,4年間で約1.9倍上昇した。県別にみると,南西部の首都・ソフィアの賃金水準が極めて高く,2009年では全国第一位の9,913BGNに達している。この値は全国平均(7,309BGN)の約1.4倍であり,全国第二位(7,696BGN)と第三位(7,602BGN)の県と比較しても突出している。首都・ソフィアの年間賃金は,もともと高水準であったが,近年さらに上昇している。また首都を取り囲むように広がるソフィア県の年間賃金も7,026BGNと全国平均には届かないものの,相対的に高い水準となっている。このように首都・ソフィアとその周辺部の一部では所得水準がもともと高く,それが近年さらに上昇している。一方,北西部と北中央部での年間賃金の水準は低く,2009年における年間賃金の最下位県の値を首都・ソフィアと比較すると,その2分の1の水準にとどまる。また2005年からの変化も小さく,賃金水準が低い状態におかれている。 III. おわりに-地域的経済格差の社会・経済的背景 地域的な経済格差の背景を人口分布や人口移動などの社会的特性と,産業別就業者数と海外からの直接投資額などの経済的特性から考察する。ブルガリアにおける地域的な経済格差の背景として,次の3要因との関連を指摘できる。第一に人口集中に起因する首都・ソフィアの消費市場と労働市場としての突出である。人口は首都・ソフィアが含まれる南西部に集中しており,2006年において総人口(769.9万)の27.5%を占める211.8万が南西部に居住する。とくに首都・ソフィアの人口規模は大きく,総人口の16%を占めている。第二に首都・ソフィアへの企業や主要施設集中に起因する資本集中であり,首都・ソフィアでの事業所数や就業者数の多さや,海外からの直接投資の集中傾向などが認められた。第三に農村と都市部での就業構造の差違と関連した農村地域での失業率の高さと首都への人口流出であり,賃金水準の高い業種である専門サービス業をはじめとする部門が首都や一部の大都市に集中しているため,農村からそれら都市への人口流出が著しい。加えて,農村でも耕地面積の拡大や機械化を通じた経営効率の向上が図られており,余剰人口の都市部への移動を加速している。