著者
西成 典久
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 (ISSN:09160647)
巻号頁・発行日
vol.40.3, pp.241-246, 2005-10-25 (Released:2017-07-01)
参考文献数
14

本論文では、都市計画思想としての“広場”に着目する。 1969年新宿西口広場は人々が集まり互いに交歓し、社会にむけて情報発信する場となった。これは、計画側にとって予期しえない出来事であった。警察が西口広場を西口通路と名称変更することで、結果的に人々の行為を規制した。これら一連の出来事が当時の新聞紙面を賑わした。これら西口広場での人々の行為や議論を分析することで、当時の都市における“広場”について以下3つの側面が浮き彫りとなった。 1)「西口広場」という名称を「西口通路」と変更することは、西口駅前は通行のための空間である、という単一機能を明示し管理することであった。名称変更がかえって、機能を明確に捉えきれないという“広場”の側面を照射したことになる。 2)公園との対比において、“広場”は不特定多数の人々が離合集散する(交通の結節点)という側面が照射された。当時はそれが駅前にあって公園にはない性質であることが浮き彫りとなった。 3)日比谷公園での集会の失敗を通じて、“広場”が施設化され管理された既成の空間ではなく、集まった人々の自発的な行為によってはじめて意味を持つという側面が浮き彫りとなった。
著者
西成 典久 斎藤 潮
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 (ISSN:09160647)
巻号頁・発行日
vol.39.3, pp.907-912, 2004-10-25 (Released:2017-08-02)
参考文献数
26
被引用文献数
1

歌舞伎町及びコマ劇前広場は戦災復興期に石川栄耀によって設計された。本研究の目的は、石川の言説とコマ劇前広場及びその周辺空間との関連を精査することにより、石川の広場設計思想およびコマ劇前広場創出の背景を明らかにすることである。結論は以下の3点である。1)石川は日本に広場がないことを指摘し、「広場は民主社会の表現であり、文化の進んだ都市が持っている」としたが、広場の社会的機能(市民交歓)においては、西欧の広場と日本の商店街に共通性があることを見出している。また、将来的に日本の市民交歓は広場の形態に移ると考え、コマ劇前広場はその為の布石であったと考えられる。 2)石川は計画案において自身の設計論を広場に反映したが、 GHQの建築統制により計画案が頓挫し、広場に盛り込まれた石川の設計手法(Terminal vista)は実施案において実現されなかった。3)広場を導入するにあたり、石川は単純に西欧広場の形態を模倣したわけではなく、広幅員街路のネットワークの終端部に広場を布置することにより、歌舞伎町の土地利用や街路ネットワークと有機的に関係した広場を歌舞伎町において実現しようとした、と考えられる。
著者
西成 典久 齋藤 潮
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画. 別冊, 都市計画論文集 = City planning review. Special issue, Papers on city planning (ISSN:09131280)
巻号頁・発行日
no.39, pp.907-912, 2004-10-25
参考文献数
23
被引用文献数
1 1

歌舞伎町及びコマ劇前広場は戦災復興期に石川栄耀によって設計された。本研究の目的は、石川の言説とコマ劇前広場及びその周辺空間との関連を精査することにより、石川の広場設計思想およびコマ劇前広場創出の背景を明らかにすることである。結論は以下の3点である。1)石川は日本に広場がないことを指摘し、「広場は民主社会の表現であり、文化の進んだ都市が持っている」としたが、広場の社会的機能(市民交歓)においては、西欧の広場と日本の商店街に共通性があることを見出している。また、将来的に日本の市民交歓は広場の形態に移ると考え、コマ劇前広場はその為の布石であったと考えられる。 2)石川は計画案において自身の設計論を広場に反映したが、 GHQの建築統制により計画案が頓挫し、広場に盛り込まれた石川の設計手法(Terminal vista)は実施案において実現されなかった。3)広場を導入するにあたり、石川は単純に西欧広場の形態を模倣したわけではなく、広幅員街路のネットワークの終端部に広場を布置することにより、歌舞伎町の土地利用や街路ネットワークと有機的に関係した広場を歌舞伎町において実現しようとした、と考えられる。
著者
西成 典久
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 (ISSN:1348284X)
巻号頁・発行日
vol.40, pp.41, 2005

本論文では、都市計画思想としての"広場"に着目する。1969年新宿西口広場は人々が集まり互いに交歓し、社会にむけて情報発信する場となった。これは、計画側にとって予期しえない出来事であった。警察が西口広場を西口通路と名称変更することで、結果的に人々の行為を規制した。これら一連の出来事が当時の新聞紙面を賑わした。これら西口広場での人々の行為や議論を分析することで、当時の都市における"広場"について以下3つの側面が浮き彫りとなった。1)「西口広場」という名称を「西口通路」と変更することは、西口駅前は通行のための空間である、という単一機能を明示し管理することであった。名称変更がかえって、機能を明確に捉えきれないという"広場"の側面を照射したことになる。2)公園との対比において、"広場"は不特定多数の人々が離合集散する(交通の結節点)という側面が照射された。当時はそれが駅前にあって公園にはない性質であることが浮き彫りとなった。3)日比谷公園での集会の失敗を通じて、"広場"が施設化され管理された既成の空間ではなく、集まった人々の自発的な行為によってはじめて意味を持つという側面が浮き彫りとなった。