著者
中川 嵩章 齋藤 潮
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集D2(土木史) (ISSN:21856532)
巻号頁・発行日
vol.77, no.1, pp.5-20, 2021 (Released:2021-01-20)
参考文献数
81
被引用文献数
1

本研究は,法定都市計画以前の愛知県豊橋における,道路整備,遊廓移転,電気軌道敷設の都市整備事業について,史料収集,文献調査を行い,それらが複合的に推進された要因を明らかにした.土地の買収,貸付として利益を見込んだ豊橋市による遊廓移転は,都市整備事業に出費した費用を都市経営として賄う戦略であったと考えられる.そして,豊橋電気株式会社の役員らを発起人とする豊橋電気軌道(1次)の出願,特許にあたっては,豊橋電気株式会社が強い影響力を持っていたと考えられる.遊廓移転によって郊外の荒れ地約20,000坪を開発し,そこへ道路を開削,電気軌道を敷設する構想の背景には,豊橋電気株式会社の電気需要創出策があった可能性を指摘し,近代都市の経営という観点から官民が連携した総合的施策展開であると論じた.
著者
西成 典久 齋藤 潮
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画. 別冊, 都市計画論文集 = City planning review. Special issue, Papers on city planning (ISSN:09131280)
巻号頁・発行日
no.39, pp.907-912, 2004-10-25
参考文献数
23
被引用文献数
1

歌舞伎町及びコマ劇前広場は戦災復興期に石川栄耀によって設計された。本研究の目的は、石川の言説とコマ劇前広場及びその周辺空間との関連を精査することにより、石川の広場設計思想およびコマ劇前広場創出の背景を明らかにすることである。結論は以下の3点である。1)石川は日本に広場がないことを指摘し、「広場は民主社会の表現であり、文化の進んだ都市が持っている」としたが、広場の社会的機能(市民交歓)においては、西欧の広場と日本の商店街に共通性があることを見出している。また、将来的に日本の市民交歓は広場の形態に移ると考え、コマ劇前広場はその為の布石であったと考えられる。 2)石川は計画案において自身の設計論を広場に反映したが、 GHQの建築統制により計画案が頓挫し、広場に盛り込まれた石川の設計手法(Terminal vista)は実施案において実現されなかった。3)広場を導入するにあたり、石川は単純に西欧広場の形態を模倣したわけではなく、広幅員街路のネットワークの終端部に広場を布置することにより、歌舞伎町の土地利用や街路ネットワークと有機的に関係した広場を歌舞伎町において実現しようとした、と考えられる。
著者
二井 昭佳 齋藤 潮
出版者
公益社団法人 土木学会
雑誌
土木学会論文集D (ISSN:18806058)
巻号頁・発行日
vol.63, no.2, pp.182-189, 2007 (Released:2007-06-20)
参考文献数
20

本論文では,海図に記載の山アテにかかわる海上地名「~出シ」を対象として,「~出シ」とその周辺におけるアテ山の地景の変化に注目し,「~出シ」を特徴付けている地景,その地景が得られる場所と海底地形の対応関係について考察した.その結果,「~出シ」はアテ山の見かけの位置関係が変化するなかで,可視⇔不可視,相接⇔乖離に挟まれてオヤ山とシタ山が関係付けられる地景の持続領域に相当し,その領域が集魚効果の高い海底隆起部とおおむね対応することを示した.また,その領域が海底隆起部の大きさに依存せずおおむね350m以下になることから,数分の移動の間に認識されやすい地景の変化の存在が「~出シ」における山アテの特徴だと指摘した.加えて「~出シ」に対応する地景を12種類に分類した.
著者
中川 貴裕 笠原 知子 齋藤 潮
出版者
公益社団法人 日本都市計画学会
雑誌
都市計画論文集 (ISSN:09160647)
巻号頁・発行日
vol.43.3, pp.535-540, 2008-10-25 (Released:2017-01-01)
参考文献数
13

横浜旧居留地である中区山下町に位置する、横浜中華街は、その隣接地区と対照的な都市景観を形成している。建物用途と敷地規模は都市景観を特徴づける基礎的な要因であり、この2地区の差異を形成していると考えられる。そこで、本研究では、両地区の空間的差異の形成過程を明らかにする。1916年から1960年における山下町の土地台帳を用いて、土地所有や敷地分割・統合の変化を追跡した。その結果、2つの事柄が2地区の空間的差異を形成したことが明らかになった。第一に、関東大震災後の土地区画整備事業である。これによって土地の分割が進んだが、現在の中華街の外側である、山下町北部の海側で見られ、ほとんどが法人所有地や官有地となった。第二に、第二次大戦後の接収を中華街が免れたことである。これによって、中華街の辺りで土地の分割と個人所有化が進んだ一方、接収を受けた隣接地区は敷地が凍結された。これによって、空間的差異の原型が形成された。