著者
菅瀬 晶子 Akiko Sugase
出版者
国立民族学博物館
雑誌
国立民族学博物館研究報告 = Bulletin of the National Museum of Ethnology (ISSN:0385180X)
巻号頁・発行日
vol.40, no.4, pp.619-652, 2016-03-31

歴史的にパレスチナと呼ばれてきた地域に建国されたユダヤ人国家イスラエルには,2 割程度のアラブ人市民が居住し,そのうち約8%をキリスト教徒が占めている。ユダヤ教徒やムスリムとは異なり,食の禁忌を持たない彼らは豚肉を食し,この地における豚肉生産・消費・流通をほぼ独占している。そのいっぽうで,豚肉食に嫌悪感を示すキリスト教徒もすくなくはない。聞き取り調査の内容からは,彼らの豚肉食嫌悪は比較的最近生じた傾向であることがわかる。そこにはムスリムやユダヤ教徒の価値観の影響もみられるが,もっとも大きな影響をおよぼしたのはイスラエルによるアラブ人市民に対する政策である。本来豚肉食は,キリスト教徒の主たる生業である農業と密接にかかわっていたが,軍政による農業の衰退や,豚肉食と密接にかかわっていた野豚猟の事実上の非合法化により,キリスト教徒の豚肉食観は大きく変化した。宗教的アイデンティティの根幹に深いかかわりを持っていた豚肉食への嫌悪感の増大は,キリスト教徒としての宗教的アイデンティティの損失をあらわしているといえる。