著者
三井 礼子
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.48, pp.103-138, 2016-12

本稿ではジョン・トーランドの反教権主義をテーマに、主要著作『秘義なきキリスト教』(1696年)と『セリーナへの手紙』(1704年)を宗教的、自然学的観点から考察し、『自由イングランド』(1701年)と『自由の擁護』(1702年)を政治的観点から考察することを目的とした。彼が何をどのように批判・論駁したのか、そして論敵からどんな批判・攻撃を受けたかを明らかにすることで、彼が迫害と弾圧のために曖昧あるいは戦略的な言葉でしか語りえなかった事柄も含めて、自由思想家あるいは理神論者という呼称が現実の社会においてどのような思想を体現していたかを示そうとした。「隷属と専制的権力の公然たる敵」であると自負するトーランドは、既成キリスト教の宗教的権力は魂不滅の教理を基盤とした聖職者による宗教の独占形態をもたらし、専制政体の国家的権力は王権神授説を基盤とした専制君主による国家の独占形態をもたらしたと主張した。この二大権力を打破するために、トーランドは、本来の宗教とは徳と神についての正しい観念から成り、このような真理を理解力にもっとも乏しい者にも容易にわかるように明らかにし、迷信的な見解と慣習を一掃することをめざすものであるにもかかわらず、異教主義に汚染されたイングランド国教会はこのような神の教えを軽んじ、理解不能な三位一体を今なお「秘義」として温存・擁護し、「秘義」信仰の強要とそれを拒む者に対する弾圧・迫害を行っていると糾弾し、本来のキリスト教の教理には理性に反するものも、理性を超えるものもないと主張する著作を公けにした。また、王政復古後にもたらされた専制政体の復活を阻止し名誉革命の原理を堅持・推進する「コモンウェルスマン」として、統治者の権力は社会から与えられたゆえに社会に対して責任を負う義務があると主張して、王権神授説と王権への絶対服従を拒絶した。さらに、魂不滅の教理に捕らわれた人々の呪縛を解くために、「死すべき人間」の真の姿を唯物論的物質論によって提示し、聖職者の術策から解放された自由で理性を備えた人間として生きることをメッセージに託した。これが自由思想家ジョン・トーランドの宗教的・国家的専制権力に対する果敢な挑戦であった。
著者
吉馴 明子
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.45, pp.105-135, 2014-03-31

本稿執筆には、二つの目的がある。第一は、古典文学に続いて植村正久が宗教思想、特に仏教をキリスト教との関わりでどのように理解しているかを明らかにすることである。 第二は、そのような「仏教・仏教者」に関する理解が、時代状況とどのような呼応関係にあるかを知ることである。この二側面を知ることを通して、我々キリスト者が負わねばならない社会的責任についても考えたい。 第一章では、教育勅語発布後の文化面での「国粋主義」に加えて、日清戦争期の国家主義の台頭を背景に描かれた「日蓮論」を紹介する。植村の日蓮論と、同年に書かれた内村鑑三の日蓮論との共通点は、世の如何なる権威にも服する事なく、自分の信心を貫く姿である。植村はそれを「剛愎」といい、内村は「狂気」というが、「鎮護国家」の面を強調する仏教者とは、二人共対照的な姿勢を示している。 第二章では1911 年に書かれた植村正久の「黒谷の上人」を紹介する。法然は彼がもっとも好んだ仏教者だったといわれる。その理由の一つは、法然の求道の姿にあった。夜襲によって逝った父から仇討ちを禁じられ、武士として生きる意味を喪った法然が、人としてひたすら「解脱」を求める。それは、植村がキリスト教に求めたものであり、植村の宗教観にも合致した。 もう一つの理由は、法然の教える「一心専念弥陀の名号」にある。すなわち「弥陀が願行を遂げ……その功を」凡夫に譲ってくれるという教えが、まさにキリストの贖罪による救いに通じているからである。無論、仏教の教えは非人格的で不十分とはいうが、法然の教えに、植村はキリスト教の贖罪信仰と「信仰義認」を見出した。 同じ頃、社会主義者として活動を続け、オーソドクスなキリスト教に批判的であった木下尚江が、「日蓮論」と翌年「法然・親鸞論」を著した。木下は、「立正安国論」を著し、時の執権や比叡山の僧たちと激しく対立した最盛期の日蓮ではなく、身延入山後の「法華経の行者」日蓮に着目した。そして「南無妙法蓮華経」でも「南無阿弥陀仏」でも、「ただひたすら唱えよ」に日蓮の教えの眼目を認める。植村も「よし殺さるゝまでも念仏申さにゃならねば」という法然に「仏教者の自由」を認めた。 彼らは、社会主義のみならず、思想言論の自由を圧迫して「教権」的絶対性を強める天皇制に抗して、人々が日本社会にあって自らの足で歩み続け得る「自由と革新」の素地を法然と「法華経の行者」日蓮の中に見出したのであった。この地で新しい力を蓄えて、彼ら、そして我らは、いかにして周囲にめぐらされた壁を破ることができるのか、これがまた一仕事である。
著者
野本 和幸
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.48, pp.55-101, 2016-12

フレーゲは、第一に、「数とは何か」という問いに対し、自ら考案した記号言語により、史上初の高階述語論理の公理体系化を達成し、その論理的基礎から、数論全体を論理的に導出しようと試みた。第二に、その体系構成の「予備学」として、日常のドイツ語をいわば「メタ言語」に用い、当の記号言語自身の統語論についてのメタ的説明や、自らの論理的カテゴリー区分(対象と型つきの概念・関係)、意味論的区別(意味と意義等)を解明し、第三に、全欧規模で数学者・論理学者・哲学者と充実した誌上および書簡論争を行った。 以上の論理学・数学基礎論上の仕事に加え、フレーゲは意味と意義の区別をはじめ、現代の意味論・言語哲学の原型を与えた。
著者
並木 浩一
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.42, pp.1-52, 2011-03-31

筆者はかつて、ヨブ記がヤハウィストを相互テクストとして用いていることを『「ヨブ記」論集成』に収録の論文「ヨブ記における相互テクスト性」において論じた。本論はヨブ記とヤハウィストが主題と関心を共有することを探求する。従来、ヨブ記とヤハウィストとは成立時代も関心も大きく違うとの先入観が働いて、両者が民族史的な課題を共有するとはまったく考えられていなかった。しかし私見によれば、両者はペルシア時代の成立であり、時代的な課題を共有する。そればかりでなく、両者はユダヤ教の基本である律法の整備とそれに伴うユダヤ民族中心主義への傾斜に抵抗するという共通の陣営に身を置いている。両者は人類とヤハウェとの関わりを重視する普遍主義を重んじて、申命記主義者が展開したヤハウェとイスラエル民族の特殊主義的な契約観、およびエルサレム中心の見方に対して批判的であり、ユダヤ教の外の世界に注目した。 ヤハウィストによれば、アブラハムは未知の世界に出て行った。そもそも人類の始祖は「エデンの東」に人間的な活動の場を見出した。人類にはその最初から境界侵犯を禁ずる「戒め」(園の中央の樹の実を取って食べることの禁止)が与えられていた。それはシナイもしくはホレブで与えられたというユダヤ教の律法とは関係がない。境界侵犯は人間が神の領域を侵すことの禁止ばかりでなく、人間の間にも適用される。弟を殺した兄は追放されなければならない。境界侵犯の禁止は客人法の遵守がヤハウェの基本的な関心事であることを認識させる。客人法を破った異教の人びとの町ソドムはヤハウェによって処罰される。 ヨブ記の主人公ヨブは「東の人」、すなわち律法が知られない異邦人であるが、ヤハウェの眼には比類のない義人である。ヨブの正しさは客人法の遵守、貧者の保護によって証しされる。ヨブが神との関わりで重視するのは、律法が規定の対象としない内心の世界である。「契約」(神とイスラエルとの特殊な結合)は個人的で私的な領域に移される。行動の基準は彼の「良心」である。 ヨブ記とヤハウィストのこの姿勢を支えるのは、人間の自律性と自由の重視である。しかし人間の自由で知的な活動が神の意志を知ることにはならない。むしろ誤解を導く。ヤハウィストにおける人間は想像力を働かせて神に背き、神と人への応答を拒む。境界侵犯を禁ずる神の掟は無条件に課せられる。しかし神は人間の自発性を尊重し、掟への服従を強制しない。ヨブにおいても、苦難の原因は説明されない。ヨブが「理由なく」神に従うか否かについて神とサタンは対立する。ヨブは理由なく神に服従したが、その後、理由の開示を求めて神に猛烈に抗議した。神の弁論は神について思い巡らす彼の知の限界を示した。ヨブはそれを自発的に認めた。ヨブ記とヤハウィストは普遍主義を支える神と人間のあり方を提示した。
著者
岩切 正一郎
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.44, pp.155-169, 2013-03-31

L'énigme des quatre balles tirées par Meursault a connu diversesinterprétations : réaliste (on soutient qu'il a seulement vidé toutes lesballes du revolver) ; psychanalytique ou autobiographique (on cherche àrépondre à la question : « Qui Meursault a-t-il tué en réalité ? ») Notreétude tente d'y répondre par l'analyse textuelle. Nous avons relevé lafonction structurante de deux objets métalliques, vis et balles, incrustésdans le texte, qui met au jour un drame vécu dans l'inconscient deMeursault et permet une nouvelle interprétation des « quatre balles ».Nous avons observé l'utilisation des deux objets métalliques liée auverbe « enfoncer ». D'abord les vis enfoncées dans la bière qui déclenchentle travail de deuil en Meursault tout en le privant de la visibilité de lamort ; puis les balles enfoncées dans le corps d'un Arabe qui la lui rendent.Le chiffre « quatre » apparaît dans les deux cas : les « quatre hommes noirs» que le héros voit au moment où il constate la fin du vissage de la bière etles quatre balles. Ce fait dans le texte nous indique que L'Étranger est unroman marqué par deux moments cardinaux : celui du clouage des vis ducercueil et celui des coups de revolver, avec une répétition del'enfoncement du métal, qui figurent le commencement de deux stades deconscience du narrateur.L'emploi spécifique des objets métalliques impliquant le refus de voirla mère morte et l'apparition de la mort par le meurtre de l'Arabe se voitdoubler de celui d'une substance blanche, le sel. Ce dernier, pour sa part,implique la présence de la mère / mer et symboliquement le charme de laféminité, la volupté du monde et l'amertume de la vérité. La présence dusel répétée à travers le roman sous différentes formes (l'odeur, l'image, legoût, la larme) nous montre un trait particulier du caractère de Meursaultqui est fortement sensible à cet élément et donc à ce qu'il évoquesymboliquement.Nous pouvons conclure que le sel et les balles tissent un réseau secret de signifiance dans L'Étranger. Le salin et le métallique fonctionnentainsi pour y structurer un espace vie / mort et servent à caractérisermatériellement Meursault et sa relation au monde.
著者
矢嶋 直規
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.47, pp.1-32, 2016-03

本稿は、ヒューム道徳哲学成立に果たしたバトラーの人間本性概念の意義を検討することを目的とする。バトラーにおいて神による自然の統治と人間の道徳的統治が類比的に扱われている。自然と道徳の統一はヒューム哲学を貫く根本的な主題である。ヒューム道徳哲学は、合理論と道徳感情論の対立また人間本性の道徳性をめぐる性善説と性悪説の対立を時代的背景として成立した。ヒュームはその論争にバトラーが論じた人間本性そのものの解明を目指す立場から決着をつけようとした。この点でバトラーはヒュームが目指した「人間の科学」の成立に重要な手がかりを提供している。本稿で私はバトラーの道徳哲学の基本構造を明らかにし、ヒュームとバトラーの議論の親近性と影響関係を具体的に指摘することで、ヒュームの「人間の自然(本性)」がバトラーの統一的な人間本性の理論を引き継ぐものであることを示す。その過程で両者の理論がともに道徳と自己利益の一致を論証していることが明らかになる。こうして本稿では、ヒュームがバトラーの「習慣」概念を批判的に発展させることで、良心論を中心とするバトラーの神学的道徳論を神と良心の存在を前提としない世俗的道徳論へと転換したことが論じられる。
著者
岩切 正一郎
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.45, pp.137-157, 2014-03-31

Notre étude analyse le mécanisme d'un transfert d'images représentantl'objet de désir, qui travaille dans les deux tableaux, La Vénus d'Urbino deTitien et Olympia de Manet, en observant tout particulièrement la triangleformée sous le drap en dessous de la nuda reclina.Dans La Vénus d'Urbino, un triangle béant est rempli par un matelasrichement brodé qui connote la promesse du bonheur conjugal. Il révèle,sous la main droite de la femme, ce que cache sa main gauche, non pasd'une façon réaliste comme dans L'Origine du monde de Courbet, maisd'une façon métonymique et métaphorique.Quant à Olympia, dans le même triangle se montre seulement unecertaine pauvreté matérielle. Ce qui vient de le suppléer dans ce tableau etqui crée métaphoriquement une image de l'objet désiré à travers sondéplacement, est le bouquet avec son papier blanc montré par la servantenoire.Que signifie cette différence entre le matelas brodé (signe de culture) etle bouquet (signe de nature) qui, tous les deux, remplissent le vide ouvertdans la figure triangulaire ? On peut dire que dans La Vénus d'Urbino, c'estla complicité de la femme qui comprend bien le désir de son futur mari quipermet au tableau de créer une volupté profonde, alors que dans Olympia,on constate le refus de la femme de participer à telle réalisation coopératived'une vision amoureuse, refus qui tranche avec ladite complicité.Longtemps on a vu le scandale d'Olympia dans le bouquet et le chathérissé qui indiquaient la présence d'un homme dans la chambre d'uneprostituée en lequel le spectateur bourgeois ou petit-bourgeois devant letableau se serait vu obliquement représenter. En réalité, le véritablescandale du tableau consiste, selon nous, en la mise en évidence dudysfonctionnement du mécanisme censé opérer pour la création d'uneillusion complice d'amour.S'il est deux sortes de répétitions comme les définit Deleuze dansDifférence et répétition, c'est-à-dire une répétition comme « l'élément d'actionapparemment répété » et une « répétition plus profonde », La Vénusd'Urbino et Olympia marquent, dans l'histoire de la répétition apparente dela nuda reclina, deux moments de la répétition « plus profonde » d'uneintensité égale qui se traduisent respectivement par la naissance et la mortdu mécanisme d'engendrement de l'illusion d'amour.