著者
矢嶋 直規
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.46, pp.281-301, 2015-03

スピノザは彼以降の西洋近代哲学の展開に大きな影響を与えた哲学者である。ヒュームの哲学もまたスピノザの影響を受けて成立した体系の一つである。スピノザとヒュームに共通する最大の主題は「自然」である。両者は、倫理を自然によって基礎づけることを哲学の根本的な目的としていた。ヒュームにとってhuman nature とはいわゆる人間本性ではなく、人間に固有の知覚の連合とそれに基づいて成立する現象の総体としての自然を意味する。ヒュームもスピノザも因果の本質が必然性にあると見なしている。ただしスピノザの必然性が理性により認識されるのに対し、ヒュームの必然性は感覚によって感じられるという違いがある。ヒュームとスピノザの体系の共通点と相違点を理解する上でスピノザの「一般的概念(notiones universales)」とヒュームの「一般観念(general ideas)」の関係を考察することが重要である。スピノザは「一般的概念」を第一種認識に属する想像力の働きに基づく人間の誤謬の源泉として批判している。それに対してヒュームはロックの「抽象観念(abstract ideas)」を批判しながら、一般観念に独自の理解を付与している。とりわけヒュームはロックによる抽象観念を、人間精神の有限性を根拠として批判しており、この点でヒュームとスピノザは共通の認識に基づいている。スピノザは一般的概念を理性による「共通概念(notiones communes)」によって克服し、十全な認識としての第二種認識へと移行する。それに対してヒュームは一般観念に止まりつつ、一般性の拡大によってより妥当な認識が成立していくという観念の自然な発展の理論を提示する。ヒュームの一般観念は習慣から社会的な慣習へと発展することで単に個人的な主観的認識に止まるものではなくなる。スピノザもヒュームもそれぞれの哲学によって他者と協働して幸福を達成する筋道を示そうとする。ただし、スピノザが哲学的認識による理性的主体自身の救いを目的とするのに対してヒュームは一般的認識の成立に基づく共同体全体の安定を目的としている。安定した共同体は富と学芸を生み出し、人間性そのものを発展させる。スピノザとは対照的にヒュームにおいて個人の救いは、個人の理性による哲学的認識にではなく共同体全体の力に委ねられるのである。
著者
矢嶋 直規
出版者
日本イギリス哲学会
雑誌
イギリス哲学研究 (ISSN:03877450)
巻号頁・発行日
vol.29, pp.87-101, 2006-03-20 (Released:2018-03-30)

In the Treatise 1.1.7, “On Abstract Ideas”, Hume develops a significant criticism of the Lockean concept of “abstract ideas”. This paper contains three claims. The first claim is that the argument is to be read as providing a definition of Hume’s concept of “custom”. The second claim is that “resemblances” among things are not detected on the basis of any particular feature that is discovered by reason. And the third claim is that the “general point of view” that Hume employs in his discussion of moral assessments should be understood as the principle of custom. This paper, thus, is an attempt to find in Hume’s concept of custom a significant relationship between his epistemology and his moral theory.
著者
矢嶋 直規
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.46, pp.281-301, 2015-03-31

スピノザは彼以降の西洋近代哲学の展開に大きな影響を与えた哲学者である。ヒュームの哲学もまたスピノザの影響を受けて成立した体系の一つである。スピノザとヒュームに共通する最大の主題は「自然」である。両者は、倫理を自然によって基礎づけることを哲学の根本的な目的としていた。ヒュームにとってhuman nature とはいわゆる人間本性ではなく、人間に固有の知覚の連合とそれに基づいて成立する現象の総体としての自然を意味する。ヒュームもスピノザも因果の本質が必然性にあると見なしている。ただしスピノザの必然性が理性により認識されるのに対し、ヒュームの必然性は感覚によって感じられるという違いがある。ヒュームとスピノザの体系の共通点と相違点を理解する上でスピノザの「一般的概念(notiones universales)」とヒュームの「一般観念(general ideas)」の関係を考察することが重要である。スピノザは「一般的概念」を第一種認識に属する想像力の働きに基づく人間の誤謬の源泉として批判している。それに対してヒュームはロックの「抽象観念(abstract ideas)」を批判しながら、一般観念に独自の理解を付与している。とりわけヒュームはロックによる抽象観念を、人間精神の有限性を根拠として批判しており、この点でヒュームとスピノザは共通の認識に基づいている。スピノザは一般的概念を理性による「共通概念(notiones communes)」によって克服し、十全な認識としての第二種認識へと移行する。それに対してヒュームは一般観念に止まりつつ、一般性の拡大によってより妥当な認識が成立していくという観念の自然な発展の理論を提示する。ヒュームの一般観念は習慣から社会的な慣習へと発展することで単に個人的な主観的認識に止まるものではなくなる。スピノザもヒュームもそれぞれの哲学によって他者と協働して幸福を達成する筋道を示そうとする。ただし、スピノザが哲学的認識による理性的主体自身の救いを目的とするのに対してヒュームは一般的認識の成立に基づく共同体全体の安定を目的としている。安定した共同体は富と学芸を生み出し、人間性そのものを発展させる。スピノザとは対照的にヒュームにおいて個人の救いは、個人の理性による哲学的認識にではなく共同体全体の力に委ねられるのである。
著者
矢嶋 直規
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 (キリスト教と文化) = Humanities: Christianity and Culture (ISSN:24346861)
巻号頁・発行日
no.50, pp.53-77, 2018-12-15

本稿はヒュームに代表される近代英国哲学の道徳哲学がニュートン派の自然神学をめぐる論争から成立した過程を解明することを目的とする。自然神学論争の中心人物にはクラークとバトラーが含まれる。ニュートン派の自然神学を擁護するクラークは、ホッブズ、スピノザ、ライプニッツ、トーランドを批判する論陣を張っていた。またバトラーの経験論的方法による神学と道徳哲学はヒュームやリードにも影響を与えた。本稿の主たる考察対象は初期バトラーの思想形成の舞台となったバトラー= クラーク書簡である。同書簡では神の存在証明における神の遍在と、神の必然的存在についてのクラークの主張へのバトラーの批判が展開されている。神の遍在は空間・時間論を主題とし、神の必然的存在は因果論を主題とする。バトラーは空間・時間を事物の原因とするクラークの議論を批判し、因果を人間の経験に即したものとして扱う可能性を提示している。また神の存在が必然的であるというクラークの主張を批判することで、形而上学的必然性に基づく対象理解を蓋然的信念の問題へと転換している。こうした議論は後期バトラーの経験主義的道徳論及び宗教論に結実するとともに、ヒュームやリードをはじめとするスコットランド啓蒙思想の経験主義的道徳論を準備する思想となった。こうして本稿はバトラーのクラーク批判に用いられる必然性、蓋然性、思惟可能性などの概念が経験的道徳論の基礎概念とされた次第を解明しようとするものである。
著者
矢嶋 直規
出版者
慶應義塾大学
雑誌
哲學 (ISSN:05632099)
巻号頁・発行日
vol.116, pp.89-116, 2006-03

投稿論文はじめに1. ヒュームのコギト批判2. 一般性の成立としての抽象観念論3. 高次の一般性としての因果信念4. 「存在」と「外的」存在5. 「私たちの内なる」世界と道徳6. 結びThe Cartesian problem of the external world characterises modern philosophy. Hume tackles this problem in his attempt to establish a new "science of man". Hume's theory of the external body is generally recognised as a sceptical argument; commentators seldom interpret it as a moral theory, nor do they usually find any significant connection between the theory of the external body and the theory of normativity. In this paper, I indicate Hume's theory of the external body as a systematic theory of perceptions which completes the development of perceptions from general ideas to the belief in causation. I then show that the "general point of view" is the principle which underlies this development, which proves to be evidence that there is a parallelism between Hume's epistemology and his moral theory. Hume founds the perception of normativity on the perception of the external body that is defined as the public perception. Thus, perception of the external object culminates in the creation of the system of morality. Unlike the Cartesian concept of the external world as a requirement of reason, Hume's external body constitutes the public world. I argue that Hume's theory replaces the Cartesian scientific view with a moral view as a reliable foundation of human life.
著者
矢嶋 直規
出版者
国際基督教大学キリスト教と文化研究所
雑誌
人文科学研究 : キリスト教と文化 : Christianity and culture (ISSN:00733938)
巻号頁・発行日
no.47, pp.1-32, 2016-03

本稿は、ヒューム道徳哲学成立に果たしたバトラーの人間本性概念の意義を検討することを目的とする。バトラーにおいて神による自然の統治と人間の道徳的統治が類比的に扱われている。自然と道徳の統一はヒューム哲学を貫く根本的な主題である。ヒューム道徳哲学は、合理論と道徳感情論の対立また人間本性の道徳性をめぐる性善説と性悪説の対立を時代的背景として成立した。ヒュームはその論争にバトラーが論じた人間本性そのものの解明を目指す立場から決着をつけようとした。この点でバトラーはヒュームが目指した「人間の科学」の成立に重要な手がかりを提供している。本稿で私はバトラーの道徳哲学の基本構造を明らかにし、ヒュームとバトラーの議論の親近性と影響関係を具体的に指摘することで、ヒュームの「人間の自然(本性)」がバトラーの統一的な人間本性の理論を引き継ぐものであることを示す。その過程で両者の理論がともに道徳と自己利益の一致を論証していることが明らかになる。こうして本稿では、ヒュームがバトラーの「習慣」概念を批判的に発展させることで、良心論を中心とするバトラーの神学的道徳論を神と良心の存在を前提としない世俗的道徳論へと転換したことが論じられる。
著者
矢嶋 直規
出版者
日本哲学会
雑誌
哲学 (ISSN:03873358)
巻号頁・発行日
vol.2010, no.61, pp.293-307_L18, 2010 (Released:2011-01-18)
参考文献数
21

The question of “why be moral?” has been the leading problem in every moral philosophy since Socrates. Hume tackles this problem in the concluding chapter of An Enquiry concerning the Principle of Morals. Many commentators take it that Hume does not commit himself deeply to refuting the “sensible knave,” who is always seeking to commit injustice for personal gain while pretending to be a moral person. I maintain, however, that it is possible to read a fully convincing response to this problem into Hume's theory. The significance of this problem to Hume is, more than anything, its connection to the fierce controversy of Hume's time between the moral sense theories and the egoist moral theories exemplified by Hobbes and Mandeville.Hume presents mainly two grounds to deny the claim of the “sensible knave.” One is that he is unlikely to successfully follow through with his wicked plan because his wisdom fails to bear up to public scrutiny, and the second is that if he is successful in his injust action, by exchanging the most precious treasure, that is reflection on his own character, for the worthless rubbish that he mistakes for his private interest, he is decisively defeated. I clarify that Hume's claim must be understood based on his comprehensive theory of custom. As moral individuals, we are dependent on the general perception of natural, psychological and moral things, a perception which can be mutually understood among members of a stable community. Moral perceptions also rely on the same psychological mechanism of human nature. Our human nature exerts the same binding force on moral perceptions as natural perceptions do. In this way, I seek to show that Hume's entire theory of the Treatise provides a naturalistic foundation for morality which culminates in the authority of government.