著者
笹部 昌利
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
no.21, pp.21-48, 2015

近世日本における「農兵」とは、疲弊した武家社会を助けるために生じた理念であり、現実性をともなうものではなかった。さらに、それはアヘン戦争の情報によって「海防」意識が高まった十九世紀になっても変わるものではなかった。「農兵」が現実的な存在となってくるのは、ペリー来航以降、外国船への対応が恒常化してからであった。鳥取藩領内においては、文久年間、大名による国事対応が頻繁化し、かつ京・大坂への兵事動員が繁多となったことによって、藩領内の警備の手薄さが再認識され、これへの対応として「農兵」による補填が図られたが、軍事インフラの充実に重きを置いた藩当局の判断により、「農兵」教導は挫折を見た。しかしながらこの折、建設された軍事インフラである台場への対応が、在地社会に委ねられたことは、民衆における軍事への志向性を生み出した。殊に、藩政の中心たる領内東部地域において、その志向性は低調で、領内西部、遠隔地において顕著であった。この民間より動員された兵力は長州戦争における活躍によってその正当性が確認され、鳥取藩内においても、「農兵」教導とあらたな「洋式」軍事編成が模索されるようになった。軽装の洋式「歩兵」は、戊辰戦争において活躍し、その後の調練次第で藩の常備兵化が期待されたが、入隊した兵が抱いた志向は、近世的身分制における褒賞と特権を重視するものであり、そのことが隊内外において混乱を生じさせた。「国民皆兵」主義の実現を目指し、あらたな軍隊の創出を目指す政府は、旧武士層たる士族の特権を否定し、幕末に生成された「農兵」をも否定した。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.20, pp.172-130, 2015-03

京都・上賀茂に1927(昭和2)年、上加茂民藝協團(以下は協團)という新作民芸品をつくる若い工人の集団(ギルド)が誕生した。これは当時の民芸運動の一環であった。民芸運動は柳宗悦(1889-1961、以下は柳)が主唱し、大正末期から昭和初期にかけて起こった。柳は1924(大正13)年から1933(昭和8)年までの約9 年間にわたって、京都を本拠地として活動した。この間に民芸という言葉をつくり、多くの同志を得た。そして河井寛次郎(1890-1966、以下は河井)との交友関係を通して、協團が結成された。 京都は伝統工芸が数多く残っている町であったが、協團は単に伝統を受け継ぐという理念のもとに生まれたわけではない。協團では染織作家の青田五良(1898-1935、以下は青田)と、木工作家の黒田辰秋(1904-1982、以下は黒田、後に重要無形文化財保持者)らが活動した。柳は個人作家と工人の協同生活の必要性を力説し、工人に対しては、共同作業を成立させるために厳しい倫理的制約を設けることを求めた。しかしながらこの理想は、収入源や倫理観の欠如によって結束力が弱まったために、達成できなかった。多くの協力者を得ながら、協團はわずか2 年半足らずで解散した。 しかし柳らの民芸運動は挫折することなく、新たに日本民藝館の設立や『工藝』誌の刊行など、むしろ活発になっていった。しかし日本民藝館のコレクションには、民芸の特徴に当てはまらないものが数多く含まれるなど、柳の本来の趣旨と外れたものとなっていった。柳にとって工芸とは、美術と同じ美的価値を基調とした概念になってしまい、これは協團がめざした方向とは明らかな違いを示していた。
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
no.20, pp.208-173, 2014

本稿は近代日本における食養論の展開を考察した。食養論にはさまざまなものがあるが、代表的な食養論である石塚左玄(1851-1909)の食養論、桜沢如一(1893-1966)の正食論、そして久司道夫(1926-)のマクロビオティック(以下はマクロビ)運動を取り上げた。これら3 人の食養論は全く異なるものではなく、つながりがあった。現在のマクロビ活動の由来は、ほぼこの3人の事績に負っている。食養・正食・マクロビなどの言葉に共通する意味は、程度の差はあるものの、人間の長寿と健康のためには、穀物と野菜を主体にした伝統的な和食がもっとも望ましいものであり、こうした食事法を実践していると病気にかかりにくいということであった。 陸軍の薬剤監であった石塚は、伝統的な養生論の考え方を継承し、西欧近代科学の影響を受けて、カリウムとナトリウムのバランスによる人体の生理を追究した。桜沢は石塚の思想を継承した。しかし食養論を一般化するために、西欧近代科学を用いるのではなく、陰と陽の両極によって世界を統一的に解釈する「易」の哲学を用いた。これによって人体や生命を総合的にとらえることを主張した。そして桜沢の弟子である久司がアメリカで啓蒙活動を行なうことによって、食養法の実践が広まっていった。 これらの食養論はそれぞれ論点が異なるものの、科学的な根拠に乏しく、常に近代科学からの批判にさらされた。これに反して日本ばかりでなく、世界でも受け入れられた背景には、その時々の社会状況や社会関係があった。食に関する議論は、それを取り巻く時代背景に大きく左右されるということを認識することが必要である。1 はじめに2 石塚左玄の食養論3 桜沢如一の正食論4 久司道夫の啓蒙活動5 結びにかえて
著者
並松 信久
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.334-298, 2017-03

わが国では1923(大正12)年に世界でも類をみない「中央卸売市場法」が制定された。この法律の制定を受けて、各都市では公設の中央卸売市場が開設される。しかし法律制定から市場開設まで時間を要する。その中で最も早く、1927(昭和2)年に開設されたのは京都市であった。 京都市中央卸売市場に関する先行研究はある。しかし京都市で先駆的に開設が可能となった理由や、公設市場が根付いた理由については明らかになっていない。先駆性の理由については、京都市では他都市と比較して、既存の卸売業者や問屋などの再編が円滑に進んだことがあげられる。これには初代場長となった大野勇をはじめとする京都市役所の貢献があった。公設が根付いた理由は、卸売市場に先行した公設小売市場の設置が大きな役割を果たしたことがあげられる。京都市では都市インフラの整備の一環として、小売市場と卸売市場が位置付けられ、流通機構として整備された。
著者
河原田 康史
出版者
京都産業大学日本文化研究所
雑誌
京都産業大学日本文化研究所紀要 (ISSN:13417207)
巻号頁・発行日
vol.22, pp.254-214, 2017-03

宮崎友禅斎は、洛東の知恩院門前辺りに居住し、天和~享保(1681~1736)頃に活躍した。友禅斎は「絵扇」で一躍有名になり、その絵模様を「小袖」にも描いた。友禅斎の名前にちなみ、現在では「友禅染」という名称が、広義では「キモノの染物全般」を、狭義では「挿し彩色」を指して用いられることが多い。友禅斎については、生没年や生没地、妻子の存在、加賀友禅との関係などにおいて不明な事柄が多い。 本稿では、北法相宗音羽山清水寺が所蔵する宮崎友禅斎筆「白衣観音図」扁額について論じる。扁額右下には、「奉納者である歌舞伎役者名」と「制作者である友禅斎」の署名がある。「奉納者である歌舞伎役者名」を判読できると、友禅斎が京都で扁額を制作した年号が大方理解できる。 本稿の構成として、最初に研究報告会で発表した内容を基に、「白衣観音図」扁額に関する先行研究について整理する。次に先行研究における私見を述べると共に、扁額右下にある署名を判読するために、扁額の拡大写真を用いて「奉納者である歌舞伎役者名」について考察する。最後に研究報告時に筆者が仮説として立てた「奉納者である歌舞伎役者名」の真偽を検証するため、その後の研究によって新たに明らかになった事柄について考察する。