著者
藤塚 吉浩
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.6, 2011 (Released:2012-03-23)

ジェントリフィケーションは、1980年代に比べると現象が大きく変質してきた。ジェントリフィケーションは、もはや住宅市場の狭い非現実的な特異さに関するものではなく、よりもっと大きなものを得ようとする居住の最先端、すなわち、中心部の都市景観に関する階級の再建となっている。 現象の変化として近年注目されている研究テーマは、新築のジェントリフィケーション(new-build gentrification)である。新築のジェントリフィケーションは、工場跡地や放棄された土地、建物が取り壊されたところに新たに建設されたものである。新築のジェントリフィケーションとは、再投資と高所得者による地域の社会的上向化、景観の変化、低所得の周辺住民の直接的・間接的な立ち退きを伴うものである。本報告では、このような現象が東京特別区部において発現しているのか考察する。 21世紀に入りジェントリフィケーションの多発する要因のひとつに、政府の積極的な支援がある。ニューヨーク市の事例では、工業地域から住宅建設を可能にする用途地域への変更により、大規模なコンドミニアムの建設が可能となった。本報告ではまた、住宅に関する施策の変化が、ジェントリフィケーションの発現に影響するのか検討する。 1990年代のジェントリフィケーションの発現は、京都市の事例では都心周辺地区にみられた。ニューヨーク市の事例では、イーストリバーを挟んだ都心の対岸地区でジェントリフィケーションがみられた。本報告では、2000年代の発現地区と都心との位置関係について検討する。 ジェントリフィケーションの発現を示す指標として、2000年代前半の専門的技術的・管理的職業従事者の動向について検討した。中央区の増加率は30%を超えて最も高く、江東区と千代田区の増加率は10%を超えた。地区で起こるジェントリフィケーションの特性を考えると、区の範囲でジェントリフィケーションが起こっているか判断することは困難なので、本報告では専門的技術的・管理的職業従事者が最も増加した中央区を事例として詳細に検討する。 中央区の住宅関連施策の実施に関しては、1980年代の投機的土地売買による居住人口の減少が背景にある。中央区は居住人口を確保するために、1985年に中央区市街地開発指導要綱を制定し、大規模な開発には住宅附置を義務づけた。住宅の確保に効果はあったが、新築された共同住宅の家賃が高く、従前の借家人は入居できず立ち退きとなる問題があった。住宅附置義務により増加した共同住宅の多くは、単身者用であった。住宅附置義務制度は、規制緩和された建物の高さに関する建築紛争の多発により2003年に廃止されたが、ジェントリフィケーションの発現に影響を及ぼしたのである。 ジェントリフィケーションの発現地区については、町丁別に専門的技術的・管理的職業従事者の変化を検討する。首都高速道路の都心環状線と上野線の西側が都心の業務地区であるが、専門的技術的・管理的職業従事者は、都心周辺地区で増加するとともに、隅田川の東岸の地区においても増加した。日本橋の問屋街や築地市場では卸売業が集積し、入船から湊にかけての地区では印刷工場や倉庫などがみられる。都心の業務機能はこれらの地域には拡大せず、再投資による共同住宅の建設があり、社会的上向化が起こった。新築のジェントリフィケーションに関連する景観の変化と立ち退きについては、地区ごとに詳しく検討する。 東日本橋から人形町にかけての地区では、繊維・衣服等卸売業が集積しており、近年ではそれらの店舗の跡地に共同住宅が多数建設されている。1階に店舗を設置しない共同住宅の建設計画には、問屋街の連続性が失われるとした建築紛争があった。 入船から湊にかけての地区では、1980年代の地価高騰期の投機的土地売買のために、住民は立ち退きとなり、住宅や工場、倉庫の建物は取り壊された。1990年代には、景気後退の影響からそれらの跡地は利用されず放置された。2002年には都市再生特別措置法が施行され、都市再生特別地区として超高層共同住宅の建設計画がある。 隅田川より東の佃や月島、勝どきでは、大規模な高層共同住宅開発が進められた。佃では、造船所と倉庫などの跡地に、1980年代半ばより超高層共同住宅が建設され、景観は大きく変化した。佃や月島は、路地空間に特徴のある下町である。近隣への中高層共同住宅の建設に際しては、既存の高層住宅の住民から反対されるなど、新たな建築紛争が起こっている。
著者
成瀬 厚
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.19, 2011 (Released:2012-03-23)

1970年代の人文主義地理学によってキーワードとされた「場所place」は概念そのものの検討も含んでいたが,その没歴史的で,本質主義的な立場などが1980年代に各方面から批判された。1990年代にはplaceを書名に冠した著書や論文集が多数出版されたが,そこでは場所概念そのものの検討はさほどなされなかったといえる。 本報告では議論を拡散させないためにも,検討するテクストをプラトンの『ティマイオス』および,そのなかのコーラ=場概念を検討したデリダの『コーラ』を,そしてアリストテレスの『自然学』および,そのなかのトポス=場所概念を検討したイリガライの「場,間隔」に限定する。 プラトン『ティマイオス』におけるコーラとは,基本的な二元論に対するオルタナティヴな第三項だといえる。コーラは岩波書店全集では「場」と翻訳されるものの,地理的なものとして登場するわけではない。『ティマイオス』は対話篇であり,「ティマイオス」とは宇宙論を展開する登場人物の名前である。ティマイオスの話は宇宙創世から始まるが,基本的な種別として「存在」と「生成」とを挙げる。「存在」とは常に同一であるもので,理性(知性)や言論によって把握される。これは後に「形相」とも呼び変えられる。「生成」とは常に変化し,あるという状態のないものであり,思わくや感覚によって捉えられる。創世によって生成した万物は物体性を具えたもので,後者に属する。そのどちらでもない「第三の種族」として登場するのが「場=コーラ」である。コーラとは「およそ生成する限りのすべてのものにその座を提供し,しかし自分自身は,一種のまがいの推理とでもいうようなものによって,感覚には頼らずに捉えられるもの」とされる。その後の真実の把握を巡る議論は難解だが,ここにコーラ概念の含意が隠れているのかもしれない。いや,そう考えてしまう私たちの真理感覚を問い直してくれるのかもしれない。 デリダはコーラ概念を,その捉えがたさが故に検討するのだ。「解釈学的諸類型がコーラに情報=形をもたらすことができるのは,つまり,形を与えることができるのは,ただ,接近不可能で,平然としており,「不定形」で,つねに手つかず=処女的,それも擬人論的に根源的に反抗するような諸女性をそなえているそれ[彼女=コーラ]が,それらの類型を受け取り,それらに場を与えるようにみえるかぎりにおいてのみである」。 『ティマイオス』では,51項にも3つの種族に関する記述があり,それらは母と父と子になぞらえられる。そして,コーラにあたるものが母であり,受容者であり,それは次のイリガライのアリストテレス解釈にもつながる論点である。このコーラの女性的存在はデリダの論点でもあり,またこの捉えがたきものを「コーラ」と名付けたこの語自体の固有名詞性を論じていくことになる。 アリストテレスのトポス概念は,『自然学』の第四巻の冒頭〔三 場所について〕で5章にわたって論じられる。トポスは,物体の運動についての重要概念として比較的理解しやすいものとして,岩波書店全集では「場所」と翻訳されて登場する。アリストテレスにおける運動とは物質の性質の変化も含むため,運動の一種としての移動は場所の変化ということになる。 ティマイオスはコーラ概念を宙づりにしたまま,宇宙論をその後も続けたが,アリストテレスは「トポス=場所」を物体の主要な性質である形相でも質料でもないものとして,その捉えがたさを認めながらも論理的に確定しようとする。トポスには多くの場合「容器」という代替語で説明されるが,そこに包含される事物と不可分でありながらその事物の一部でも性質でもない。 イリガライはこの容器としてのトポスの性質を,プラトンとも関連付けながら,女性としての容器,女性器と子宮になぞらえる。内に含まれる事物の伸縮に従って拡張する容器として,男性器の伸縮と往復運動,そして胎児の成長に伴う子宮の拡張,出産に伴う収縮。まさに,男性と女性の性関係と母と子の関係を論じる。 この要旨では,デリダとイリガライの議論のさわりしか説明できていないし,これらの議論をいかに地理学的場所概念へと展開していくかについては,当日報告することとしたい。
著者
大平 晃久
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.20, 2011 (Released:2012-03-23)

文化地理 岐阜県内の文学碑の事例を中心に、記念碑と場所の関係を比喩として読み解き、記憶-場所論に新たな視点を提示する。
著者
川西 孝男
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.17, 2011 (Released:2012-03-23)

ドイツの劇作家リヒャルト・ヴァーグナー(1813-83)は晩年,バイロイトに終の棲家を得て,ここに自らのオペラ専用たるバイロイト祝祭劇場を建造し,舞台神聖祝祭劇「パルジファルParsifal」(1882)を完成させた。本論は,この「パルジファル」の主題となったヨーロッパの聖杯騎士伝説とバイロイトとの関わりについて歴史地理学的視点から論じたものである。
著者
横地 留奈子
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.16, 2011 (Released:2012-03-23)

関東地方南部、利根川下流域である東京都、埼玉県、茨城県、千葉県をまたぐ範囲には、特異な形の盆の風習がある。 一般に、盆は、祖霊祭であるとされている。 かつては旧暦の7月中旬に行われることが多かった。新暦が導入された明治6(1873)年以後の日程は、さらに多様化している。7月や月遅れである8月の13日から15日、または13日から14日、そして8月の初旬に行われている地域もある。祖霊を家に迎えることが主と捉えられているが、同時に無縁仏が家にやってくるともいわれる。祖霊とは、イエの先祖の霊である。一方の無縁仏には二種類あり、一つはかつてイエの構成員だったが先祖とならなかった霊、もう一つはイエとは無関係と考えられる霊(行き倒れなど)である。 盆の期間には迎えと送りが行われる。迎えとはイエの墓地や辻、川や海などからイエまで祖霊を迎えることである。祖霊に対しては一定期間イエで供物を捧げ、その後再び祖霊を送る。 その祀り方も、地方毎の特色がある。盆棚と呼ばれる祖霊を迎える台を庭や屋内に設けたり、祖霊と共に家に来た無縁仏に対して屋内や屋外で供物を出したりする。 関東地方南部の利根川下流域では、8月、もしくは7月の13日から15日に行われる。都市部では7月、農村部では8月に行われるとされる。盆は、おおよそ以下のように営まれる。 13日の夕暮れに「お迎え」を行う。集落の墓地に、灯りのない提灯を持って住民が訪れてくる。家の墓へと向かい、水をかけ、線香を手向け、お供えの食物を供える。墓石の前で提灯に火を灯すもすと、また家へと帰って行く。東京都北西部では、墓地が遠い場合は家の前の道路で祖霊を迎えることもあるという。素焼きの皿の中でオガラを焚いて音を鳴らせる地域もある。 家ではあらかじめ仏壇の前に盆棚を用意し、位牌を並べて置く。墓地からイエに着いた祖霊は、本の機関にそこに留まるという。盆棚には朝昼晩と3度の食事を出す。そうして祖霊が留まる中、千葉県北西部や茨城県南東部では、14日の昼には祖霊が「タカノノセガキ」へ出かけると説明する地域もあった。 15日は「送り」である。送る祖霊にお弁当を持たせたる地域もある。祖霊の乗り物としてナスの牛やキュウリの馬を作ったりする。そうして夕方、盆棚から提灯を灯して祖霊を迎えた場所まで行き、提灯の火を消すと完了である。 以上のように、祖霊を墓などから迎え、送る一連の動きが、墓とイエとで行われている。 ところが、祖霊をイエに迎え、誰もいないはずの墓地へ、14日早朝に行く地域もある。千葉県北西部と茨城県南東部である。民俗学でも「十四日の墓参」と呼ばれ、全国に分布してよく知られた風習である。が、その時に使用する台が、今回のテーマである。 材料は、30cm長の竹棒2本と一晩干したマコモである。竹棒2本を十文字にし、マコモで四角く編んでいく。15_cm_四方まで編むと、残った15cmほどの竹棒を折り、脚がわりとして地面に立てる。14日の墓参の際には、マコモで編んだ屋根上の部分に「アラヨネ」「ミズノコ」と呼ばれる、イモの茎やキュウリ、ナスなどを刻み生米を混ぜたものを乗せる。墓参の対象は、行為者に聞いても不明であった。 一方、全く同じ台を使いながら、その対象を祖霊とし、13日の迎えで使用する地域もある。 作成に手間のかかる同一の台を広い地域で行われているにもかかわらず、その使用方法や意味付けが異なるのはなぜか。分布の広がりから考察することが本研究の目的である。
著者
野間 晴雄 香川 貴志 土平 博 河角 龍典 小原 丈明
出版者
人文地理学会
雑誌
人文地理学会大会 研究発表要旨 2011年 人文地理学会大会
巻号頁・発行日
pp.48, 2011 (Released:2012-03-23)

1.目的・視角と本発表の経緯 大学学部専門レベルの地理学研究の知識と技術を網羅した教科書・副読本として1993年刊行の『ジオグラフィック・パル 地理学便利帖』(海青社)1)は,情報アップデート化2)を除いて,2001年に『ジオ・パル21 地理学便利帖』3)以降,大きな改訂をしてこなかった。この間,日本の大学地理学教育をめぐる環境変化,IT技術の急速な変化,高等学校での「地理」の未履修者の増加とその対応,隣接分野への地理学的アプローチの拡がりと地域学・観光などのコース・学科や学部の新設などにより,提供すべき知識・内容を抜本的に改訂・一新する必要が生じてきてきた。 本発表の目的は,2012年春の刊行をめざした全面改訂版である『ジオ・パルNeo 地理学・地域調査便利帖』(仮題)の要諦を,旧版と比較して解説し,現代の大学生が身につけるべき地理学の基礎知識や技術や情報について考察することである。副次的な意図としては,改訂内容への忌憚のない意見・情報を学会参加者から求め,最終稿へ導くことである。 2.大学の地理学教育をめぐる環境変化 この約20年間,アカデミック地理学の動きとしては、環境論が装いを新たにして再浮上してきたこと,計量・モデル志向の方法論の相対的後退,自然地理学の細分化,新しい文化社会地理学・政治地理学の隆盛,場所・地域論の見直し,地理思想の拡がりなどである。技術論としては,GIS,ITの目覚ましい発達,とりわけインターネットを通じた大量かつ広範囲の情報の入手,加工が容易になったことがあげられる。 日本の大学における地理学の立場も大きく変わった。大学「大綱化」による教養課程の廃止と専門科目の低学年次への繰り下げ,大学における組織改組,多様な(一部には意味不明な)専攻・専修・コースの設立や改称,地理学やその隣接分野を学べる専攻の多様化・分散化などがあげられる。高等学校「地理」が必修科目からはずれたことによる学生の基礎知識の低下と格差拡大,ゆとり教育の推進による常識・学力の低下,学生の内向化,フィールドワークや基礎的技術を疎んじるインターネット過信などの状況がある。 3.全面改訂作業の内容 ―旧版との比較を通じて― 旧版『ジオ・パル』の趣旨には,故・浮田典良氏の地理教育・地理学への高い志が凝縮されている。詭弁を排し,徹底して大学生が学ぶべき内容をコンパクトに盛り込む便覧を意図し,2~4年ごとの改訂によって最新情報の提供をめざした。その構成は,地理学史などの本質論から,地理学の諸分野,研究ツール,文献,分析手法,キーワードに及んだ。今回の全面改訂は,旧執筆者の意見を汲み込みながら,現役で学部の実習や演習を担当している若手・中堅4名の十数回にわたる討議・共同作業により,3部構成(イントロ,スタディ,アドバンス)に全体を組み替えた。 「イントロ」は,高校「地理」を履修せずに入学する多様な学生の注意をひき,現在の学生の最大の関心である就職や資格にも配慮した入口~出口解説である。本論が「スタディ」で,さまざまな授業で随時参照でき,かつ4年間あるいは卒業後も使える有用性をめざした。地図の利用と自ら主題図を作成する技術,地域データの入手法,地域調査事例,GISの入門などを充実させるとともに,学生がプレゼンテーションや卒業論文を書く際の注意事項などを追加した。その一方で,地理学史や著名学者,学会など,大学院をめざす人,より高い専門性を追求する学生向きの事項は「アドバンス」にまわした(図1)。 4.今後のよりよき改良と修正に向けて 研究発表時には野間が全体の概要とねらいを,香川が具体的な改訂版の新機軸や内容の一端を紹介する。まだ,全体に盛り込むべき内容が完全には確定していない。情報として盛り込むべき事項(専攻名称や地方学会の雑誌情報)も変化が激しい。会場入口に置いた追加資料に挟み込まれたアンケート(無記名)と情報提供について,ご協力を賜れば幸いである。 注・文献 1)浮田典良編『ジオグラフィック・パル 地理学便利帖』海青社,1993年[白表紙]。2)浮田典良編『ジオグラフィック・パル 地理学便利帖1998-1999年版』海青社,1998年[紫表紙]。3)浮田典良・池田碩・戸所隆・野間晴雄・藤井正『ジオ・パル21 地理学便利帖』海青社,2001年[赤表紙]。