著者
長谷部 史彦
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.35, pp.275-300, 2020

はじめに1. ブーラーク港のハワージャー2. ハーン・ハリーリーのハワージャー3. イブン・トゥールーン地区のハワージャー4. その他のハワージャーおわりに
著者
前田 伸人
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.26, pp.73-94, 2011

はじめに1. 問題の所在2. 研究史3. 本稿の構成第一章1. スペインの分割構想2. スペイン継承戦争とユトレヒト体制3. オランダの障壁条約4. オランダの外交政策の揺らぎ第二章1. 皇后ファルネーゼの専制2. 寵臣アルベローニの時代3. イタリア侵攻の失敗第三章1. フェリペの退位と復位2. 寵臣リペルダー3. ウィーン条約締結4. リペルダーの顛末第四章1. パティーニョとイタリア回復2. トスカーナ問題おわりに
著者
小林 邦夫
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.25, pp.295-324, 2010

ゲーテの「ファウスト」において,「宝」という言葉がどのように用いられているかを調べてみると,作品中の多くの箇所に現れ,様々な意味合いをもって用いられていることが判明した。本稿では,この「宝」という言葉の用い方を多少整理した形で示してみようと思う。そのことによって,この言葉が作品中においてどのようなな役割を果たしているかが明らかとなってくるであろう。尚,「宝」を表現する言葉はドイツ語ではSchatzであるが,その他にも,金銀財宝,地所,貨幣,宝石,その他貴重な物,大切なこと,大切な人等を表現する言葉,あるいは事柄も,この「宝」の中に含めることとした。第一章. メフィストと宝第二章. 幸福論と宝第三章. 美と宝第四章. 自己と宝
著者
瀧本 佳容子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.23, pp.351-377, 2008

1. Introducción2. Esbozo biográfico de Fernando de Pulgar3. Transformación de la crónica real4. Definiciones alfonsinas de los oficios cancillerescos5. Laicización de lectura y escritura : elevación de la importancia de los oficiales de la cancillería real6. Conclusiones
著者
塩澤 寛樹
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.21, pp.176-157, 2006

はじめに第一章 復興支援の状況、主体者、目的第二章 大仏光背の制作第三章 中門二天像と大仏殿諸像の仏師選定おわりに
著者
佐野 洋子
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.23, pp.151-176, 2008

はじめに1. セミーク・トロイツァ祭2. 白樺編み・白樺ほどき3. カッコウの洗礼4. 契りの儀式
著者
小菅 隼人
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.20, pp.73-96, 2005

はじめに1 .問題の所在2 .第2 幕第4 場:ラヴィニアが失った身体3 .第3 幕第1 場:タイタスの嘆き4 .悲嘆の逆転5 .結論
著者
前田 伸人
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.31, pp.1-23, 2016

【はじめに】【第一章 : ラテンアメリカの探検】【第二章 : コロンビアの政治と経済】【第三章 : アルフレート・ヘットナーの旅行記】【まとめに代えて】
著者
吉田 量彦
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.25, pp.57-78, 2010

はじめに1. 問題の背景 : 『神学・政治論』における自由と反逆2. 意見opinio と行為factum3. 反逆と社会契約
著者
青木 優子 アオキ ユウコ Aoki Yuko
出版者
大東文化大学人文科学研究所
雑誌
人文科学 (ISSN:18830250)
巻号頁・発行日
no.19, pp.61-78, 2014-03

「淡」は中国美学において重要な概念のひとつである。「淡」を含む中国美学の概念グループが一定の美学的価値を確立したのは、北宋時代の文人官僚(本稿では特に欧陽脩、梅堯臣、蘇軾を中心とする)たちの活発な芸術理論によるところが大きい。北宋期の「淡」は、作品の味わいが無いことを指すのではなく、かえって味わいが深いことを指す。一見逆説のようであるが、実は『老子』の「道の口より出づるは、淡乎として其れ味わい無し」(第三十五章)の忠実な解釈であり、それだけでなく、「味」の根源として「無味」を位置づけている。文人たちの理論は、「特定された個別の味」を超えた味=「無味」を感知するよう促し、「淡」の美学的価値を最大限に高めた。本稿では、あらゆる味を含む中国的「無味」を味わうことで、究極の審美体験を目指した北宋以降の「淡」の美学の構造を説いたものである。
著者
成田 和信
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.15, pp.29-53, 2000

我々が思慮deliberationに基づいて一定の信念beliefを獲得できるのは,理性の働きによると思われる。たとえば,「pならばq」という信念と「p」という信念を持っている時に,論理に従って考えれば,たいてい我々は「q」という信念を獲得できる。これは,我々の理性の働きによるのであろう。このような働きをする理性を「理論理性theoreticalreason」と呼ぼう。これと同じように,我々が思慮に基づいて一定の行為へと動機付けられる時に,その動機付けmotivationを生み出す働きをする理性があるとすれば,それを私は「実践理性practical reason」と呼ぶ。(1)たとえば,ある事柄Eを目的として定め,行為Aを行えばEが達成できることが分かった時に,たいてい我々はAを行おうと思うものであるが,こう思うことが(少なくとも部分的には)理性の働きによるとすれば,この理性は実践理性である。(2)本稿の目的は,最近の英語圏で展開されている議論を参考にしながら,実践理性とは何かを,目的の手段となる行為への動機付けの場合に限って,詳しく描くことにある。 私はいま「目的の手段となる行為への動機付けの場合に限って」と書いたが,「目的の手段となる行為への動機付け」を(英語圏の実践理性をめぐる議論の慣習に倣って)「道具的動機付けinstrumental motivation」と呼び,また,そのような動機付けにおいて働く実践理性を「道具的実践理性instrumental practical reason」と呼ぼう。本稿の目的は,実践理性とは何かを,道具的動機付けの場合に限って描くこと,つまり,道具的実践理性とは何かを描くことにある。 さて,本論に入る前に,実践理性をあぐる問題との関連で,いま述べた本稿の目的について補足しておきたいことがある。実践理性をめぐっては二っの大きな問題がある。第一の問題は,実践理性が果たして存在するかという問題である。たとえば,ヒュームは実践理性の存在を否定しているという解釈が成り立つ。(3)したがって,実践理性の存在を肯定するには,少なくともこのようなヒ3 ム解釈に基づく実践理性否定論を論駁することが必要となる。しかし,ここではこの問題には取り組まずに,実践理性が存在することを前提した上で,それがどのようなものなのかを明確にすることを目指す。その後に,稿を改めて,そのような実践理性が存在するかどうかを論じたいと思う。その意味で,本稿は実践理性の存在の問題に対する取り組みの準備作業の一つである。 第二の問題は,実践理性が働くためには(それが働く以前に行為者があらかじめ持っている)欲求が必要であるかという問題である。(4)トーマス・ネイゲル,クリスティン・コースガード,ジーン・ハンプトンなどのカント主義者は,必ずしも必要でないという立場を取る。(5)これに対して,アルフレッド・ミールなどの「合理的ヒューム主義者」と呼べるような論者は,必要であるという立場を取る。(6)本稿では,この問題に関しても特定の立場を取らずに議論を進あたい。この問題へのアプローチのためにも実践理性をできるだけ明確に規定することが必要であり,その意味でここでの作業は,この問題への取り組みの準備作業ともなる。 繰り返しになるが,本稿の目的は,実践理性(正確に言えば,私が「実践理性」と呼ぶもの)とはどのようなものなのかを,道具的動機付けの場合に限って,明らかにすることにある。さて,冒頭に述べたように,実践理性は,人が思慮に基づいて一定の行為へと動機付けられる時に,その動機付けを生み出す働きをする。(7)したがって,実践理性とは何かを詳しく示すためには,「思慮に基づいて」ということと「動機付けを生み出す働き」ということを明確にすることが重要となる。そこで,まず第1節と第2節では,「思慮に基づいて」の「思慮」の部分に焦点を当てる。第1節では,実践理性が働く際になされる思慮とはどのようなものなのかを説明する。第2節では,話を道具的動機付けの場合に絞って,そこでなされる思慮の特徴を細かく見る。次に第3節で,実践理性の「動機付けを生み出す働き」という点に焦点を当て,その働きを明確にする。最後に第4節では,「思慮に基づいて」の「基づいて」という部分に焦点を当て,その意味を明らかにすることによって,実践理性の輪郭をさらに鮮明する。
著者
荒金 直人
出版者
慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会
雑誌
人文科学 (ISSN:09117210)
巻号頁・発行日
no.25, pp.31-55, 2010

1. 『想像力』2. 『想像的なもの』(A.心象について)3. 『想像的なもの』(B.画像について)画像とは何か? - サルトルは,この問いへの答えを,彼なりの仕方で提供してくれているのだろうか。 1936年の『想像力』における問題提起は極めて興味深く,その問題の分析が本格的に展開される1940年の『想像的なもの』(邦題『想像力の問題』)に期待が寄せられる。しかし我々がそこに見出すのは,なかなか突破口を開こうとしない,開いたはずの突破口を渡ろうとしない,慎重でじれったいサルトルである。想像力という観点から画像の問題に接近しようというのは,やはり無理だったのか。心的な像(心象)の経験と物質的な像(画像)の経験とが類似的な志向的構造を有しているという発想自体に,無理があったのだろうか。本稿では,『想像力』と『想像的なもの』においてサルトルが展開する像についての分析が,「画像とは何なのか」という我々の問いに対して何を与えてくれるのか,それを探ってみたい。
著者
前川 貞次郎
出版者
弘文堂書房
雑誌
人文科学
巻号頁・発行日
vol.2, no.4, pp.52-114, 1948-07