- 著者
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若林 陵一
Wakabayashi Ryoichi
- 出版者
- 金沢大学大学院人間社会環境研究科
- 雑誌
- 人間社会環境研究 = Human and socio-environmental studies (ISSN:18815545)
- 巻号頁・発行日
- no.36, pp.109-118, 2018-09-28
本稿では, 中世(主に14 ~ 15世紀中頃)の加賀国得橋郷(現石川県能美市・小松市内)を事例に取り上げた。 この得橋郷はおよそ北部が能美市牛島町・佐野町付近, 東部が小松市上八里 町・下八里町, 南部が小松市佐々木町・荒木田町のあたりであり, その中には加賀国の国府・周辺区域も含まれた。 そして, 本稿ではその郷内のうちいくつかの「村」や区域の様相, 動きに注目した。まずーでは, 郷内でも最も多く史料に登楊する牛島村と佐野村について考察した。 得橋郷に関係する史料ば多くが南禅寺関係の文害であり ここではそのうち郷内の「佐羅別宮御供田」にか かわる相論や, 牛島村・佐野村等の南禅寺領としての成立やその経過などに言及した。 そして, これまではその両村の情報がそのまま得橋郷のイメ ー ジとなっていたことをおさえ, 次の二へと進んだ。二では·, 得橋郷におけるその他の村々について考察した。 関係史料からは両村の他. 佐羅村や今村, 「三名」などの郷内集落に着目した。 中でも得南・益延•長恒「三名」に対する国術の「濫妨」や, 今村と在地寺院涌泉寺の相論, 白山社の進出・「押領」などが注目された。 そして, 得 橋郷では一でみた牛島村•佐野村に加えてその他の「村」や集落も存在し, 同じく南禅寺以外の 領主もかかわって, それぞれの世界ができていたことを指摘した。最後に , 得橋郷では14世紀頃に複数の勢力がかかわり , 同じく複数の集落が登場したが, 現在 の研究ではそれらを含めた複数の世界, 得橋郷社会の全てが明らかになっていないことを指摘し た。 なお, 本稿ではこの頃の村落, 削禅寺領荘園をみる上で全国各地ー加賀国軽海郷・倉月荘, 備中国上原郷•新見荘(現岡山県総社市・新見市) , 摂津国勝尾寺(現大阪府箕面市) , 紀伊国相 賀荘(現和歌山県橋本市) , 近江国奥嶋荘・津田荘(現滋賀県近江八幡市)など一の事例や視点 も努めて参照した。