著者
笠井 純一 笠井 津加佐 Kasai Junichi Kasai Tsukasa
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 = Human and socio-environmental studies (ISSN:24360627)
巻号頁・発行日
no.42, pp.245-261, 2021-09-30

本稿は、北の新地で行われた春の踊や温習会に関わる、大正期から昭和初期の書信を紹介するものである。全て北の新地の経営者であった佐藤駒次郎が受信したものであり、大阪大空襲で湮滅したと考えられてきた大阪花街の史料として希少価値を持つだけでなく、築地小劇場、花柳舞踊研究会、新舞踊運動など全国規模で展開された文化・芸術活動と花街の関りを伝えるものとしても貴重である。演劇・舞踊・文学・美術・音楽などの文化と、社会との関係を考えるための史料として、広く公開したい。紙数の関係から二回に分載し、本稿(下)では、北陽浪花踊と直接関係しない発信者の書信を翻刻・紹介する。
著者
鶴園 裕 笠井 純一 中野 節子 片倉 穣 Tsuruzono Yutaka Kasai Junichi Nakano Setsuko Katakura Minoru
出版者
金沢大学教養部
雑誌
平成2(1990)年度 科学研究費補助金 一般研究(B) 研究成果報告書 = 1990 Fiscal Year Final Research Report
巻号頁・発行日
1991-03-01

1.研究状況の把握 加賀藩はじめ諸藩における「渡来朝鮮人」の研究状況、史料の残存状況を調査・検討し、「日本近世初期渡来朝鮮人一覧稿」を作成した(研究成果報告書に収録)。 2.史料の調査・翻刻 (1)「家伝」の研究及び翻刻を行なった(報告書に収録)。(2)如鉄に関する(1)以外の史料の翻刻を行なった(報告書に収録)。(3)加賀藩における渡来朝鮮人の研究をすすめ、その成果を「加賀藩における渡来朝鮮人」としてまとめた(報告書に収録)。(4)九州地域他の「渡来朝鮮人」関係史料の調査を続行したが、目下整理中である。 3.加賀藩初期『侍塚』の分析 『加賀藩初期の侍帳』(石川県図書館協会)に収録された藩士の石高・役職等を全てパソコンに入力し、家臣団中における「渡来朝鮮人」如鉄の位置づけを明らかにした(報告書に収録)。 4.比較史的研究 東南アジアにおける「渡来朝鮮人」の研究を行ない、その存在形態を明らかにした(報告書に収録)。 5.研究会を月一回のペ-スで開き、研究成果の報告と問題点の整理を行なって、課題の追究に努めた。 6.総括と報告書の作成 上記の研究諸成に立脚し、総論「近世初期渡来朝鮮人冶究序説」をまとめ、諸成果とともに、研究成果報告書『日本近世初期における渡来朝鮮人の研究ー加賀藩を中心にー』に載録して刊行した。 5. Discussion Meeting were held once a month and members of the study team reported on their progress and problems. This helped to facilitate the individual research of team members. 6. Summary and Publication of the Research We summarized the findings of all the members of the study team and this is reported under the heading "Introduction to the Research on the Koreans brought to Japan in the Early Pre-Modern Period". The publication of this research also included the various reports mentioned above. 1. Literature Review Related to This Area of Research We reviewed and examined existing research and documents relating to these Koreans in the Kaga and the other clans and compiled a name list. This name list included such variables as could be determined, example age, rank etc. (Included in this report) 2. The Review and Rewriting of Documents (1) We reviewed and rewrote "Autobiography of Kim Jotetsu". (Included in this report) (2) We rewrote documents related directly to Jotetsu besides 2 (1) above. (Included in this report) (3) We reviewed and researched the history of these koreans in the Kaga clan and the result of this research is reported under the heading "The Koreans in the Kaga Clan". (Included in this report) (4) We expanded this study and included the Koreans brought to the Kyusyu area and other areas and are at the moment finalizing the details. 3. Analysis of the "Soldier's List" of the Early Kaga Clan With the help a personal computer, we analyzed the "Soldier's List" and was able to trace Jotetsu's movement and rise in rank in the Kaga clan. (Included in this report) 4. Comparative Study We also did a comparative study by researching this area in some South-Asian countries and endeavored to clarify the situation of the Koreans at that time. (Included in this report) 5. Discussion Meeting were held once a month and members of the study team reported on their progress and problems. This helped to facilitate the individual research of team members. 6. Summary and Publication of the Research We summarized the findings of all the members of the study team and this is reported under the heading "Introduction to the Research on the Koreans brought to Japan in the Early Pre-Modern Period". The publication of this research also included the various reports mentioned above.
著者
笠井 津加佐 笠井 純一
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科 = Graduate School of Human and Socio-Enviromental Studies Kanazawa University
雑誌
人間社会環境研究 (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.33, pp.149-164, 2017-03

初世菊田歌雄(1879-1949)は. 大阪地域を中心に, 箔曲・ 地歌の教育とその芸能の保存に貢献した女性であった。 当時の邦楽演奏家の多くは, 伝統芸能の専門職集団であった花街と深く関わり, 稽古や踊りの地方として活躍していた。 しかし彼女は, 花街とは関係を持たず, 大阪女子音楽学校 (相愛高等女学校に併設)や大阪市立盲学校などで教えると共に, 伝統芸能の専門職として独自の道を歩んだ。 彼女は継山流箔曲をはじめ, 地歌. 胡弓を習得し, その継承のため教 育に努める一方. 箪曲の採譜とその公刊. 点字楽譜の作成. バイオリン用箪曲譜(五線譜)の公刊も行った。 当時宴席でバイオリンを弾く芸妓がおり, 初世歌雄の譜面が使用された可能性もある。 また新聞で地歌の紹介にも努めている。 彼女の教育活動は, 菊原琴治と共に行った公立 女学校において等曲を正課とする運動へと発展し, 文部省の認可を得て, 箔曲音楽学校の設立に至ったが戦後の学制改革により廃止された。 本稿では, 初世歌雄の等曲教授活動の特色について, 菊田氏(三世歌雄)からの聞き取りと提供史料に即して考察を行った。 初世歌雄の教育と花街の教育は, 共に古典芸能の専門職を育成したという点では似ていた。 しかし, 初世歌雄は将来家庭に入る婦人や箪曲・地歌の専門職を育成する学校で教育を行ったのに対し, 花街における芸妓は一定の見習い期間の後は芸を披露する専門職として扱われ, 日々師匠や先輩芸妓について芸を磨きながら座敷に出た点が異なっている。 本稿では, この教育の在り方の相違が, 両者の音楽性(芸質)に違いを生じさせていると推測したが. 明らかに出来なかった点も多く. 今後の課題としたい。
著者
笠井 純一 笠井 津加佐 沢田 伸 Kasai Junichi Kasai Tsukasa Sawada Shin
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.35, pp.205-222, 2018-03

大阪花街「北の新地」の北陽演舞場は, 1915年に竣工した和風美術建築であった。 ここでは毎春北陽浪花踊が美々しく開演され, 一般市民もこれを観覧するなど, 花街と杜会との接点ともいうべき施設であった。 この建物は1945年6月の大阪大空襲で灰儘に帰したが. 施工者:大林組には詳細な設計図と完成時の写真が多数残されている。 本稿はこれら資料から北陽演舞場の平面 構成と浪花踊観客の動線を紙上に復元し, その結果に基づいて, この建造物の劇場としての特色を追究した。
著者
笠井 純一 笠井 津加佐 KASAI Junichi KASAI Tsukasa
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 = Human and socio-environmental studies (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.40, pp.135-151, 2020-09

This paper is a study of the Nanchi-Yamatoya family and Kuni Sato's family, who influenced the performances given at Osaka kagai, as well as the organic development of jiuta and jiutamai from the end of the Meiji era to the early Shyowa era, and is based on surveys of historical materials and interviews. The following inferences is considered from the above mentioned result. Based on this investigation, it can be seen that, from the beginning of the Taisho era, the names of jiutamai choreographers did not appear in the leaflets of the haru-no-odori of the kagai of Osaka except Nanchi. However, geiko kept training jiuta and jiutamai. It was confirmed that jiuta and jiutamai were taught as basic elements of art at the Naichi-Yamatoya Geiko Training Center. In addition, Han Takehara, Chiho Hida, and En Kanzaki, make the performance of jiutamai spread in Tokyo, and became well-known. Kuni Sato, also went to Tokyo to teach jiutamai. In addition, the performances of kamigatamai-taikai was maintained by the relationship of Yoshitaro Nanki and Komajiro Sato. In 1937, the name of the jiuta player Kotoji Kikuhara appeared in the leaflet of hokuyo-naniwa-odori. It seemed that jiuta has returned to the haru-no-odori performed in kagai. Unfortunately, the performance of haru-no-odori was interrupted by the war between Japan and China. The following inferences is considered from the above mentioned result. Geiko at Osaka kagais was taking various dances with customer's demand and their own quest. They also made an effort for practice of jiuta and jiutamai which originated in Osaka. The posture of such geiko projected her sentiment as well as dignity as an entertainer.
著者
笠井 津加佐 笠井 純一 Kasai Tsukasa Kasai Junichi
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 = Human and socio-environmental studies (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.36, pp.119-135, 2018-09-28

佐藤家史料には, 北陽演舞場で上演された舞踊の舞台下絵が含まれ, その多くは田中良(1884-1974)の制作である。 また少数ではあるが. 田中が佐藤駒次郎へ送った書信も残っている。 北新地(北陽)の経営者にとって田中は, 市村座や花柳舞踊研究会と並ぶ, ネットワ ー クの一員であった。書簡や下絵からは. 田中が佐藤と出会し\北新地で彼の思い描く舞台美術を. 次第 に実現していく様子が伺われる。 芸妓たちの芸の上達を見守り, 藤蔭会や花柳舞踊研究会などで 発表した新舞踊作品を,北禍浪花踊他で上演するなかで, 北新地は彼が志向する舞台美術実現の 場となっていった。 むろん北新地が求めたものは, 観客が求める舞踊の文化水準向上だけではなく, 興行的成功があったことは想像に難くない。 方田中自身は. 己の芸術を高みへと導くため には, 上演のための経済的背景は不可欠ではあるが. 一度でも多く上演機会を得たいと求めたも のと考えられる。 経営者と芸術家の考えは, 出発点にずれがあったとしても, 双方が芸術への情熱を保ち統ければ, 良好な関係が深まっていく場合がある。 北新地と田中の関係は, まさにそう いった関係の軌跡を描いたように考えられる。 このような関係が保持されていたからこそ, 北新 地では人間の意識や心理を描く複雑な作品も上演可能となり, 田中が志向する舞台美術を実現することが出来た。本稿では, 限られた史料を基に考察した結果ではあるが, 田中と北新地はある 時期, 佐藤駒 次郎を媒介として, 志を同じくする美の探求者たり得たことを論じた。
著者
笠井 津加佐 笠井 純一 KASAI Tsukasa KASAI Junichi
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 = Human and socio-environmental studies (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.34, pp.187-198, 2017-09-29

江戸時代に起源をもつ大阪花街は,曾根崎新地(北新地),南地,新町,堀江の四地域を中心とし, それぞれ特色を持つ花街として存在していた。 しかし, それらの沿革や芸能史上の特色を追究した研究は少ない。本稿では, 明治期の史料をもとに各花街の概況を分析した上, 北区大火 (1909) 並びに南区大火(1912)によって, 北新地および南地にどのような変化が生じたか, 新聞記事を用いて跡付けた。 続いて「大阪春の踊」 (1920) の興行成績を分析して北新地・南地の優位性を指摘し, それが明治末年の花街改革の結果であろうと論じた。さらに本稿では, 北新地が伝統芸能を媒介として社会に開かれた空間となったのも 明治末年の花街改革以降であろうと推測した。Osaka Kagai originated in the Edo period. It included four areas: Sonezakishinchi (Kita-no-shinchi), Nanchi, Shinmachi, and Horie. Each area had different characteristics. A few studies have investigated their past and characteristics in the history of entertainment. This study analyzed the general situation of each Kagai, based on historical documents of the Meiji period. Moreover, changes in Kita-no-shinchi and Nanchi caused by the Great Fire of Kita-ku ( 1909) and the Great Fire of Minami-ku ( 1912) were examined using newspaper articles. Subsequently, box-office records of "Osaka Haru-no-Odort' were analyzed, which indicated the superiority of Kita-no-shinchi and Nanchi indicated. It is considered that this superiority resulted from reform of Kagai carried out in the end of the Meiji period. Furthermore, after the Kagai reform at the end of Meiji period, Kita-no-shinchi supposedly became an open space to society, mediated by traditional performing arts.