著者
笠井 純一 笠井 津加佐 Kasai Junichi Kasai Tsukasa
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 = Human and socio-environmental studies (ISSN:24360627)
巻号頁・発行日
no.42, pp.245-261, 2021-09-30

本稿は、北の新地で行われた春の踊や温習会に関わる、大正期から昭和初期の書信を紹介するものである。全て北の新地の経営者であった佐藤駒次郎が受信したものであり、大阪大空襲で湮滅したと考えられてきた大阪花街の史料として希少価値を持つだけでなく、築地小劇場、花柳舞踊研究会、新舞踊運動など全国規模で展開された文化・芸術活動と花街の関りを伝えるものとしても貴重である。演劇・舞踊・文学・美術・音楽などの文化と、社会との関係を考えるための史料として、広く公開したい。紙数の関係から二回に分載し、本稿(下)では、北陽浪花踊と直接関係しない発信者の書信を翻刻・紹介する。
著者
笠井 津加佐 新谷 佳冬
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.14, pp.115-132, 2007-09

金沢大学社会環境科学研究科地域社会環境学専攻新国立劇場バレエ研修所講師
著者
笠井 津加佐 雄谷 ソニア啓子 Kasai Tsukasa Oya Sonia Keiko
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.35, pp.223-239, 2018-03

本稿は,日本伝統文化の海外普及には何が必要かを追究するため,「人間社会環境研究」第24号,第26号での報告に引き続き, 文楽 「曽根崎心中」の受容実態に関する調査を行うと同時に. これまでの調査結果を小括し.今後の調査方法, 分析課題, 分析の意義などを問うことを目的とするものである。今回の調査は, 海外ではスペイン王国, 国内では大阪地域で行った。 これまで. 海外での調査対象は, ドミニカ共和国 アメリカ合衆国におけるラテン系市民であったが, 今回はスペイン文化淵源の地を対象とする。 また対照事例として, 第24号で扱った国内・北陸地域(文楽鑑賞歴を有する者無)に加え, 本稿では文楽の本拠:大阪地域(鑑賞歴を有する者多数を含む)を取り上げた。調査方法は, 前回・前々回と基本的に同じである。自由記述による感想報告を求め, 感想が直哉に表れる述語部分を中心に分類・分析したことも. 従前の通りである。その結果を小括すれば,「肯定的作品受容」では, 海外の3国とも「興味深い」が上位に来ており 国内では, 2地域に共通するサンプルが少なかった。 述語部分が表現する対象のイメージが喚起されるような「色っぽい」「いじらしい」など大阪地域独特のサンプルも見られた。「否定的作品受容」では, 海外では3か国ともに「退屈だ」が上位を占め, 国内ではともに「わからない」が上位であった。「どちらでもない作品受容」では, 海外では東西文化相違の指摘や. 字幕を要請するものがあり.大阪地域では実演を強調し,歌舞伎との比較を語るサンプルが見られた。伝統文化が生き続けるためには, まず興味を持たれ. 理解されることが肝要である。 これまでの調査によれば, 海外受容者の感想は「興味深いが, 理解できず退屈だ」と小括できるものの.字幕の要請が見られることから理解に向けての姿勢も窺われる。 さらに, 伝統文化の発展に寄与する「贔属」へと育っていく鍵が. 大阪地域の調査結果に見られた。 イメー ジを喚起する述語部分の対象は演者個人の芸であり, 述語部分は「芸の好み」を表現していた。以上の考察を通して. 基盤となる調査に種々の問題が検出された。今後, 感想報告の述語部分を分析するためには, 調査参加者の条件や調査結果の分類基準の恣意性を改善し, 翻訳を中心とする分析の是非を検討する必要が確認できた。今後の課題としたい。We investigated requirements for spreading Japanese traditional culture overseas by focusing on the receptiveness to "Sonezaki-Shinju (Love Suicides at Sonezaki)," which is a Bunraku play. Moreover, previous research was reviewed and future research methods, analytical tasks, and significance of the analyses were discussed. The survey was implemented in the Kingdom of Spain and in Osaka, Japan. To date, overseas studies have been conducted in the Dominican Republic and with Latin American citizens in the USA. The present study dealt with the locus of origin of Spanish culture. Moreover, Osaka, where Bunraku originated was compared. The survey methods were basically identical to former studies. The results indicated that Spanish audiences had an impression that "it is interesting but boring because it is difficult to understand." On the other hand, they requested subtitles, suggesting their desire to understand. Moreover, a survey in Osaka indicated the key to the cultivation of "patrons," which contribute to the development of traditional culture. Based on the results above, it was confirmed that it is necessary to improve arbitrariness in conditions of participants and in classification criteria of survey results, and to examine the validity of the analysis focusing on translation, in order to analyze predicate parts of impression reports.
著者
笠井 津加佐 笠井 純一
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科 = Graduate School of Human and Socio-Enviromental Studies Kanazawa University
雑誌
人間社会環境研究 (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.33, pp.149-164, 2017-03

初世菊田歌雄(1879-1949)は. 大阪地域を中心に, 箔曲・ 地歌の教育とその芸能の保存に貢献した女性であった。 当時の邦楽演奏家の多くは, 伝統芸能の専門職集団であった花街と深く関わり, 稽古や踊りの地方として活躍していた。 しかし彼女は, 花街とは関係を持たず, 大阪女子音楽学校 (相愛高等女学校に併設)や大阪市立盲学校などで教えると共に, 伝統芸能の専門職として独自の道を歩んだ。 彼女は継山流箔曲をはじめ, 地歌. 胡弓を習得し, その継承のため教 育に努める一方. 箪曲の採譜とその公刊. 点字楽譜の作成. バイオリン用箪曲譜(五線譜)の公刊も行った。 当時宴席でバイオリンを弾く芸妓がおり, 初世歌雄の譜面が使用された可能性もある。 また新聞で地歌の紹介にも努めている。 彼女の教育活動は, 菊原琴治と共に行った公立 女学校において等曲を正課とする運動へと発展し, 文部省の認可を得て, 箔曲音楽学校の設立に至ったが戦後の学制改革により廃止された。 本稿では, 初世歌雄の等曲教授活動の特色について, 菊田氏(三世歌雄)からの聞き取りと提供史料に即して考察を行った。 初世歌雄の教育と花街の教育は, 共に古典芸能の専門職を育成したという点では似ていた。 しかし, 初世歌雄は将来家庭に入る婦人や箪曲・地歌の専門職を育成する学校で教育を行ったのに対し, 花街における芸妓は一定の見習い期間の後は芸を披露する専門職として扱われ, 日々師匠や先輩芸妓について芸を磨きながら座敷に出た点が異なっている。 本稿では, この教育の在り方の相違が, 両者の音楽性(芸質)に違いを生じさせていると推測したが. 明らかに出来なかった点も多く. 今後の課題としたい。
著者
笠井 純一 笠井 津加佐 沢田 伸 Kasai Junichi Kasai Tsukasa Sawada Shin
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.35, pp.205-222, 2018-03

大阪花街「北の新地」の北陽演舞場は, 1915年に竣工した和風美術建築であった。 ここでは毎春北陽浪花踊が美々しく開演され, 一般市民もこれを観覧するなど, 花街と杜会との接点ともいうべき施設であった。 この建物は1945年6月の大阪大空襲で灰儘に帰したが. 施工者:大林組には詳細な設計図と完成時の写真が多数残されている。 本稿はこれら資料から北陽演舞場の平面 構成と浪花踊観客の動線を紙上に復元し, その結果に基づいて, この建造物の劇場としての特色を追究した。
著者
笠井 純一 笠井 津加佐 KASAI Junichi KASAI Tsukasa
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 = Human and socio-environmental studies (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.40, pp.135-151, 2020-09

This paper is a study of the Nanchi-Yamatoya family and Kuni Sato's family, who influenced the performances given at Osaka kagai, as well as the organic development of jiuta and jiutamai from the end of the Meiji era to the early Shyowa era, and is based on surveys of historical materials and interviews. The following inferences is considered from the above mentioned result. Based on this investigation, it can be seen that, from the beginning of the Taisho era, the names of jiutamai choreographers did not appear in the leaflets of the haru-no-odori of the kagai of Osaka except Nanchi. However, geiko kept training jiuta and jiutamai. It was confirmed that jiuta and jiutamai were taught as basic elements of art at the Naichi-Yamatoya Geiko Training Center. In addition, Han Takehara, Chiho Hida, and En Kanzaki, make the performance of jiutamai spread in Tokyo, and became well-known. Kuni Sato, also went to Tokyo to teach jiutamai. In addition, the performances of kamigatamai-taikai was maintained by the relationship of Yoshitaro Nanki and Komajiro Sato. In 1937, the name of the jiuta player Kotoji Kikuhara appeared in the leaflet of hokuyo-naniwa-odori. It seemed that jiuta has returned to the haru-no-odori performed in kagai. Unfortunately, the performance of haru-no-odori was interrupted by the war between Japan and China. The following inferences is considered from the above mentioned result. Geiko at Osaka kagais was taking various dances with customer's demand and their own quest. They also made an effort for practice of jiuta and jiutamai which originated in Osaka. The posture of such geiko projected her sentiment as well as dignity as an entertainer.
著者
笠井 津加佐 佐藤 恵
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科 = Graduate School of Human and Socio-Enviromental Studies Kanazawa University
雑誌
人間社会環境研究 (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.30, pp.227-249, 2015-09

The aim of this paper is to introduce Banzuke ( 番付 ) materials belonging to the Sato family that relate to Naniwa odori ( 浪花踊 ) . These materials are sourced from the sixteenth up to the twenty-third performance (the final performance before WW II). We have attempted to summarize the features of Naniwa odori, by inserting a table at the end of this paper that includes descriptions of the poets, composers, choreographers, and set designers involved in each performance. In this paper, we suggest that the transfiguration of Naniwa odori was significantly affected by Hanayagibuyokenkyukai ( 花柳舞踊研究会 ). Evidence of this can be found in Ryo Tanaka's writings, which include names of those who participated in Naniwa odori, such as, Shiko Okamura ( 岡村柿紅 ), Jusuke Hanayagi II (二代目花柳壽輔), and Ryo Tanaka (田中良). As we do not have sufficient evidence relating to the music used in the performances, further investigations must be conducted into this aspect.
著者
笠井 津加佐 笠井 純一 Kasai Tsukasa Kasai Junichi
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 = Human and socio-environmental studies (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.36, pp.119-135, 2018-09-28

佐藤家史料には, 北陽演舞場で上演された舞踊の舞台下絵が含まれ, その多くは田中良(1884-1974)の制作である。 また少数ではあるが. 田中が佐藤駒次郎へ送った書信も残っている。 北新地(北陽)の経営者にとって田中は, 市村座や花柳舞踊研究会と並ぶ, ネットワ ー クの一員であった。書簡や下絵からは. 田中が佐藤と出会し\北新地で彼の思い描く舞台美術を. 次第 に実現していく様子が伺われる。 芸妓たちの芸の上達を見守り, 藤蔭会や花柳舞踊研究会などで 発表した新舞踊作品を,北禍浪花踊他で上演するなかで, 北新地は彼が志向する舞台美術実現の 場となっていった。 むろん北新地が求めたものは, 観客が求める舞踊の文化水準向上だけではなく, 興行的成功があったことは想像に難くない。 方田中自身は. 己の芸術を高みへと導くため には, 上演のための経済的背景は不可欠ではあるが. 一度でも多く上演機会を得たいと求めたも のと考えられる。 経営者と芸術家の考えは, 出発点にずれがあったとしても, 双方が芸術への情熱を保ち統ければ, 良好な関係が深まっていく場合がある。 北新地と田中の関係は, まさにそう いった関係の軌跡を描いたように考えられる。 このような関係が保持されていたからこそ, 北新 地では人間の意識や心理を描く複雑な作品も上演可能となり, 田中が志向する舞台美術を実現することが出来た。本稿では, 限られた史料を基に考察した結果ではあるが, 田中と北新地はある 時期, 佐藤駒 次郎を媒介として, 志を同じくする美の探求者たり得たことを論じた。
著者
笠井 津加佐 笠井 純一 KASAI Tsukasa KASAI Junichi
出版者
金沢大学大学院人間社会環境研究科
雑誌
人間社会環境研究 = Human and socio-environmental studies (ISSN:18815545)
巻号頁・発行日
no.34, pp.187-198, 2017-09-29

江戸時代に起源をもつ大阪花街は,曾根崎新地(北新地),南地,新町,堀江の四地域を中心とし, それぞれ特色を持つ花街として存在していた。 しかし, それらの沿革や芸能史上の特色を追究した研究は少ない。本稿では, 明治期の史料をもとに各花街の概況を分析した上, 北区大火 (1909) 並びに南区大火(1912)によって, 北新地および南地にどのような変化が生じたか, 新聞記事を用いて跡付けた。 続いて「大阪春の踊」 (1920) の興行成績を分析して北新地・南地の優位性を指摘し, それが明治末年の花街改革の結果であろうと論じた。さらに本稿では, 北新地が伝統芸能を媒介として社会に開かれた空間となったのも 明治末年の花街改革以降であろうと推測した。Osaka Kagai originated in the Edo period. It included four areas: Sonezakishinchi (Kita-no-shinchi), Nanchi, Shinmachi, and Horie. Each area had different characteristics. A few studies have investigated their past and characteristics in the history of entertainment. This study analyzed the general situation of each Kagai, based on historical documents of the Meiji period. Moreover, changes in Kita-no-shinchi and Nanchi caused by the Great Fire of Kita-ku ( 1909) and the Great Fire of Minami-ku ( 1912) were examined using newspaper articles. Subsequently, box-office records of "Osaka Haru-no-Odort' were analyzed, which indicated the superiority of Kita-no-shinchi and Nanchi indicated. It is considered that this superiority resulted from reform of Kagai carried out in the end of the Meiji period. Furthermore, after the Kagai reform at the end of Meiji period, Kita-no-shinchi supposedly became an open space to society, mediated by traditional performing arts.