著者
戸田 聡
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 = Journal of religious studies (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.2, pp.397-421, 2014-09

「しあわせ」「幸福」は現世で感得される心的状態を表すが、キリスト教修道制が目指したのは救済であり、幸福とは明らかに異なる(「幸福感」とは言えても「救済感」とは言えない)。しかも救済に到達するために、修道制は、この世で得られる様々な幸福の源泉(飲食、性、家族関係)を放棄している。修道制における幸福を語ることがそもそも可能かどうかは問われてよい。キリスト教の中には、現世での幸福は観照に存するとする伝統があり、それを紹介しているピーパーの議論を本稿では詳しく検討したが、言うところの「幸福」があまりに抽象的だとの感が否めない。幸福はもっと日常的に人々が感得できるものであり(例えば、喜びを通じて)、その観点から見れば、修道士もまた、生活形態こそ通常人のと異なるとはいえ、何らか人間関係の中で日常生活を営んでいたのであり、彼らもまた幸福を感得できたという可能性は否定できない。
著者
林 研
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 = Journal of religious studies (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.621-645, 2014-12

ジェイムズの学説「信じる意志」は、情的本性に基づく信仰を正当化する試みだが、何でも好きなように信じてよいということではない。想定されているのは「生きた」仮説を信じるか疑うかの葛藤状態であり、そこでの実践倫理が問題なのである。人間心理において、蓋然性と望ましさは分離し難く、証拠なしには信じない態度も実は誤謬への恐怖に基づく。その一方で、人間本性には証拠がなくとも信じる暗黙の合理性がある。それならば倫理的基準としては証拠よりも、プラグマティズムが要請する帰結の整合性の方が相応しいとジェイムズは考える。さらに、宗教は「事実への信仰がその事実を生み出す助けになりうる」命題であり、その真理性を検証するにはまず信じなければならない。つまり、ジェイムズの言う「信じる」は盲信ではなく、整合性を検証しつつ真理を生み出すことである。この場合、救いを求める者にとっては、信じることが懐疑に優越すると言うことも可能になる。
著者
江島 尚俊
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 = Journal of religious studies (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.571-595, 2014-12

現代日本に生きる我々は、大学という高等教育機関において宗教が学べ、宗教を研究できることを自明なものと認識している。しかし、近代的な大学制度が無かった明治以前において、その認識は成立し得なかった。そこで本稿では、この認識を"新しい自明さ"と設定した上で、それを成立せしめた制度的条件の解明を行っていく。方法としては、高等教育制度史および教育政策史の観点から、明治期の文部行政、および文部省と宗教系専門学校の関係に焦点を当てていく。最初に、明治前期の文部省が有していた専門学校に対する消極性、および宗教系諸学校に対する忌避意識を明らかにする。次に、宗教系諸学校に対する方針転換をした文部省が明治三〇年代になって制定する私立学校令・専門学校令を契機として、高等教育の中に宗教を学び、研究するという体制が拡大していくことを論じる。結論としては、宗教系専門学校が近代教育制度の中において、宗教を学問的に教育・研究する学校と位置づけられていったことを明らかにする。
著者
橋迫 瑞穂
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 = Journal of religious studies (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.88, no.3, pp.597-619, 2014-12

本稿は、一九八〇年代に主として少女たちの間で流行した「占い・おまじない」が、特に学校で人間関係を築くさいに生じる軋轢に対応するための手段を与えるものであったことを、少女向けの占い雑誌『マイバースデイ』を分析することによって明らかにすることを目的とする。従来、「呪術=宗教的大衆文化」のなかでも「占い・おまじない」は、少女が自身の立ち位置や周囲との人間関係を推し量りながら自己を定位する「認識のための『地図』」としての役割を担うものとして彼女らに消費されたととらえられてきた。しかし、『マイバースデイ』を詳細に分析した結果、「占い・おまじない」は、少女たちが学校生活に適応する過程に神秘的な意味を与えることで、学校を人間関係構築のための修養の場に作り変える働きを有するものであり、さらには、彼らに緩やかな共同体を形成する場を提供する働きをも担っていたことが明らかになった。
著者
澤井 努
出版者
日本宗教学会
雑誌
宗教研究 = Journal of religious studies (ISSN:03873293)
巻号頁・発行日
vol.87, no.3, pp.549-571, 2013-12

本稿では、江戸時代中期の市井に生きた思想家、石田梅岩(一六八五-一七四四)の思想に注目し、「儒者」と称した彼が生と死に関する実存的な問いにいかに向き合ったのかを明らかにした。従来、儒教の主たる関心事は、概して死、死者、死後の世界など死に関わる問題ではなく、現生、今現に生きている人間など生に関わる問題にあるとされてきた。しかしながら、梅岩が著したテクストを踏まえれば、生とは何か、死とは何か、という実存的な問いに対して、彼がむしろ真摯に向き合った跡を読み取ることができる。それは、具体的に「心」を知るという修行、すなわち、宇宙論的に生と死の意味を捉えなおすことによって行われた。本稿では梅岩が周〓渓による「太極」の生成論を基本的に踏襲していることを確認したうえで、彼が死後の「霊」の存在について如何に解釈したのかについても言及した。「不生不滅」の議論を踏まえれば、死後も「性」はそのままその場に止まる。また、梅岩独自の言語観(「名」が存在を存在せしめる)に基づけば、生者が死者の存在を「霊」と名づけ、その「霊」を誠意を持って祭る場合に「霊」は確かに存在するのであった。