著者
岩谷 彩子
出版者
「宗教と社会」学会
雑誌
宗教と社会 (ISSN:13424726)
巻号頁・発行日
no.6, pp.3-26, 2000-06-17

本稿では、フランスで「ツィガン(ジプシー)」と呼ばれている人々の、ペンテコステ派キリスト教への大規模な改宗運動を例に、改宗という行為の背景を考察する。従来のジプシー研究では、本質主義的なジプシー文化論と、形式主義的なジプシーの「宗教利用」論が交錯し、ジプシー社会における宗教の位置づけは矮小化されてきた。そこで本稿では、ジプシーの改宗を、集団と個人の選別意識との相関から論じることで、従来尚のジプシーの宗教研究、改宗論一般に新たな視座を提供する。具体的には、4章でジプシー福音宣教会(MET)による宣教が、ジプシーが対峙してきた様々な集団間の差異を、キリスト教の論理によって超越させたことにより改宗が進んでいる点を論じる。5章では、集団間関係に収斂されない場で生じている個人と神との結びつきについて触れ、その結びつきが実際にジプシー社会の中で生かされたことが、大規模な改宗運動を支えている点を指摘する。
著者
岩谷 彩子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.441-458, 2009-12-31 (Released:2017-08-18)

本稿は、インドの移動民ヴァギリが想起し語る夢を事例として、日常的に変容を続ける自己の営みを探求する試みである。従来の人類学的な夢研究では、テクスト化された夢を当該社会の集合表象として分析する研究や、危機に陥った自己が新しい世界観や時間構造のもとで自己を語りなおし、社会のなかで再構造化される契機として夢をみなす研究が提出されてきた。これに対して本稿では、語りや解釈を逃れる夢のイメージの持続が反復的な夢の想起をうながしている状況に着目した。ヴァギリ社会には「神の夢を見たら儀礼をする」という言説があり、多くの夢は儀礼を契機に想起されている。しかし、夢は必ずしも安定的に想起され語られるわけではない。本稿では同一個人に時間をあけて同じ夢を語ってもらい、その語りの変容について考察した。そこで明らかになったのは、第一に、ヴァギリの夢に繰り返し立ち現れる内/外を行き来する運動イメージの重要性である。この運動のイメージが夢の解釈を握る重要な基点となっており、そこから夢を見る主体がおかれた状況の変化に応じるかたちで、夢に現れる身体感覚や表象のあり方に変化が見られた。第二に、夢の想起と語りは、常に自己をとりまく他者との関係に依存しているという点である。夢を反復想起して他者に語る過程で、類似したイメージの夢が異なる主体間で反復されていた。また、語りに夢のイメージを意味づける観点が導入されたり、語りそびれた部分が残ることで夢のイメージが保持されていた。このように他者との関係において夢として想起され語られた運動イメージと身体感覚の持続と消失が、その後の夢とその語りを自己にもたらしていた。自己は予測不可能な他者との出会いと想起の機会に依存し、語りつくせない夢のイメージに導かれている。本稿では、そのような自らにずれを生じ続ける自己を〈身体-自己〉として例証した。それは、自己がメタモルフォーシスする持続的な過程なのである。
著者
岩谷 彩子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.74, no.3, pp.441-458, 2009-12-31

本稿は、インドの移動民ヴァギリが想起し語る夢を事例として、日常的に変容を続ける自己の営みを探求する試みである。従来の人類学的な夢研究では、テクスト化された夢を当該社会の集合表象として分析する研究や、危機に陥った自己が新しい世界観や時間構造のもとで自己を語りなおし、社会のなかで再構造化される契機として夢をみなす研究が提出されてきた。これに対して本稿では、語りや解釈を逃れる夢のイメージの持続が反復的な夢の想起をうながしている状況に着目した。ヴァギリ社会には「神の夢を見たら儀礼をする」という言説があり、多くの夢は儀礼を契機に想起されている。しかし、夢は必ずしも安定的に想起され語られるわけではない。本稿では同一個人に時間をあけて同じ夢を語ってもらい、その語りの変容について考察した。そこで明らかになったのは、第一に、ヴァギリの夢に繰り返し立ち現れる内/外を行き来する運動イメージの重要性である。この運動のイメージが夢の解釈を握る重要な基点となっており、そこから夢を見る主体がおかれた状況の変化に応じるかたちで、夢に現れる身体感覚や表象のあり方に変化が見られた。第二に、夢の想起と語りは、常に自己をとりまく他者との関係に依存しているという点である。夢を反復想起して他者に語る過程で、類似したイメージの夢が異なる主体間で反復されていた。また、語りに夢のイメージを意味づける観点が導入されたり、語りそびれた部分が残ることで夢のイメージが保持されていた。このように他者との関係において夢として想起され語られた運動イメージと身体感覚の持続と消失が、その後の夢とその語りを自己にもたらしていた。自己は予測不可能な他者との出会いと想起の機会に依存し、語りつくせない夢のイメージに導かれている。本稿では、そのような自らにずれを生じ続ける自己を〈身体-自己〉として例証した。それは、自己がメタモルフォーシスする持続的な過程なのである。
著者
菅原 和孝 木村 大治 舟橋 美保 細馬 宏通 大村 敬一 岩谷 洋史 亀井 伸孝 岩谷 彩子 坊農 真弓 古山 宣洋
出版者
京都大学
雑誌
基盤研究(B)
巻号頁・発行日
2012-04-01

本研究は、身ぶりと手話を微視的に分析し、対面相互行為の構造を身体性の基盤から照射した。また、通文化的な視野から、映像人類学、コミュニケーション科学、生態心理学の思考を交叉させ、マルティ-モーダルな民族誌記述の土台を作った。とくに、アフリカ狩猟採集民サン、カナダ・イヌイト、インドの憑依儀礼と舞踊、日本の伝統的な祭礼、日本酒の醸造、ろう者コミュニティ、数学者の討議といった多様な文脈における発話と動作の連関を解明し、記憶の身体化を明らかにした。さらに、過去の出来事が語られるプロセスを、表情をおびた身ぶりとして了解することにより、表象と知覚の二項対立を乗り超える理論枠を提示した。
著者
岩谷 彩子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
日本文化人類学会研究大会発表要旨集 日本文化人類学会第43回研究大会 (ISSN:21897964)
巻号頁・発行日
pp.46, 2009 (Released:2009-05-28)

占いは、予測不能な人間の生の謎に対して、日常的な秩序を越えた「他なるもの」を設定し、それまで生に与えられていた意味をいったん宙吊りにさせて新たに語りなおす技芸である。そこでは相談者の人生の別の意味が、物品と語りを用いて編みなおされていく。本報告では、インドの占い師と相談者との具体的な交渉の場を事例とし、生の謎解きとしての側面が合理的、あるいは倫理的な次元を超越する点について考察する。
著者
磯前 順一 小倉 慈司 苅田 真司 吉田 一彦 鍾 以江 Pradhan Gouranga 久保田 浩 山本 昭宏 寺戸 淳子 岩谷 彩子 小田 龍哉 藤本 憲正 上村 静
出版者
国際日本文化研究センター
雑誌
基盤研究(A)
巻号頁・発行日
2019-04-01

西洋近代に由来する人権思想の世界的な普及にもかかわらず、当の西洋においても、あるいは日本などの他のさまざまな地域においても、差別(人種差別だけでなく、いじめや戦争、 テロまでを含む)が依然としてなくならないのは、なぜだろうか。本研究では、これまで「聖なるもの」と「俗なるもの」の二分法で説明されてきた「宗教」と「社会」とのありかたの理解を、日本宗教史と世界諸地域の比較宗教史との学問の蓄積からあらたに問いなおし、現代社会における公共性の問題と結びつけて検討する。そのことで、公共空間における差別と聖化の仕組みがあきらかになり、より具体的な公共性のあり方についての議論が可能になることが期待される。
著者
岩谷 彩子
出版者
日本文化人類学会
雑誌
文化人類学 (ISSN:13490648)
巻号頁・発行日
vol.82, no.2, pp.213-232, 2017 (Released:2018-04-13)
参考文献数
37

本論文の目的は、グローバル化が進むインド、グジャラート州アフマダーバードの路上で取引される古着のフローから、インドの公共空間の生成的な側面について明らかにすることである。インドにおける公共空間の議論では、西欧社会における公私の概念とは異なる公共概念の存在やその公共性を担う主体をめぐる議論が中心であり、インドの公共空間は西洋的な公共概念を含みつつも多層的で、異なる主体の利害対立の場として描かれてきた。しかしグローバル化が進む現代インド社会において、そのような対抗的な公共空間の描き方は妥当なのだろうか。 この問いについて、本論文では2つの異なる空間とそこから派生している〈道〉を対比させることで検討した。まずとりあげたのは、アフマダーバード旧市街の再開発の一環で移設されたグジャリ・バザールという日曜市である。再開発の結果、スラムを含み混沌としていた日曜市は、整然と管理されたグローバルな空間に変貌し、目的と利用時間を制限された「ゲーテッド・マーケット」化しつつある。もう1つは、アフマダーバード市内外から持ち込まれる古着とそれを取引する人により占拠された、同じく旧市街のデリー門前の路上である。ゲーテッド・コミュニティや中上流階層から集められた古着は、路上市を介して日曜市をはじめとする市内外の路上市や国外市場に流入し、古着を加工する新たなコミュニティの空間も生み出していた。路上市の公共性は、異なる階層やコミュニティ間の差異を媒介し、古着が変形しフローする〈道〉を様々な場所に現出させている点にある。グローバル化により変貌する都市空間とは一見対照的な路上市だが、両者は相互に影響を与え合い同時に成立している。ある地点がグローバルな秩序に組み込まれることになろうとも、 別の地点に新たな〈道〉が用意される。こうした潜在力にこそインド的な公共空間とそこで生きる人々のあり方が見出せるのである。