著者
古田 尚輝
出版者
成城大学文芸学部
雑誌
成城文藝 = The Seijo Bungei : the Seijo University arts and literature quarterly (ISSN:02865718)
巻号頁・発行日
no.196, pp.266-213, 2006-09

本稿は、日本のテレビ放送で1950年代から60年代前半にかけて「映画」という表記とその内容がどう変化したかを調べ、その要因を考察するものである。要因は、新興の放送産業と映画産業との関係、放送局の自主製作能力の向上、それに番組編成の変化の3つにあると考えられる。日本の放送局は、テレビ放送開始当初、番組製作能力が未熟であったため、編成の多くを映画会社等が製作したフィルム作品に依存した。そして、ニュース映画、短編映画、漫画映画、劇映画の4種類を概括的に「映画」と表記して放送した。これらはすべて放送局以外の外部製作であった。53年春、NHKはまずフィルムニュースの自主製作を始め、同年11月には外部製作のニュース映画と区別して『映画ニュース』と題して放送し、54年6月にはそこから「映画」表記を除いて『ニュース』として独立させた。NHKはまた、54年度から短編映画の自主製作も始め、54年8月から定時番組『短編映画』を編成し、外部製作と区別して「NHK製作」と表示して放送した。そして、表現法や撮影技術が向上すると、57年11月には「映画」表記のない初めてのフィルム番組『日本の素顔』を始めた。外部製作の作品はその後も「短編映画」と題して放送されたが、本数が減少し、逆に独自の番組名を持ったフィルム番組が増加する。こうして、50年代末までにニュース映画と短編映画から「映画」表記が消える。ニュース映画と短編映画の2つの分野は、映画産業のなかでも周辺に位置し、膨大な経費と人員も必要とせず、放送局の参入が比較的容易であった。一方、漫画映画は、1970年代後半にアニメーションという言葉が定着し「映画」表記が消滅するが、アニメーション製作業は放送への依存度が高く、当初から放送産業の支援産業として組み込まれた。こうして大手映画会社の劇映画だけが最後まで「映画」として残った。大手映画会社は、テレビ放送を敵視する一方でテレビ放送事業に参画するという両面性を見せ、テレビ放送対策で混迷した。日活を除く5社は54年度から55年度にはテレビ放送に劇映画を提供したが、56年度以降は提供を拒否し、58年には日活も加わって「6社協定」を結び、6社の劇映画はすべてテレビ画面から姿を消した。放送局はその空白をテレビ放送用に製作されたアメリカ・テレビ映画の大量編成で埋めた。一方、大手映画会社は、59年に開局した民間放送局に出資し、同時にテレビ映画製作にも着手する。そして、64年2月には再び劇映画のテレビ放送提供に方針転換する。大手映画会社の劇映画が姿を消した58年から64年までの"空白の6年間"は、テレビ放送が事業収入を急速に伸ばし自主製作能力を高め、産業として自立する時期である。逆に映画産業は58年をピークに凋落の傾向が顕著となり、経営規模でも放送産業に凌駕されてゆく。本稿が対象とした50年代から60年代前半は、映画からテレビ放送への映像メディアの主役交代の時期であった。テレビ放送における「映画」表記の変遷にも、こうしたメディアの交代と産業構造の変化が反映していると考えられる。
著者
シュミット-ラウバー ブリギッタ 及川 祥平 ゲーラット クリスチャン
出版者
成城大学文芸学部
雑誌
成城文藝 = The Seijo Bungei : the Seijo University Arts and Literature Quarterly (ISSN:02865718)
巻号頁・発行日
no.251, pp.40-1, 2020-04-30

本稿はドイツ語圏の民俗学の概説書『民俗学の方法』(原題 Methoden der Volkskunde アルブレヒト・レーマン、シルケ・ゲッチュ編)所収、ブリギッタ・シュミット-ラウバーの「Feldforschung-Kulturanalyse durch teilnehmende Beobachtung」の全訳(翻訳: 及川祥平, クリスチャン・ゲーラット)である。